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カレー沢薫 『きみにかわれるまえに』 : あえて問う。 これは 一方的な 〈感動消費〉ではないのか?

書評:カレー沢薫『きみにかわれるまえに』(ニチブンコミックス・日本文芸社)

本書の帯には、こうある。

(表)『可愛いだけじゃない。楽しいだけじゃない。自分勝手に愛している。いなくなったら耐えられない。 それでも、君を飼う。』『ペットと人間がつながる、17個の小さな美しい物語。』

(裏)『「貴方の生涯は10年から15年です。でも私は80年ぐらい生きます。あなたと別れてからも、私の人生は続きます」(第1戒)』『きみと生きることで知る、きみと向き合う教え。胸に迫り、心に沁みる全17話、全17戒。』

「戒律」とは、「戒め律するもの」であって、「追認し、容認するためのもの」ではない。
だが、結局のところ本書では、その「戒律」を、「知っている」と再確認することで、「免責するだけ」ではないのか。
知ってさえいれば、その「戒律違反」をやめる必要はない、それを知っている自分だけは、その倫理的責めから「免責されている」と思えるようになっているのではないか。

だからこそ『可愛いだけじゃない。楽しいだけじゃない。自分勝手に愛している。いなくなったら堪えられない。 それでも、君を飼う。』と、結論には「それでも」が頭に付いて、「現状追認」するのではないか。

しかし『可愛いだけじゃない。楽しいだけじゃない。自分勝手に愛している。いなくなったら堪えられない。 それでも、君を飼う。』という言葉の『君』が、「人間の子供」であったなら、どうなのだ。「それでも」、「戒律」を知っているから許される、とでも言うのであろうか。

結局これは、「ペット消費」から、「やましさ」をぬぐい去るための「偽善的な感動フィクション」でしかないのではないか。
「ペット」を救うためではなく、「飼い主」を、その「やましさ」から解放するためのフィクションなのではないか。「私たちは自分勝手な、ひどい飼い主ではない。自身の自分勝手さは十分認識しており、そのうえでペットに愛を注いで共生しているのだ」くらいの「自己正当化」をさせるだけの、「飼い主のための、自己正当化の具」ではないのか。
しかし、このようにして、「ペット動物の悲劇」は再生産されていくのではないのか。

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私も小学校低学年の頃に、捨てられていた子犬を拾ってきて、飼った経験がある。
無論、その頃の私の場合は、その子犬に、自覚的に「癒し」を求めたのではない。ただ「可愛い」と思い、「捨てられて可哀相」と思って、拾って帰っただけだ。
また、だからこそ、しばらくすると、その子犬は「(可愛い)癒しの道具」ではなく「家族の一員」となり、「居て当然の存在」となり、特に意識することもない「当たり前の存在」となり、その結果、子犬への興味を失なわれて、もっぱら親が面倒を見るようになった。

その当時は、拾ってきた捨て犬に予防接種を受けさせるなどということもほとんどなかったから、その子犬は、たぶん半年もしないうちに病気にかかってしまった。
私の記憶では、ふわふわして可愛かった体毛が、汗でびっしょりと濡れしおれてしまい、終始、低いうなり声をあげていたと思う。あきらかに病気だったのだが、子供の私が思ったのは、その犬が「おかしくなった」ということであり、怖くて触ることもできなくなった。まるで、子犬に悪魔でも憑いたかのような、恐ろしい変貌だと思えたのだ。だから、触ろうとすれば、噛まれるのではないかと怖かった。また、噛まれれば、自分も同じようになってしまうのではないかと恐ろしかった。だから、たしかに心配はしただろうが、結局はその現実から目を背けることしかできずに、子犬を見殺しにしてしまった。

今となっては、子犬の面倒を見ていた親が、なぜどうにかしようとしなかったのかと思わないでもない。しかし、昭和40年代当時としては、拾ってきた捨て犬が病気になったからといって、獣医に診させるなどという発想はなかったのではないかとも思う。はたして、ペット専門の獣医などというものが、どれくらいいたのかも疑わしい。だから、結局は、親としても、餌をやりながら回復を待つということしかできなかったのではないかと思うのだ。

しかし、いずれにしろそれは親の問題であって、私の問題ではなかった。当時、親がどう考えていたかなどということは、今回このレビューを書くまで、考えたこともなかった。問題は、その子犬を拾ってきた、私の問題であって、親の問題ではなかったからである。

私は、その子犬の面倒を見てやれなかったことに、深い罪悪感をおぼえた。
元気な時には、かわいいかわいいといって弄びながら、病気になった途端、その子犬を怖れて、撫でてやることすらできなかった自分を、ずいぶん罪深い、非情な人間だと思った。今となって考えれば、子供の手には負い切れない事態だったとは言え、そんなことは問題ではない。私が子犬を見捨てたという事実に、かわりはなかったからである。

だからその後の私は、ペットを飼おうとは思わなかった。
セキセイインコを何匹か飼った記憶はあるが、それは私が飼ったものではなかったと思うし、死なれたり逃げられたりして、残念な思いをしたことはあっても、その時の感情は、子犬の時とはまったく違っていた。端的に言って、インコは「家族」ではなかった。あえて言えば「生きた装飾家具」のたぐいだったのだろう。だから「壊れた」「紛失した」という感じだったのではないかと思う。
弟が、小学校の前で売っていたヒヨコを買って帰り、それがたまたま成鳥になるまで育ったこともあったが、小さな鶏小屋で飼われた鶏はけっこう獰猛で、可愛いペットなどではなかった。結局、鶏のためにも、小学校に寄贈して、広い鶏小屋で飼ってもらった方が良いだろうということで、小学校に寄贈したのだが、まもなくイタチかなにかに殺されてしまった。その際も、あっけなさと残念な気持ちはあったものの、子犬を失ったときのような、深い喪失感はなかった。たぶん、私にとっての子犬は、「ペット」ではなく、「弟」のような存在だったのだろう。だからこそ、強い「やましさ」を感じたのだと思う。

そして、今の私は、結婚をする気もないし、ましてや子供を作る気などない。
地球温暖化で、数十年後には地球環境の悪化が決定的となり、今の生活水準が保てなくなるというのは、ほとんど目に見えている。おそらく、飢餓に苦しむ子供たちが、もっともっと増えるだろう。それに日本に限って言っても、経済的二極分化がすすみ、多くの人が経済的に苦しい生活を強いられ、したくても結婚などできない人が増え、庶民は多くの子供を持つことなどできない状況になってきている。核廃棄物も、未来への「負の遺産」として増えていくばかりだ。福島第一原発の「汚染水」も、遠からず海洋廃棄されるだろう。

つまり、まともに考えれば、「子供たちの未来」には、明るい展望などほとんどないに等しい。
「それでも、子供をつくる」のだろうか。
「可愛いだけじゃない。楽しいだけじゃない。自分勝手に愛している。いなくなったら堪えられない。 それでも、君を産み育てる。」のだろうか。

結局、自分を慰めるためなら「なんでもあり」ということなのではないのか。
まして、それが人間ではなく、他の動物であり「ペット」であるなら、そうした「消費」も「べつにいいじゃない」で済まされてしまうのか。

しかし、そんなものを「感動」で誤摩化すのは、グロテスクすぎやしないだろうか。
しかしまた、人間とはそういうものであり、だからこそ滅んでしかるべきものなのかも知れない。

私のこの感情は、そんなに極端なものなのだろうか?

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初出:2020年11月30日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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