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三上智恵 『証言 沖縄スパイ戦史』 : 戦地における 〈加害者と被害者〉

書評:三上智恵『証言 沖縄スパイ戦史』(集英社新書)

まず強調しておかなければならないのは、本書が「十年に1冊」級の、じつに素晴らしい本であるという事実だ。
すでに先行のレビュアーたちが指摘しているにもかかわらず、私があえて繰り返すのは、本書がそれほど破格に優れたものであるからで、当然のことながら、今年(2020年)刊行の「人文書のベスト本」であることは疑い得ない(あえて指摘しておくが、人文書ランキングにおいて、本書の版型が不利に働くことは許されない)。

本書の凄さは、その情報量ではなく、中身の濃さであり、にもかかわらず、決して読みにくいことはない。そして、本書は単に「これまで知られていなかった沖縄戦の隠されていた側面を暴く」だけには止まらない点だ。

隠されていた「スパイ戦(諜報戦のことではなく、非正規秘密戦のこと)」の実態を徹底的に追及していく中で、著者が見いだしたのは「戦場においては、被害者ばかりが被害者ではなく、加害者に当たる人もまた、戦争のために加害者とならざるを得なかったという意味において、深く傷つけられた被害者であった」という「現実」である。
戦場においては、そこにいる誰もが「戦争被害者」となってしまうという「戦争の本質」が、関係者への徹底取材によって明らかにされていく。

本書は、大きく4つのパートに分かれる。
(1)スパイ戦要員となった少年兵たちの証言
(2)沖縄でのスパイ戦を組織し指揮した、陸軍中野学校卒の若き将校たちの肖像
(3)スパイ容疑による民間人虐殺の実態
(4)虐殺した側の肖像と論理

(1)では、これまで隠されていた「被害者」の実態が紹介される。(2)では、少年たちをゲリラ兵に仕立てあげた、言わば「加害者」である若き将校たちの「本来の人となり」が紹介されて、彼らもまた「被害者」であったことが明らかにされる。
(3)では、再び「被害者」たちの姿が描かれ、(4)では、「加害者」となってしまった人たちの措かれた「ゲリラ戦下の疑心暗鬼」と「当初からの、軍の方針」が紹介され、彼らが個人として単なる「現地民間人を人とも思わない冷血な軍人やその協力者」ではなかったということが紹介される。

つまり、本書は(1)と(3)で紹介された「被害者」を掘り起こしただけではなく、それらについての「加害者」にあたる(2)と(4)の人たちもまた、決して「悪人」や「冷血漢」ではなかったという事実が紹介されるのだ。

例えば(2)で紹介される、少年たちを「護郷隊」に組織し、その指揮官となった、陸軍中野学校卒の村上隊長と岩波隊長の二人が、先頭に立って引っぱるタイプと沈思黙考の軍人らしからぬタイプという、タイプの違いはあっても、いずれも少年隊員たちからの尊敬を一身に集めていた事実と、それが戦後になっても続いた、という事実が紹介される。

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「諜報戦」や「ゲリラ戦」などの「非正規戦のプロ」を養成した、スパイ学校である「陸軍中野学校」の卒業生と言えば、それは「頭脳明晰で、人たらしの達人」ではないかと、多くの人がそう考えるだろう。じじつ、中野学校では、軍人的な「恫喝」ではなく、あくまでも真摯な人格的交わりにおいて、相手を心の底から心服させるように、との「人格」教育がなされていた。
そうでないと、損得抜きの忠誠心が求められる「スパイ戦」は、とうてい「保たない」からである。

そんなわけで、沖縄の「護郷隊」でも、少年たちは「このエリートたちにまんまと誑し込まれ、戦後にいたるまでマインド・コントロールされていたのではないか」と考える人も少なくないだろう。
かく言う私も、本書を読み進めるまではそう考えていた。彼らは「スパイ戦のプロとしての冷酷な、裏の顔」と「無私で寛容な人格者としての、表の顔」を見事に使い分けていた「プロの二重人格者」ではないかと疑っていたのだ。
だが、村上、岩波両隊長の、戦前・戦中・戦後の姿を追っていった結果、彼らは決して「偽の人格者」ではなかったことが明らかになってくる。彼らは確かに「人格的にも優れた好青年」だったのである。
しかし、そんな彼らが「冷徹なスパイ戦のプロ」として動いていたというのも、また事実であり、彼らは時に「冷徹」にもなった。

この、一見「矛盾」と見える事実を、私たちはどう考えればいいのだろうか。
一一これが本書の眼目だと言ってもいいだろう。

結局、いったん「戦争」というものが起こり、「ひとまず勝たなくてはならない」という現実を受け入れてしまうならば、どんなに人柄の良い「人格者」であっても、同時に「民間人を犠牲にしても動じない、冷徹な軍人」になってしまう、というのが、この世の現実なのである。
言い変えれば、「心優しい人格者」であることと「冷酷な人殺し」であることは、「戦争」においては矛盾しないのだ。「真面目」に「戦争」を生きた人ほど、この矛盾を両立させてしまったのである。

しかし、だからこそ「戦後」において、村上隊長と岩波隊長は、その死の時まで苦しむことになる。「戦争」に勝つためには必要不可欠だと信じて行なったことだとは言え、少年たちを過酷なゲリラ兵へと仕立て、多くを死に追いやり、生き残った者にも深い心の傷を与えてしまったという、癒されることのない「自責の念」に、彼らは終生とらわれ苦しんだ。その「優れた人格」に由来する「責任感」の故にである。
そして、そういう意味において、二人もまた「被害者」であった。単なる「被害者」ではなく、「加害者」であると同時に「被害者」であるという、救いのない立場に措かれたのが、当時二十代前半の若者でしかなかった、彼らの「悲劇」だったのである。

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このように本書は、「被害者」と「加害者」という、表面的でわかりやすい構図において両者を二分し、「被害者」に同情し、「加害者」を弾劾する、といったようなものではない。
「殺し殺される」という現実と否応なく向き合わざるを得ない「戦場」に立った者は、その誰もが、どこかで「加害者」とならざるを得ない部分があり、そして全員が「被害者」とならざるを得ない。これが「戦争」の「戦場における現実」なのである。

そこから、逃れるためには「徴兵を忌避して、収監されるか殺される(戦場に立たない)」か、あるいは「戦場に出ないで、後方で指揮をしていれば済む、特別に高い立場に立つ」か、しかない。
しかし、言うまでもなく、前者は容易なことではなく、誰にでもできるようなことではない。そして、後者はごくごく限られた人にしか保証されない特殊な立場であるし、その立場に立つためには、それまでの過程で、かならずや多くの人を踏みつけし、時に死なせてきたことだろう。つまりこれもまた、普通の人には望み得ない、特殊に限定的な立場なのだ。

だから、いったん「戦争」になれば、私たちの多くは、否応なく「兵隊」となって「戦場」に立たざるを得ない。そして「加害者」とならざるを得ない、「被害者」なのである。だからこそ「戦争」は、絶対に是認できないのだ。

あなたが「徴兵を忌避して、収監されるか殺される」あるいは「戦場に出ないで、後方で指揮をしていれば済む、特別に高い立場に立つ」ことができる、稀有な人間だと言うのであれば、「戦争もやむなし」という考え方を是認することもできるだろう。自分の手で、身も知らぬ人を殺す必要もなく、それを傍観するか、遠目に指揮するかすれば済む立場に立てるからだ。
しかし、繰り返すが、そんなことが許されるのは、ごくごく一部の人間でしかなく、私たちのほぼ全員は、「一部の例外的・特権的人間」のために、「戦場という現場」で専ら「汚れ仕事」をしなければならない、「その他の人間」なのである。

だから、「戦争」というものを「戦記」や「歴史研究書」や「小説」などを読んで、「悲しいことだけど、人間の避けられない現実なんだよね」などと言っていられる人は、「自分の現実」がまったく見えていないのだ。所詮は、観念でしか「戦争」を捉えていないのである。

「戦争」とは、隣近所のおじさんやおばさん(あるいは、子供まで)を、その手でくびり殺すことも、時に必要となるようなものなのだ。
それは、それまで「隣人」として仲良く共存していた、ボシュニャク人、セルビア人、クロアチア人の「市民」が殺し合うことになった「ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争」が、そのわかりやすい実例だろう。
必要とあれば、親であろうと恋人であろうと、殺さなければ生き残れない。それが「戦争」なのである。

本書は、そんな「戦争」の本質を、隠されていた事実を丹念に掘り起こすことによって、残酷なまでに鮮やかに描き出した、稀有な歴史研究書である。

「沖縄のスパイ戦」は、「戦争」というものが、「大義名分」などではとうてい正当化され得ない、結局は「個人の手」で行なわれるものであることを、よく示している。
他人を、撃ち殺し、刺し殺し、くびり殺し、あるいは、死地に追いやる。それが「戦争」の「現実」であり、頭の中にあったり、図上に描かれていたりするような「戦争」は、「戦場のリアル」からすれば、「戦争ファンタジー」でしかないという事実を、本書は説得的に教えてくれる。

だから、「戦争のリアル」について「無知な人」は無論、「頭でっかちな人」も、是非、本書と向き合うべきなのである。

初出:2020年5月16日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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