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山崎貴監督 『ゴジラ−1.0』 : 戦後日本へのアンチテーゼ

映画評:山崎隆監督『ゴジラ−1.0』(2023年)

大ヒットした庵野秀明監督作品『シン・ゴジラ』から7年、山崎貴監督による『ゴジラ−1.0』が公開され、大ヒット中である。

庵野秀明監督の『シン・ゴジラ』(2016年)の画期性は、「怪獣プロレスもの」に堕してマンネリ化していた「ゴジラ」を、いかに「原点」に戻しつつ「新しい」ものにするかという点にあったし、それは十分に達成されていたと思う。

「原点回帰」とは、1954年に公開された本多猪四郎監督によるオリジナル版『ゴジラ』意識したものだが、この作品が示す「ゴジラ」の原点とは、「原水爆」に象徴される「最終兵器」の、地球環境に対する壊滅的な危険性への警鐘とともに、報いとしての「自然の脅威(自然災害)」ということだったのではないかと、私は考えている。
つまり、今のご時世で言うならば、「地球温暖化」による「地球環境の絶対的な危機」ということになり、この場合「ゴジラ」は、「放射能」ではなく、むしろ「二酸化炭素」を吐きまくる怪獣だと考えてもいいだろう。

(1954年版『ゴジラ』より)

『シン・ゴジラ』の場合は、なんといっても、2011年の「東日本大震災」とそれに伴う「福島第一原発事故」のインパクトの大きさのせいで、「ゴジラ」を自然災害(津波)の象徴だと考えやすかったし、その口から吐かれるのは「放射性(光線)」だというのにも説得力があった。
だから、それで良かったのだろうが、今のご時世では「原子力発電は、二酸化炭素を排出しない、クリーンエネルギーです」などと、またぞろ喧伝させているくらいだから、逆に言えば、それくらい「二酸化炭素」の脅威が決定的なものになっている、ということである。

(「クリーンエネルギーの安定供給のためには、原子力発電も必要」と、それとなくアピール)

無論、私は「原子力発電」にも反対であり、だからといって「二酸化炭素の排出もやむを得ない」と言っているわけではない。
つまり、二者択一ではなく、所詮「原子力発電」は、「二酸化炭素の脅威」に「放射能の脅威」をプラスするものにしかならないだろう、と考えるからである。
つまり、「ゴジラ」が2匹になるだけだということである。

ともあれ、庵野秀明監督の『シン・ゴジラ』は、「原点回帰」として「地球環境破壊」とその報復としての「自然の脅威」というワンセットを復活させた上で、現代の自衛隊と人々の叡智の結集で「ゴジラを凍結する」という結末を描いた。これはいかにも「原発の石棺化」を思わせるものであり、その意味でも「現代的」でもあるから、『シン・ゴジラ』の「シン」は、「原点回帰」という意味での「真」であるとともに、「現代」的ということでの「新」をも達成した作品であったと、私は評価する。

(『シン・ゴジラ』より)

だが、こうした「意味論」的な評価は別にして、単純に「好み」の問題として個人的な感想を言わせてもらえば、私は世評ほどには『シン・ゴジラ』という作品が、好きにはなれなかった。
いかにも『新世紀エヴァンゲリオン』の庵野秀明が作った「ゴジラ」という感じで、スタイリッシュでスピーディーではあるものの、少なくとも私が、オリジナル『ゴジラ』に感じたような「重々しさ」あるいは「威厳」のようなものが欠けているように感じられたのだ。
それは、人間側の対応のスピーディーさによるところも大きかっただろう。オリジナル『ゴジラ』は、最後に「原爆」にも似た「秘密兵器」が出てくるとは言え、それまでは「人は、為すすべを持たない弱い存在」として描かれ、その対比として、「ゴジラ」には圧倒的な重みがあった。
また、最終兵器でしか「ゴジラ」を倒せないというところが、人間の「業」や、「暗い未来」を象徴するようでもあり、そこがわたし的には良かった。

一一要は、『シン・ゴジラ』は、オリジナル『ゴジラ』に比較して、人類を「肯定的」に描き過ぎているという印象が私にはあって、そこが嫌いだったのである。

 ○ ○ ○

そんなわけで、山崎貴監督の『ゴジラ−1.0』である。

これも個人的な好みから言わせてもらうと、『シン・ゴジラ』より、本作の方が私は好きである。
ちなみに私は、庵野秀明のファンだ。バッシングを受けた『シン・仮面ライダー』については、反論の論陣を張った自負もある。

だが、それでも「ゴジラ」については、本作の方が好きだというのは、たぶん、本作の場合、人間のやっていることが泥臭いし、「それでは、ゴジラには勝てないでしょう」というレベルに止まっているところが、かえって良かったのではないかと思う。

だから、人間が勝ってしまったところには無理を感じるのだが、それでも、まだハッキリと「無理」がわかる方が、まともにやって勝てましたみたいな(『シン・ゴジラ』の)感じよりは好ましかった。
近年の娯楽映画では定番の、スタッフロールの後の「実はまだ、完全には死んでませんよ」という「蛇足」によるエクスキューズはあるにせよ、ひとまず「人間が頑張って勝ちました」という「無理」は、「娯楽映画」に許される「嘘」として、相応に完成していたと思うのである。

もちろん、この映画には、そもそものところで無理がある。その第一のものが「米軍が出てこない」という点である。
作中では「ソ連の動向を気にして、米軍は動かせないと、GHQが判断した」みたいな説明をしているが、これはいかにも無理筋だ。

そもそも、戦争に勝って、日本を占領したのは「戦勝国の連合国」であって、アメリカそのものではない。「GHQ」という組織は「連合国」の組織であって、アメリカの組織ではないのだ。
ただ、日本の占領政策に関しては、実質的に日本を倒したアメリカが、占領国の代表として、その主導権を握り、その任にあたっていた。さらには、ポツダム宣言の受諾により「日本軍」はすでに解体されていたのだから、日本を守るのは「GHQ」の任務であり、「連合国」の任務なのである。すなわち、実質的には米軍の任務なのだ。

(GHQが置かれた東京・日比谷の第一生命ビル)

作中で語られる「ソ連の動向」ということも、無論、ないではないけれど、外から日本に攻め込んでくる、軍隊級の「外敵」があるのであれば、「連合国組織のGHQ」として、アメリカはソ連などにも筋を通した上で、ソ連から「では、責任を持って、ひとまず米軍で対処してください」ということになるのではないだろうか。

日本の戦後史を見ても、アメリカが対ソ連(共産主義)を打ち出し始めるのは、ソ連の主だった動き以前に、日本国内で復活した「日本共産党」の主導による「ゼネスト」宣言(1947年)などがあったからだ。
当初GHQは「平和憲法たる日本国憲法」に象徴されるように、「押しつけ」などと言われるほどに、本気で日本の「非軍事・民主化」を進めていたのだから、いまさら日本人に戦わせるわけにはいかない。
もちろん、本作での、ゴジラの最初の襲来時は、「台風」くらいの軽い感じで考えていたために、日本政府に対応を任せたのだとしても、ゴジラの銀座での大暴れを見れば、もはや放ってはおけないと考えて当然なのではないだろうか。きっと、あの銀座にも進駐軍の米兵はいたはずだと思うのだ。
ハッキリは記憶していないが、たしか本作での、ゴジラの最初の日本襲来は、終戦の翌年(か、その翌年。1946、1947年)という設定ではなかったか。

「駐軍の宿舎そばで子どもたちと触れ合う兵士」
(『ゴジラ−1.0』より)
(『ゴジラ−1.0』より)

銀座のシーンでは、「戦車」も登場していたが、この戦車は、誰が動かしていたのだろう?
たしか「灰色一色」で、日の丸は無論、アメリカの白星マークも入っていなかったように記憶するが、まあ、日本軍ではないはずだから、米軍のはずなのだが、なぜ、あの頃の米軍の主力戦車である「M4シャーマン戦車」ではなく、旧日本陸軍の戦車に似たかたちの戦車だったのだろうか?
一一これも結局は、怪獣映画としてのお約束として、是非とも戦車を出したかったのだけれど、米軍を出すわけにもいかなかった結果の、「折衷案」だったのではないだろうか。

「東京の地名がついたアメリカ陸軍M4戦車「シャーマン赤羽スペシャル」…なぜ赤羽?」

ともあれ、アメリカが、明確に「反ソ・反共」を打ち出すのは、1950年の「朝鮮戦争」からのことであり、そこから日本の、いわゆる「逆コース」も始まるのだから、本作で描かれた1946年、1947年当時に「ソ連に気兼ねして、米軍を動かせない」というのは、「史実」には合わない、無理があるのではないだろうか。

では、どうして、米軍を出さなかったのかと言えば、それは無論「ゴジラ対米軍(連合国軍)」では「日本映画」にならないからだろう。
実質的米軍である連合国進駐軍がゴジラと戦うのを、日本人は指をくわえて見ているだけというのでは、まったく様にならないので、無理矢理「ソ連に気兼ねして、米軍は動けませんでした」ということにしたのではないか。
だが、繰り返していうが、「進駐軍」は「米軍(アメリカ軍)」ではない。建前としては「連合国軍」なのである。だから、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)として、連合国各国と「話し合い」をして、「ゴジラ」対策を検討しろよ、という話なのである。

そんなわけで、本作の「日本人がゴジラと戦って、戦争の決着をつけた(清算した)」というのは、かなり無理筋のお話づくりなのだが、そうしないことには「お話にならなかった」ということでもあったのだろう。

で、こんな無理筋の話にしたのは、前述のとおりで、まず「日本人が活躍しないと、日本映画にならない」ということ事情なのだろうが、それに加えて「好意的」に考えるならば、戦後も「戦争を精算することができず、アメリカの占領政策の方針転換に伴って、日本の戦争責任者たちが政治の表舞台に復活し、軍隊まで復活させてしまった戦後日本」つまり、現実には「戦争を精算できなかった日本」の「アンチテーゼ」としてこの作品が作られたため、こうした無理のある話になったと、そう考えることもできる。

(『ゴジラ−1.0』より)

日本が「戦争」を終わらせて、真の「民主国家」になるためには、占領国主導による「民主化」ではなく、先の戦争の「加害責任」を、自ら深く銘記した上での、日本人自身による「民主化」が必要だった。
だが、占領されていたとは言え、それを占領軍に丸投げするかたちでやったために、真の「戦争の清算」をし損なって、「アメリカの属国」になってしまったのが「今の日本」だと、そんな思いも込められていたのではないかと慮る。

本作のラストでの、主人公を含む日本人たちの晴れやかな顔は「自分たちで責任をとった」が故の、晴れやかさだったのではないか。
だからこそそれは、「現実の日本」としての「今の日本」には無い、「憧れ」にも似たものだったのではないだろうか。

しかし、「もしも占領軍がいなかったなら」という「if」を設定したとしても、現実には、日本が「戦前の国体」をそのまま残す国になっていたであろうというのは、「新憲法」関係等の各種歴史資料が示すところだから、本作が「無理筋のファンタジー」になったというのも、それはそれで仕方のないことだったのだろうと、私は考える。

本作は「自立だけではなく、自律できなかった日本人」の、達成し得ない「自律的自立への憧れ」を描いた作品だと、そのように見ても良いのかもしれない。


(2023年11月8日)

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