〈歴史の存在性〉をめぐる葛藤の中で
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〈歴史の存在性〉をめぐる葛藤の中で

書評:成田龍一『歴史論集3 危機の時代の歴史学のために』(岩波現代文庫)

『「歴史の消去」が進行する現在という時代の危機と、歴史学そのものの危機的状況 一一 二重の問題意識のもと、歴史学と社会との関係を改めて問い直す。』

ここで「歴史の消去」という言葉で語られていることを、正しく理解できる人は、決して多くないはずだ。私自身、この「歴史論集」3冊を通読して初めて、この言葉の意味を理解することができたのだから、「「歴史」とは何か?」などと問うたことのない人に、「歴史の消去」という言葉の意味がわかる道理などないからである。

「歴史の消去」と聞くと、普通の人は「歴史の隠蔽」とか「歴史の改竄」といったことを思い浮かべるだろう。「歴史修正主義」の問題を通過した私たちが、そうした連想をするというのは、きわめて真っ当なことである。だが、ここで言う「歴史の消去」における「歴史」とは、そういう「正史」的なものとは、すこし違ったものなのだ。

「歴史の隠蔽」とか「歴史の改竄」と言った場合、私たちは、隠蔽や改竄の対象となる「(正史としての)歴史」なるものが、確固として存在している、と感じている。存在しているからこそ、隠蔽や改竄が可能なのであって、存在していないものは、そもそも隠蔽や改竄の対象ではなく、むしろ「(新たな)創造」の対象だからである。

つまり、前記の内容紹介文で、「歴史の消去」が語られる際の「歴史」とは、私たちが普通に思い浮かべる「確固として存在している歴史(そのもの)」のことであり、問題は、その「隠蔽」だとか「改竄」といったレベルではなく、まさに「確固として存在する(はずの)歴史」が「消去」されるという危機的事態が、ここでは問題とされている。
私たちはすでに「確固たる歴史」というものの「存在」が、半ば信じられなくなってきており、その方向で、「歴史」は「存在しないものとして消去」されつつある、という危機意識が、ここでは語られているのだ。

「それにしたって、現実に歴史は在るでしょう。私たちは、個々に自分の歴史を生きて体験してきたわけで、それが実体として存在する個々の歴史であり、それを総合したものが、この世界の歴史なんだから、歴史が存在しないなんてことはありえない」と、そう思う人が多いはずだ。これは「実感」としては確かにそのとおりだし、日本の「戦後歴史学」も、そうしたリアリズムに立脚して「実体論」的に「歴史」というものを捉え、それをできるかぎり正確に把握し紹介しようと努めてきた。

ところが、人文科学の世界におけるいわゆる「言語論的転回」によって、そうした素朴なリアリズム(実体論)が動揺してきた。
「言語論的転回」は、それを生み出した西欧から輸入されるかたちで日本に入ってきたわけだが、日本の「戦後歴史学」における「リアリズム」は、学問の屋台骨を揺るがしかねない、衝撃的と呼んで良いであろう「言語論的転回」の登場に、真正面から対応することができなかった。
正面から対応して、勝つなり負けるなりしたのであれば、それはそれでいい。しかし、それを避けてしまったところにこそ、日本の「戦後歴史学」の問題があり、本「論集」の著者である成田龍一が問題とするのも、まさにその部分なのである。「今からでも遅くはないから、日本の歴史学は、他者の声に対して、敢然と向き合うべきである」というのが、成田の一貫した主張なのである。

では、「言語論的転回」とは、どのようなものであろうか。
簡単に言えば「すべて認識に、外部は存在しない=完全客観は存在しない」ということである。

いまどき、当たり前と言えば当たり前にすぎる話のようだが、これは「学問」に責任を負っている学者たちにとっては「当たり前」で済まされるような、軽い話ではない。なぜなら「完全客観は存在しない」ということは「私たちが生きる、この世界は存在しない」というに等しいからである。

つまり、私たちが当たり前に生きて住んでいる「この世界」は、なんとなく「共通の(同じ)世界」だと信じているけれど、じつは「世界は、個々バラバラ」でしかなく、ただ他人の「主観=世界」を知ることはできないから、なんとなく「みんな、私が見ているこの同じ世界に住んでいるのだろう」と思い込んでいるだけだ、ということになるのだ。
したがって、「共通の(同じ)世界」など存在せず「個々バラバラな世界」が存在しているだけ、となる。

しかし、そうなると「共通の歴史」なるものは存在し得るだろうか?
無論、存在し得ない。
「共通の(同じ)世界」が存在しないのに「共通の(同じ)歴史」が、客観的に存在するわけなどないからである。

しかしまた、そうなると「歴史」理解(解釈)は「何でもあり」、ということになるのだろうか。

そうなるかどうかが難問であるからこそ、「「歴史」理解(解釈)は「何でもあり」」だという安易な態度を、ご都合主義的に選ぶ人が出てきがちであり、その典型が、自身に都合の良い「歴史」の正当性を主張する「歴史修正主義」でなのある。
「「歴史」理解(解釈)は「何でもあり」」という印籠を振りかざして「(他者を無視した)自分の権利ばかり主張する」心根の卑しい「歴史」理解としての「歴史修正主義」などといったものも登場し得ることになったのだ。

だが、本当に「「歴史」理解(解釈)は「何でもあり」」なのだろうか。一一私は、違うと思う。

例えば、日本の「歴史修正主義」者が、自らの「歴史観」を語る際、自国に都合のいい「政治神話」を平気で「歴史」の内に含めてしまう。「日本は、アマテラスに始まる万世一系の血筋によって統治されてきた、世界に類を見ない、特別な国である」などという「物語=フィクション」を、平気で「歴史」だとしてしまう。つまり、「歴史」と「物語=フィクション」が、安易に同一視されているのである。
そして、彼らの考える「歴史」とは、「よく出来た、役に立つ(都合の良い)歴史が、良い歴史であり、正しい歴史なのだ」という考え方なのだ。

たしかに「歴史」には「物語=フィクション」の側面がある。
私たちは誰も「歴史そのもの」を見たことがない。なぜなら「歴史そのもの」など存在していないからであり、それは「想定されたもの」でしかないからだ。

しかし、ならば「何でもあり」なのかと言えば、そんなことはない。その証拠に、「物語=フィクション」理解だって、決して「何でもあり」ではない、という事実があるからだ。「物語=フィクション」理解でさえ「何でもあり」ではないのだから、「歴史」理解が「何でもあり」であろうはずなどないのである。

実例を示そう。
「文学」作品における「読み=読解=解釈=理解」は「自由」だと言われる。そこには「唯一の読み=正解」など存在せず、読者ごとに「多様な読み=多様な正解」があるだけだとも言われる。
そうした場では、作者すら特権的な存在ではあり得ず、作者の作品に込めた意図は「(作品に対する)一つの解釈」でしかないとされる。つまり「作品の読解」とは「作者の意図を正しく読み解く」ことではなく、「作者の手を離れた、独立したテクストとしての作品を、正しく読み解く、深く発展的に読み解く」ことだとされるのだ。

しかし「文学」作品における「読み」が『「唯一の読み=正解」など存在せず、読者ごとに「多様な読み=多様な正解」があるだけだ』と言っても、それは「何でもあり」ということを意味するわけではない。
つまり、明らかに「誤読」は存在するのであり、「誤読」は「作品の読解」とは言えない、読者の側の単なる「思い込み」でしかない、ということになるのだ。

例えば、昔話「桃太郎」を「桃という宇宙船に乗って地球に飛来した宇宙人の話」だと「本気」で「理解」したとしたら、その人は「頭がおかしい」と、「正当に」理解されるだろう。
もちろん、こういう「読み」も、「お遊び」や「意図的な、過剰解釈」としては可能だが、決して「正当な解釈」だとは言えない。

ところが、『「唯一の読み=正解」など存在せず、読者ごとに「多様な読み=多様な正解」があるだけだ』などと言われると、本気で「何でもあり」だから「誤読は存在しない」と思い込んで、自身の「整合性もなく、穴だらけで、根拠薄弱な解釈」も「正当にして、他の解釈と同等の価値を有する読解だ」と主張する「頭の足りない」人が、少なからず出てくる。

映画にもなった中世ミステリ『薔薇の名前』の作者で、記号論学者としても世界的に著名だったウンベルト・エーコに、『開かれた作品』という文学論書がある。
これは「読者の自由な読解に開かれた作品」を肯定する趣旨で書かれた理論書なのだが、そんなエーコをもってしても、頭の足りない「どう読んでもかまわない=何でもあり」を主張する読者の存在が、悩みの種となる。
エーコが「開かれた作品」と言ったとしても、そこには「作品という具体的な枠」が厳然と存在しているのに、それを無視して「私はこう読んだ」と主張するような「頭のおかしい読者」が存在して、「多様な読み=多様な正解」と同等の扱いを要求してくるのである。

しかし、こうしたことが「間違い」であるのは、論を待たない。
「多様な読み=多様な正解」が「無限」に存在するとしても、それは「すべての読みが正解である」ということを意味しているわけではなく、「多様な読み=多様な正解」が「無限」に存在すると同時に、「多様な誤読」も「無限」に存在する、ということなのである。
つまり、「歴史修正主義」とは、こうした「自分勝手な誤読」の一種でしかないのだ。

では、「無限に存在する正しい読み」と「誤読」とを分ける「違い」とは、何だろうか?
それは「無限多様な事実や解釈に対する、可能なかぎり誠実な配慮」の「有無」なのではないだろうか。

例えば、一つの「歴史的事件」に「A、B、C、D、E」という五つの要素が含まれていたとする。
この場合「正しい読み」とは、この「五つの要素すべて」に配慮して、その整合性を確立した「解釈」だと言えるだろう。言い換えれば、この「五つの要素すべて」に配慮して、その整合性を確立した「解釈」であれば、その「結論」が違っていても、それらの解釈は、どれも「正しい解釈」だということになり、こうした意味で「多様な読み=多様な正解」が(原理的には)「無限」に存在する、と言えるのである。

では、「誤読」とは、どのようなものか。
それは「A、B、C、D、E」という五つの要素のうち、自分に都合の良い要素にしか配慮せず、不都合な要素については無視し排除するような「読み」だと言えるだろう。
例えば「天皇が本当に神様なら、戦争に負けるわけがない。したがって、アマテラスから続く万世一系の天皇家なんて話は、でっち上げられた政治神話にすぎない」とか「神が存在するなら、ホロコーストなど起こるはずがない」いった意見や事実を無視するような「歴史理解」は、「正しい読解」の要件を満たさない「誤読」である、と断ずることができるのである。

 ○ ○ ○

成田龍一の「歴史論集」全3巻を通読することで、私は、これまで漠然と考えていた「歴史」なるものを、批評的に見ることができるようになり、検討することが可能になった。

しかし、同じ「歴史論集」全3巻を通読しても、そうはならない人も少なくない。
「なんだかんだ言っても、歴史的事実は存在している。それなのに、それを相対化するような屁理屈をこねる利口ぶった学者が出てくるから、歴史修正主義者を勢いづけてしまったりするのだ」と、そんなふうに「誤読」する人が出てくる。

どうして、こんな「誤読」が可能なのかと言えば、それはこうした読者が、自分の考えに沿う部分だけしか読んでいないからだ。
成田の批評的立論を、不完全な自分を省みる契機とすることなく、権威による「追認」だけを求めるような甘ったれが、「A、B、C、D、E」といった内容の「A」と「C」だけを採用して、「すべて」を理解したと思い込む「浅慮」において、必然的に「誤読」してしまうのである。

初出:2021年9月7日「Amazonレビュー」



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ありがとうございます。お返しもできない不器用な奴ですみません。
その名のとおり、読書が趣味で、守備範囲はかなり広範ですが、主に「文学(全般)」「宗教」「社会問題」に関連するところ。昔から論争家で、書く文章は、いまどき流行らない、忌憚のない批評文が多い。要は、本音主義でおべんちゃらが大嫌い。ただし論理的です。だからタチが悪いとも言われる。