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三上智恵監督 『戦雲(いくさふむ)』 : 庇を貸して 母屋を取られた人々

映画評:三上智恵監督『戦雲(いくさふむ)』(2024年)

Wikipediaによれば、本作の監督である、三上智恵は、

『日本のジャーナリスト、映画監督、ドキュメンタリー映像作家。毎日放送(MBS)ならびに琉球朝日放送(QAB)の元 アナウンサー。
フリーランスの映像作家として「沖縄と戦争」を主なテーマに、ジャーナリズム活動(沖縄戦や米軍基地問題など)を展開している。』

ということになる。

三上の映画を見るのは今回が初めてだが、以前にその著作『証言 沖縄スパイ戦史』(2020年・集英社新書)のレビューを「Amazon」に書いて、同氏にTwitter(現X)で紹介していただいたことがある。
それを、「Amazon」から追い出された後に転載したものが、下のレビューだ。

「Wikipedia」にもあったとおり、三上は「沖縄と戦争」を主なテーマにしてきた人だが、本作の場合は、沖縄本島だけではなく、沖縄本島よりもさらに南西に位置する「南西諸島の島々」を扱っている。具体的に言えば、沖縄本島から西へ遠い順に、「与那国島」「石垣島」、「宮古島」の3島だ。

なぜ今回は、沖縄本島だけではなく、他の3つの島まで扱っているのかというと、今回のテーマは「沖縄の歴史と現状」という沖縄本島の話ではなく、昨今進められている、これらの島々への「ミサイル配備」の問題が扱われているからだ。
つまり「近年の現状」を報告するのが本作であり、「与那国島」「石垣島」「宮古島」の3島に配備されたミサイル基地を統括するのが、沖縄本島に設置された「ミサイル基地統括本部」という関係になっているのである。

ではなぜ、近年になってこれらの島々に「自衛隊駐屯地」が作られ、さらに「ミサイル基地」が作られるのかと言えば、それは、

(1)北朝鮮の弾道ミサイル開発に伴う防衛体制の強化
(2)中国による、東シナ海に対する派遣の拡大への対応と、台湾有事への準備

というようなことになるだろう。
このあたりのことについては、私自身、けっして詳しくはないのだが、誰もがテレビニュースなどで、「語句」としてはしばしば耳にしているはずだ。

ところで、「沖縄」とか「台湾」の問題には、それなりに興味を持っている私でも、では、これら「与那国島」「石垣島」「宮古島」といった島々との位置関係はというと、実のところよくわかっていなかった。
とにかく、日本と台湾の間のどこかというくらいの感じで、具体的にはよくわかっておらず、たとえば「南西諸島」というのは、どこからどこまでを指すのかもわかっていなかったし、一時期、領有権問題で話題になった「尖閣諸島」と沖縄本島の位置関係、さらには沖縄本島と台湾の位置関係さえも、漠然としか知らなかった。
つまり、「尖閣諸島」と言えば「日本と中国の間あたり」であり、「沖縄本島」よりは北の方(緯度が高い)という印象があった。また、沖縄本島と台湾では、台湾は「ずっと南の方」だという印象を持っていた。だから、台湾と尖閣諸島が意外に近いという印象など、まったくなかった。それぞれの問題にはそれなりに興味を持ってはいたのだが、それらを十分に関連させて考えてはいなかったから、位置関係までは把握していなかったのだ。

ところが今回、本作『戦雲(いくさふむ)』を見て、「与那国島」「石垣島」「宮古島」の3島が、沖縄本島のさらに「南西」に位置することを知った。それぞれの島の名はよく耳にしていたが、リゾートだの観光旅行だのにはまったく興味のない私は、それらの島について「南の方の島」という印象しか持っておらず、具体的にどのあたりにあるのか知らなかったので、この映画の中で示された地図で、これらの島が、沖縄本島から南西に台湾直近にまで連なっているというのを初めて知ったのである。前記のとおり、沖縄本島から西に最も遠い「与那国島」などは、沖縄本島よりも台湾の方にずっと近いのだ。

南西諸島(赤枠内)と当諸島を構成する島嶼群
(左端が台湾、右端が沖縄本島)

しかし、この映画を観た後でも、私は「このあたりのことを、南西諸島と呼ぶのか」と、そんな呑気な認識しかなかった。
安倍晋三元首相が友人のプーチン露大統領に進呈して以来、まったく話題に上らなくなった「北方領土」のことなら、それなりに勉強して位置関係も知っていた。だが、南の方は「沖縄」と「台湾」を知っているだけで、それ以外の島々の位置関係など知らなかったので、このレビューを書くために確認して、初めて「南西諸島」というのが、九州の南端から、南は大東諸島、南西に台湾直近までの領域を指すものなのだと、これも初めて知ったのだ。そもそも、単語としての「南西諸島」と聞いただけなら、私は、日本の話かどうかさえピンと来ない状態だったのである。

つまり、沖縄本島よりもさらに本土から遠い、台湾の東側、尖閣諸島の南側に位置する、「与那国島」「石垣島」「宮古島」のことを、私は実質的に、何も知らなかった。
名前だけはよく耳にしても、それは「自然豊かな南の島」であり、ダイビングなどをする人が観光で訪れる島、くらいの印象しかなかったのである。一一言い換えれば、本土の人間である私にとっては、外国にも等しい「遠い場所」だったのだ。

だが、そのせいで、私たち本土の日本国民の多くは、これらの島々で、近年、何が起こってきたのかをよく知らなかったし、知ろうともしなかった。沖縄本島のことなら、戦争の歴史も絡んで、話題になることも多いが、これらの島々が「社会問題」的に論じられることは、まずない。
たしかに、テレビニュースで「南西諸島の防衛強化が進められている」とか「〇〇島に、自衛隊の駐屯地ができた」とか「迎撃ミサイルが配備された」とか「敵基地攻撃能力」がどうとかいったことが伝えられた記憶はあって、「中国の艦船が、東シナ海で他国の領海を侵犯しているからなあ」とか「台湾有事が憂慮さているからなあ」とか「北朝鮮の弾道ミサイルの部品が落下してるからなあ」くらいのことは考えたが、なにしろ、それらの位置関係をろくに理解していなかったのだから、そうしたニュースと「自然豊かな南の島」とが、どうしてもリアルに結びついてはいなかったのである。

 ○ ○ ○

だが、本土国民の意識がその程度のものであってみれば、本土から遠く離れた「与那国島」「石垣島」「宮古島」などの地で、何が起こっていても不思議はない。

テレビでも始終取り上げられていた、沖縄本島の「辺野古基地埋め立て拡張工事」の問題で、沖縄県がいくら抵抗しても、政府は一方的な法的手続きによって、強制的な代執行に入ってしまうのだから、国民の目の届かない、遠い離島でなら、実質的に「やりたい放題」になるというのは、容易に想像できよう。

もちろん、だからと言って、法を無視してやるわけではないけれども、要は「騙し討ち」である。
それまで「政治問題」などとは、ほとんど無縁に暮らしてきたから、政治意識の高い人などほとんどいないだろう田舎の離島の人々に対し、まずは「国防のため」という大義を掲げて、自衛隊駐屯地の建設を持ちかける。その際、原発などの場合と同様に、そのことで得られる「メリット」をいろいろと提示するわけだ。
しかしながら、明らかに迷惑な存在でしかない原発とは違い、最初から「札束を積む」ようなことはしなくても、自衛隊の場合なら、「国防のため」という大義名分だけではなく、「島民を守る」とか「若い隊員が多数移住することで、町が活性化する(高齢化や過疎がくい止められる)」とか「経済効果が見込まれる」などといったことが語られる。

そうすると、もともと「現実政治」だの「地政学」だのといったことには興味のなかった、善良な島の人たちは「それが必要なことであり、かつメリットもあるのなら、協力するしかない」ということになってしまう。
だが、最初に語られた「メリット」とは、すべて「見込み」だの「予定」だのといった、漠然たる話でしかなく、法的根拠のある契約的な「確約」でもなければ、具体的な「違約補償金」があるわけでもないのだ。

だからこそ、時間が経てば、「大した経済効果はない」とか「自衛隊員は、永住するわけではなく数年で転勤するため、島が若返ることはない」とか「自然が破壊される一方だ」とかいったことには止まらず、「自衛隊員の駐屯だけではなく、戦車などの大型陸戦兵器が持ち込まれ、島での戦闘が想定される体制が構築される」「ミサイル基地までが作られて、島が攻撃対象になる可能性が高まる」とか「島と島民を守るという話が、いつの間にか、いざ戦争になれば、島民は全員、島外退去を強いられる」といった話になってしまい、まさに「庇を貸して母屋を取られる(軒を貸して母屋を取られる)」という事態に立ち至っているのである。一一ちなみに、「庇を貸して母屋を取られる(軒を貸して母屋を取られる)」という言葉の意味は、次のとおりだ。

1 一部を貸したために、やがて全部を奪われるようになる。
2 保護してやった相手に、恩をあだで返される。
goo辞書「庇を貸して母屋を取られる」

「与那国島」「石垣島」「宮古島」などで起こっていることは、まさにこれである。

「よろしくご協力をお願いします」などと、最初は下手に出てやってきたのが、いつの間にか「主客が逆転」して「いざとなれば、出ていってもらいますので、それでよろしく」となっていたのである。「騙された」と気づいた時には、すでに遅かったのだ。

だが、みんながみんな「最初は騙された」というわけでもない。
この3島の中では、「石垣島」は、自衛隊基地の建設に、当初から反対しており、住民投票で「自衛隊受け入れ反対」が決まったにも関わらず、条例改正によって、その住民投票の効力が否定され、住民の意思を無視して自衛隊基地が作られ、ミサイルまで配備されたのだ。

要は、一般島民は反対多数であったにも関わらず、「島の議員たち」は、なぜか、受け入れを強行したのである。
その理由は、無論「裏金」しかあるまいと、これは私個人の見解なのだが、肝心の島民の意見を無視してまで、他にどんな理由があるというのだろうか?
もしも「国家的な視野に立って」などという「寝ぼけた綺麗事」を口にするような町長や議員がいるのなら、そんなやつは、真っ先にミサイルに当たって死ねと言いたいところである。

ともあれ、これらの島々では、少なからぬ人が「裏切られた」「騙された」「犠牲に供されたのだ」と気づいて、自衛隊基地の装備拡充に反対し、不可能に近いことだと理解していながら「基地は出て行け」「平和な島を返せ」という反対運動をおこなっている。
たしかに大半の島民は、すでに諦めているのだろうが、諦めることは「容認すること」にしかならないと、反対運動を続けている人たちがおり、その現状を紹介したのが、この映画なのだ。

彼らの努力に対しては、ある意味でコクな言い方になるかもしれないが、私たちがこの映画から学ぶべきことは「国の言うことを、真に受けてはならない」ということであり、「国は国を守るのであって、国民を守るのではない」という事実である。
だからこそ、決して「庇」や「軒」を貸してはならないのだ。相手は強大な権力を持っているのだから、中途半端な妥協は、際限のない譲歩にしかつながらないのだという現実を、厳しく認識すべきである。「国」が相手であろうと「国法」が相手であろうと、条理に合わない妥協は、必ずや「後悔」することになる。

かつて司馬遼太郎は、その著書『歴史と視点 私の雑記帳』の中で、日本が本土決戦を目前にした作戦会議で『戦車の回りに民間人がいたらどうしましょう?』という質問に対して『曳き殺せ』と応えた軍人の話を書いている。
これについて、「実話」か否かに疑義を呈している者もいるが、この程度のこと、軍人ならば「当然、言うこと」に過ぎない。

言うまでもないことだが、日本という国は、すでに敗戦が見えていた段階でも、「天皇の赤子」であるはずの一般兵士に「特攻死」(無駄死に)を強いた国であり、「天皇制という国体」を守るために終戦の決定を遅らせて原爆の投下を招き、多くの国民を死に至らしめた国なのだ。
したがって、「避難民」よりも、国防のための「進軍」を優先せよというのは、そんな国の軍人としては、当然の話ではないか。

何も「お国の犠牲」に供されるのは、沖縄の人たちや、「与那国島」「石垣島」「宮古島」といった離島の人たちだけとは限らない。
必要とあらば、「支配階層以外のすべての国民」は、「お国のための消費財」にされるのだということくらいは、当たり前の話として認識しておくべきだろう。

この映画で描かれた「与那国島」「石垣島」「宮古島」の人々、あるいは「沖縄」の人々の悲痛な姿は、決して他人事ではないのである。

寺山修司がかつて歌ったように、わが『身捨つるほどの祖国』など、ありはしないのである。



(2024年3月24日)
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