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いつでも世界のどこかで : 綿井健陽監督 『Little Birds イラク 戦火の家族たち』

【旧稿再録:初出「アレクセイの花園」2005年6月18日】

※ 再録時註:「テロに屈してはならない」「言論と民主主義に対する挑戦だ」といった、紋切り型のコメントとは、すなわち「死んだ言葉」であろう。政治家の皆さんとしては、本音をそのまま語るわけにもいかない、という事情は、私にも理解できる。実際、私も、安倍晋三元首相が殺されたと聞いても、大きな衝撃などなかった。「まあ、そういうこともあるだろう。あってもおかしくはない」という感じで、人間としての一片の同情も感じなかった。なぜなら、私にとって安倍晋三という人は、もとよりテレビを通した「死んだ情報」でしかなかったからである)


昨日、ジャーナリスト綿井健陽のドキュメンタリー映画『Little Birds イラク 戦火の家族たち』を観てきた。

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アメリカのイラク攻撃が決定した2003年3月にイラク入りして以来、戦時下・占領下のイラクの状況をリアルタイムで伝えつづけてきた日本人ジャーナリストによる、イラク庶民の視点から見た「アメリカによるイラク攻撃・占領の現実」を、生々しく伝える映画である。

サダム・フセインの独裁政権下にあったとは言え、それなりに豊かで平和だったイラクの庶民生活が、アメリカの無差別的な攻撃によって次々と破壊され、今も残存した劣化ウラン弾や一方的な「テロリスト」狩りによって、さらに破壊され続けている。

当初、アメリカはイラクの「大量破壊兵器保持」をその理由として、一方的に戦端を開いたのだが、占領後も一向に大量破壊兵器はみつからず、いつの間にか戦争の理由は「イラク人民の解放」へと、すり替えられていた。
しかし、イラク人民に「自由と民主主義をもたらす」とされた、この攻撃・占領のために、女・子供・老人を含む、多くの罪もないイラク市民が、今も殺され続けているのである。

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私の場合、この映画に紹介されている事実は、「知識」としては知っていることばかりだった。
私はこれまでに、綿井健陽のルポも読んでいるし、イラク情勢については、日本のテレビ・新聞などが報じる以上の情報を、自分なりに得ていたからである。

しかし、この映画に「新しい情報」が無いから、「得るもの」が何も無かったのかと言えば、無論、そんなことはない。私はこの映画から、十二分に「新しい情報」を得た。それは「現実の生々しさ」という情報、「知識」には還元できない「感覚的な情報」である。

爆撃で両足をうしなう重傷にベッドで苦悶する青年、不発弾に触れて片腕を失った少年、死んだ子供の横でその死を嘆き悲しむ父親……。

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もちろん私は、そうした数多くの存在を知識として知っていたし、写真でも見ており、そこにそれなりのリアリティーを感じ取ってもいた。
だが、動画として現前し、その当事者の口から音声として発せられる言葉のインパクトは、活字や写真にはない迫力、いや、活字や写真には移しようのない「存在感」があった。

当然のことだ。基本的には、活字よりも写真、写真よりも音声付き動画、音声付き動画よりも目の前の現実の方が、情報量が多いというのは、わかりきった話だからだ。

だが、私たちは、恣意的・政治的に「現実からその一部」を切り出してきたテレビや新聞、書物や写真を見ただけで、なんとなく「わかっている」「知っている」という気になってはいないだろうか? 

たしかに「知識」は必要だ。なぜなら、それがなければ正しい情勢判断ができないから、なのだが、しかし、そうした「情報」の多くは、当初のインパクトが時間の経過とともに失われると、現実の生々しさをうしなった「冷たい情報(不活性化した情報)」に変質してしまう。
そして、そうした「冷たい情報(不活性化した情報)」は、じつのところ、「わかっている」「知っている」という感覚だけをその保持者に残すだけで、かえってその保持者を、「現実」としての「熱い情報(活性情報)」から、遠ざけることにさえしてしまうのではないだろうか。

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私が、今回、この映画を観て思ったのは、「知識は常に更新され活性化されなければならない。そうでなければ、知識は、人を現実から遠ざけるものともなりかねない」ということである。

実際、「嘘をついてはいけない」「他人に迷惑をかけてはいけない」といった知識なら、誰にでもあるのだが、それを「不活性」どころか「死んだ」知識としてしまっているからこそ、多くの人がその知識に反する行動を、平気でおこなえるのであろう。

「戦争は残酷だ」「平和は何よりも大切だ」「祖国を愛することは大切だ」「国家は、国民の基本的人権を守るためにある」といったことも、誰もが知識としては知っていながら、それを「冷たい情報(不活性化した情報)」としてしまっているから、その内実を切実に求めようとはせず、知識をひねりくりまわすだけの観念的遊戯に淫し得るのだ。こうした人たちは、自らが徴兵される事にでもならないかぎり、つまり、外部から否応なくその知識を活性化させられでもしないかぎり、その知識を「活かす」ことができないのである。

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(イラク取材中の綿井健陽)

知識の不活性化をふせぐというのは、容易なことではない。しかし、その人が真に「知識人」か否かは、知識を常に「熱い情報(活性情報)」として保持しているか、それとも世間並みに「冷たい情報(不活性化した情報)」としてしまっているか、によって決まるのではないか。つまり、「死んだ知識」をいくら貯えたところで、それは所詮「知識おたく」であり「知識コレクター」でしかないのだと思う。

恵まれて「知識」を持てる者は、その貴重な「人類の共有財産」を活かすために、現実と向き合い、不断に知識の活性化を図らなければならない。
そうでなければ、私たちは『爆撃で両足をうしなう重傷にベッドで苦悶する青年、不発弾に触れて片腕を失った少年、死んだ子供の横でその死を嘆き悲しむ父親……。』といった「悲惨な現実」を、知らず知らずのうちに、たった数十字の冷たい文字情報へと還元してしまうのである。

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多くの人に、この映画を観て欲しいと思う。
私たちが日々送っている日常も現実なら、ここに映し出された日常もまた、同じ現実。
私たちが、彼らであった可能性、今後、私たちが彼らである可能性は、現実に存在するのだ。これは、まぎれもなく、今の地球の現実なのである。

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