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映画 『ヒトラーのための虐殺会議』 : ここに同席できるくらい、 出世したいよね?

映画評:マッティ・ゲショネック監督『ヒトラーのための虐殺会議』

本作は、ドキュメンタリー映画ではなく、劇映画だ。つまり、役者が演じている、ドラマ形式の映画である。

だが、これがドキュメンタリー映画ではないところには、たしかに価値がある。何か?
一一それは、この「非人道的な会議」に参加した人たちが、いずれも生身の「普通の人」であり、彼らの犯した過ちもまた、ハンナ・アーレントアドルフ・アイヒマンを評して言った、「凡庸な悪」であったということが、とてもわかりやすく「感じられる」作品になっているからだ。

つまり、ここに描かれた人たちは、かぎりなく「私たち」に近く、会社で当たり前に見かける上司同僚たちと、何ら選ぶところのない人たちだということである。

『1942年1月20日正午、ドイツ・ベルリンのヴァンゼー湖畔にある大邸宅にて、ナチス親衛隊と各事務次官が国家保安部長官のラインハルト・ハイドリヒに招かれ、高官15名と秘書1名による会議が開かれた。議題は「ユダヤ人問題の最終的解決」について。「最終的解決」はヨーロッパにおける1,100万ものユダヤ人を計画的に駆除する、つまり抹殺することを意味するコード名。移送、強制収容と労働、計画的殺害など様々な方策を誰一人として異論を唱えることなく議決。その時間は、たったの90分。史上最悪の会議の全貌が80年後のいま、明らかになる。

すべてのドイツ占領下および同盟国から東ヨーロッパの絶滅収容所へのユダヤ人強制送還の始まりとなった「ヴァンゼー会議」。本作は、(※ この会議に、主催者側の書記兼任の補佐官として参加した)アドルフ・アイヒマンによって記録された会議の議事録に基づき、80年後の2022年にドイツで製作された。その議事録は、1部のみが残されたホロコーストに関する重要文書だ。出席者15名がまるでビジネスのように、論争の的になるユダヤ人問題について話し合い、大量虐殺に対して反論する者が誰一人いない異様な光景に戦慄が走る。』

敗戦後のドイツから、秘密裏に南米アルゼンチンへと逃亡して、偽名で身を潜めていたアドルフ・アイヒマンは、ユダヤ人国家イスラエルの諜報機関モサドによって拉致され、イスラエルへと移送される。そして、彼の戦争犯罪を裁くためにイスラエルで開かれたのが、世にいう「アイヒマン裁判」である。

アメリカへの亡命ユダヤ人であった思想家のハンナ・アーレントは、雑誌取材のために、この会議の傍聴に派遣され、その結果をのちに『エルサレムのアイヒマン──悪の陳腐さについての報告』という著書にまとめるが、そこで衝撃をもって受け止められたアーレントの「アイヒマン理解」こそが、「凡庸な悪」というものだった。

「凡庸な悪」とは、どういう意味なのか?
それは、「悪」とは、必ずしも「悪魔」のような顔をしておらず、凡庸な私たち一般市民となんら変わるところのない顔をしている、という事実を指すものだ。

つまり、ナチスドイツにおける「ユダヤ人最終解決」問題における責任者の一人であったアイヒマンは、決して「血も涙もない殺人鬼」でもなければ「狂人」でもなかった、ということだ。
彼はただ、ナチスドイツの時代に生きて、その中で「社会的に認められる、有能な人間たろうとしただけの、当たり前に凡庸な男」であった。

(映画のアイヒマン。席は正面奥左手。隣は書記の女性)

「地位や名声やカネが欲しい」というのは、ほとんど誰しもが持っている欲望だろう。
だから、多くの人が、何の疑問もなく「出世」を望み「名声」を望み、人からの「羨望の的」になるような人間になりたいと望む。

会社では、平社員ではなく、できるかぎり上の立場に立ちたい。上司から命令されて嫌々仕事するのではなく、自分の考えを持って、部下たちを手足のように使うことで、自分が目指すものを実現したい。
有名タレントになって、ファンからキャーキャー言われたい。
売れっ子小説家や売れっ子マンガ家になって、金儲けをし、「先生」と呼ばれて、下にも置かれない扱いを受け、その名声と作品を、後世にまで残すような活躍をしたい。
ネットに、文章や写真をアップして、数多くの「イイね」をもらいたいし、それが金儲けになるのであれば、それに越したことはない。また、こうした活動をきっかけとして、作家として評価され、有名になり、人からチヤホヤされ、テレビにも出て、憧れの有名人たちと同等に対談できるような人間になりたい。

一一こんな欲望を持っていない人は、おそらく一人もいまい。

しかし、これが「当たり前」のことだからといって、その欲望のままに「立身出世」した先に待っているものこそが、大なり小なりの「ヴァンゼー会議」なのである。

(会議に参加した、実務者レベルの政治官僚たち)

なるほど、私たちの多くは「ユダヤ人絶滅」などという、大層なことは考えないだろう。
だが、金儲けのために「バカな消費者から、カネを巻き上げる」程度のことは、何の痛痒もなく行なっている。

「いや、私はやっていない」という人は、自分が、何で稼ぎ、何を買い、何を食っているのかということを考えたことのない、きわめて「凡庸な人間」だということでしかない。
この「評価」に対し、その人は「当たり前のことを当たり前にすることが悪なのであれば、私たちは生きられないではないか」と抗弁するかもしれないが、それこそが、アイヒマンが裁判で口にした「(自己正当化の)言い訳」だったのである。

私は、40年間、警察官をやってきた人間だが、その職務を果たす上で、誰にも「犠牲」を強いなかった、などとは言わない。
例えば、私は、最低限の成績を上げるために「交通反則切符」を切ったが、これだって「交通違反を減らす」という大義名分があるとは言え、結局のところは、自分の食い扶持を稼ぐために、違反者たちに犠牲になってもらっただけだ。

(会議の休憩時間。タバコを一服しての雑談)

しかし、私は、給料がもらえないのであれば、決して「交通違反の取締まり」などしない。
仮にその権限を与えられても、ゼニにもならないのに、そんな人から嫌われるようなことはやりたくない。どっちにしろ、違反する奴は違反するのであり、ここまでやれば違反が無くなるなどということはないのだ。

そもそも私は、給料をもらって警察官をやっていたのではなければ、「交通違反」なんていう「小さな問題」には興味がなく、「他にもっとやることがある」と考え、そちらについては、無報酬でも喜んでやったことだろう。例えば、このレビューなどがそうだ。
私はこのレビューで、誰もが持っている「凡庸な悪」について「啓蒙」したいと考え、それが大切だと考えるから、カネにもならないこんな文章を書いているわけだが、そんな私には、「交通違反」など、もはや興味の外なのだ。

だが、私が「警察官」として、他人に強いた「犠牲」がこの程度で済んだのは、私の場合は、若くして自覚的に「責任回避」目的で「出世」を拒み、生涯「いち(平)巡査」で通したからである。

また同様に、私が「文章書き」を「趣味」に止めて、金儲けの具にしようとはしなかったのも、できるかぎり「取れない責任など負いたくなかった」からに他ならない。

無論、文章を書き、意見を公にすれば、それに関しての「責任」は負わなければならない。しかし、実際のところ、ささやかだとは言え、いったん社会に与えた影響の責任など、後になってから帳消しにすることなど不可能なのだ。

であれば、せめてもの「アリバイ」として、私は「まったくの善意から文章を書き、それを公けにしている」という明確なかたちを採りたい。
だから、「原稿料」がもらえる原稿依頼をうけた時でも、まず「原稿料はいりません」と断る。それで、先方が「困る」というのなら、「では、仕方ないので、その分、出来上がった本(雑誌)を下さい」と言う。私はそれを、人に配ることで、また自分の意見を世間に広めているだけで、決して「金儲け」でやっているわけではない一一ということになるからである。

しかし、こうした、ある意味で「非凡」な行動は、「凡庸」に結婚して、「凡庸」に子供を作っていたら、きっとできなかったことだろう。
ひとまず、妻子を食わせ、子供に教育を与えなければならないのだから、正当にもらえるカネを「いらない」と言える人など、滅多にいないのだ。

例えば、国からの「各種給付金」の財源がどのようなものかを、人は深く考えることもなく、合法的に受け取ることだろう。スポーツ選手は「華やかなオリンピック」の舞台に憧れ、可能であれば、喜んでその華やかな舞台に立つだろう。だが、その「オリンピック」を開催するためのカネがどのようなもので、そのために犠牲になった人がどれほどいるのかについては、うすうす感づいていたとしても、知らないフリをしてやり過ごすだろう。また、そんな人だって、この映画について、もっともらしいコメントをすることなど容易に可能なのだが、一一しかし、これこそが「凡庸な悪」なのである。

生涯「平巡査」であった私でさえ、生きるためには、それなりの犠牲を、見も知らぬ人たちに強いてきた。
ましてや、私と同期で、「警視正」にまで出世した男などは、その自覚のある無しにかかわりなく、どれほどの多くの犠牲を、見も知らぬ人たちに強いてきたか、強いずにはいられなかったことか。

(ヴァンゼー会議も主催者側代表、ハイドリヒ国家保安本部長官)

少なくとも、「警視正」にまでなったあいつは、「ヴァンゼー会議」に呼ばれれば、それを「社会的成功の証し」として、喜んで参加しただろう。

そして、そこでの議題が「ユダヤ人の絶滅は、是か非か」ではなく、「ユダヤ人絶滅のための効率的な方法」であってみれば、彼は決して「ユダヤ人絶滅」という「会議の前提」に反対したりはしないはずだ。

なぜならば、彼は、「常識人」であり、「有能」であり、「凡庸」だからである。

(出世した人たち)

是非とも、この映画を観て、自分が「どのタイプ」かを、確認してほしい。

もしもあなたが「自分は、こんな会議には出られるほど有能ではない」というのであれば、それは結構なことだが、しかし、それなら貴方には、ユダヤ人の「銃殺係」ではなくとも、「移送係」や「遺品管理換金係」でもやってもらうことになるだろう。


(2023年2月22日)

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