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ディートリヒ・ボンヘッファー 『共に生きる生活』 : 〈神〉と共に生きる生活

書評:ディートリヒ・ボンヘッファー『共に生きる生活』(新教出版社)

ディートリヒ・ボンヘッファーは、反ナチの抵抗運動に参加して、ベルリン陥落を目前にした大戦末期に絞首刑にされた、ドイツのプロテスタント神学者である。キリスト教神学者の中では、最も有名な一人だと言えよう。

彼の思考は常に、「信仰生活」と「現実的な社会生活」の分断をいかに乗り越えるかという、切実な問題意識に貫かれていた。
つまり「現実生活からの撤退(逃避)としての信仰」生活ではなく、真に「神の意図」に沿った社会生活者としてのキリスト者の「信仰と生活」とはどのようなものなのか、という「シンプルな難問」に立ち向かったのが、彼の神学だったのである。

本書『共に生きる生活』もまた、そうした思考の産物であり、決して「キリスト者だけの共同生活」のあり方を論じたものでない。それは、本書「解説」における、訳者・森野善右衛門の、次のような言葉にも明白だ。

『 キリスト者の交わりの問題は、「私的なサークルに関わる事柄としてではなく、教会に与えられた課題として取り上げられなければならない」という「(※ ボンヘッファーによる)序言」の言葉は、本書全体の意図するところを明確に示している。キリスト者の交わりは、閉鎖的なセクトではなく、また単に人間的な友好団体でもなく、カルト的集団であってもならない。本書においてボンヘッファーが追求しているキリスト者の交わりは、世界に対して開かれた、多様性における一致をめざすエキュメニカルな交わりである。』(P217)

ボンヘッファーの意図している「キリスト者の生活」とは、信仰に引き蘢った「観念的な生活(つまり「受肉した神」の意志を無視した信仰・生活)」ではなく、現実社会の中で「受肉した信仰」生活である。

そして、それを実現するキリスト者であるためには、どのようなキリスト者としての生き方が必要なのか、その実現を目指して実験的に試行したのが、本書のベースとなった『ボンヘッファーが所長であった告白教会牧師研修所と兄弟の家(ブルーダーハウス)における一期で二十数名の牧師研修生たちとの共同生活の経験』(P206)なのだ。
したがって、本書は「キリスト者のための、キリスト者による、キリスト者の生活」を語るものではなく、「すべての人々のための、キリスト者による、キリスト者の生活」とは、どのようなものであらねばならないかを示したものだと言えよう。

だからこそ、ボンヘッファーは本書で、すべての人間関係において必要なのは、人と人との直接的なつながりではなく、「神を介した(通した)つながり」である、と説く。
キリスト者の兄弟(信徒)間においても、私とあなたが直接つながるのではなく、神を間に挟んで、つながり、交わるのだ。それが出来てこそ、キリスト者は、非キリスト者とのつながりにおいても、当たり前に「神を通してのつながり」を持つことができる。
つまり、ここでの「神を通しての関係」というのは、単に「神を語る」とか「聖書の言葉を口にして」のつきあいとかいったことではなく、他者との関係は「神を通して」のもの以外にはあり得ないのが「キリスト者」だ、という意味なのだ。

しかし、これは「当たり前」であるにもかかわらず、決して実行の容易なものではない。
と言うのも、キリスト者の多くは「キリスト者になってしまえば(洗礼を受けてしまえば)」、キリスト者どうしの交際交友は、無前提に「キリスト者の交わり」だと考えがちだし、非キリスト者との交わりにおいても「聖書の言葉さえ口にしていれば」、キリスト者として、非キリスト者との交わりを持っているとの「思い違い」をしがちだからだ。
だが、無論そうではない。キリスト者がキリスト者であるのは、「組織的な帰属」や「口先」の問題ではなく、すべてにおいて「神を通して」世界や他者と向き合っているか否かという「実存的実態」、これが肝心なのである。
キリスト教信仰は、形式主義ではなく、「神を通して、神と共にある(実存)」というものであり、それがそのまま「すべての人々と、共に生きる生活」となっていなければならない。

だから、ボンフェッファーの説く「キリスト者の生活」は、「弱き羊の群れ」ではなく「孤立を怖れない牧者の群れ」だと考えられている。
キリスト者は、必要であれば、たった一人で行動できるものでなければならない。しかし、それが彼に可能なのは、彼にはいつも「神が共にいる」からなのである。その確信こそが「信仰」なのだ。

彼は言う。

『 (※ 人は)それぞれが深い淵と危険とを内蔵している。(※ だから)ひとりでいることなしに交わりを望む者は、言葉と感情の空虚さに陥り、交わりなしにひとりでいることを求める者は、虚無と自己幻想と絶望の深みに滅びる。
 ひとりでいることのできない者は、交わり〔に入ること〕を用心しなさい。交わりの中にいない者は、ひとりでいることを用心しなさい。
 キリスト者の家の交わりにおいて他者と共にいる日(※ のあと)に続くのは、それぞれがひとりでいる日である。これはそうでなければならない。ひとりでいる日がなければ、他者と共にいる日は、交わりにとっても個人にとっても実りのないものとなる。』(P111)

ここで言う、キリスト者が「ひとりでいる」ことの必要性とその自覚とは、じつは彼(キリスト者)が「神と共にあるかぎり、決して独りではない」のだということを示している。だからこそ、彼はひとりでいても「孤独」にはならないし「人恋しさ」に捕われて交わりを求めたりもしない。
一方「神と共にある」彼は、当然のことながら、他者との交わりをもとめる。神が彼を、人々の間へと派遣するのだから、彼はひとりでいることに「引き蘢る」ことなどできない相談なのだ。だからこそ、キリスト者は「連帯を求めて孤立を恐れない」者となる。

この言葉が、我が国における全共闘運動のスローガン「連帯を求めて孤立を恐れず」(谷川雁)の言葉とそっくりなのは、無論、何の不思議もない。
真摯に「この世界」と向き合って生きるキリスト者と非キリスト者は、そこに「神」というかたちでの意識を持つ持たないにかかわりなく、「神」を挟んでこの世界と向き合っている者どおしなのだ。

真摯なキリスト者は、「神」をとおして「現実社会」と向き合い、真摯な非キリスト者は、「社会」をとおして、知らずに「神」と向き合っている。
この世を、「現実社会」を真摯に生きる者としてのキリスト者と非キリスト者は、神を挟んで、反対側から「現実社会」と向き合っているのである。

このように、ボンヘッファーの言葉と信仰は、非キリスト者をも「現実社会」に目覚めさせる力を持っている。

「(肉としての)現実社会に目覚めよ、そしてそれに仕えよ」一一それが「救いの神=受肉した神」の意志だからである。

初出:2020年5月22日「Amazonレビュー」
  (2022年8月1日、閉鎖により閲覧不能)

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