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ジョルジョ・アガンベン 『アウシュヴィッツの残りもの アルシーヴと証人』 : 私のための 「注釈」

書評:ジョルジョ・アガンベン『アウシュヴィッツの残りもの アルシーヴと証人』(月曜社)

本書で扱われるのは、第二次世界大戦下、ナチスドイツの進めたユダヤ人絶滅計画における「絶滅収容所」に入れられたユダヤ人たちの中でも、近年、注目されることになった「回教徒(ムーゼルマン)」の問題である。

「回教徒(ムーゼルマン)」とは、無論「比喩表現」なのだが、この言葉が、収容所収容者(囚人)たちの中でも、「どのような状態」にあった人たちを指す言葉なのかを、まずは本書から孫引きで紹介しておこう。(以下、「※」は本稿筆者による註、または補足説明である)

(1)『あらゆる希望を捨て、(※ ユダヤ人収容者)仲間から(※ も)見捨てられ、善と悪、気高さと卑しさ、精神性と非精神性を区別することのできる意識の領域をもう有していない囚人が収容所の言葉で呼ばれた名にしたがうなら、いわゆる回教徒(ムーゼルマン)である。彼はよろよろと歩く死体であり、身体的機能の束が最後の痲痺をしているにすぎなかった。わたしたちは、それがどれほど苦渋に満ちた選択におもわれようとも、かれを顧慮の外に排除しなければならない(※ 彼らを気遣っていては、生き残れなかった)。(Amery,p.39)』(P51)

(2)『かれらはすでに生きる意志をすっかり失っている者たちのうちの比較的大きな層である。かれらは収容所では回教徒と呼ばれていた。すなわち、絶対的宿命論の民である。しかしながら、かれらが死を覚悟しているのは、意志を実現させたこと(※ 自らの決断)によるのではなく、意志を破壊させてしまったことによるものだった。かれらは起こることを起こるがままにしていた。なぜなら、かれらの力のすべてがそがれ、無にされていたからである。(Kogon,p.400)』(P56〜57)

(3)『その(※ ムーゼルマンになるという)経験をしていない者たちは、それがなんだったのかを知るすべはない。その体験をした者たちは、もうそれについて語ることはない。本当に、どこまでも語ることはないのだ。(※ 語られるべき)過去は死者(※ となったムーゼルマン)たち(※ だけ)に属している。〔……〕(Wiesel,p.314)』(P40)

(4)『くり返し言うが、わたしたち、生き残って証言する者は、本当の証人ではない。〔……〕わたしたち、生き残った者は、わずかな少数者であるだけではなく、例外的な少数者である。わたしたちは、不正のゆえに、あるいは能力のゆえに、あるいは幸運のゆえに、底に触れることのなかった者たちなのである。底に触れた者、ゴルゴンを見てしまった者は、戻ってきて語ることはなかった。あるいは、戻ってきたとしても、黙していた。しかし、かれら、「回教徒」、沈んでしまった者たちこそは、完全な証人であり、包括的な意味内容をもった証言ができたはずの者である。かれらが正規なのであって、わたしたちは例外なのだ。〔……〕運がよかったわたしたちは、自分の運命についてだけではなく、他人の運命についても、そう、沈んでしまった者たちの運命についても、多少の知恵を働かせて語ろうとした。しかし、それは「第三者の立場からの」話、身をもって体験せずに傍から見たことについての話だった。完遂された破壊、なしとげられた作業については、誰も語ってこなかった。戻ってきて自分の死について語ることは誰にもけっしてできないのだ。それだけではない。沈んでしまった者たちは、たとえ紙とペンを持っていたとしても、証言するこちはなかっただろう。というのも、かれらの死は、身体的な死よりも前に始まっていたからである。死ぬよりも数週間前、数か月前に、かれらはすでに観察し記録し比較考慮し、考えを述べる力を失っていた。わたしたちは、かれらの代わりに、代理として語っているのである。(Levi2,p.64f)』(P41)

これで、「回教徒(ムーゼルマン)」の意味するところが、おおよそイメージできたと思う。

「回教徒」とは、単に「飢えて疲れて気力を失った」状態の人を指すものではなく、「すでに内面を破壊されて、生ける屍になってしまった」状態の人を指している。
つまり、「回教徒」は、絶滅収容所に入れられたユダヤ人の中でも、もっとも「非人間化されてしまった」被害者であり、絶滅収容所における「最悪の犯罪」の被害者なのである。

無論、「殺される」ことは、「最悪な被害」ではあるのだが、しかし、それをより仔細に見るならば、「回復しようもないほど、心を壊され奪われ、動く死体にされた状態で、しばらくは生かされているだけの、実質的には殺された状態」とは、あっさりと「(物理的に)殺される」場合よりも「最悪の被害」であるとは言えまいか。その、個人の尊厳と人間の尊厳を、徹底的に晒しものにするようなおこないは、悪魔的な「最悪の犯罪」ということにはならないだろうか。

こうした「回教徒」の存在が知られるまでは、ユダヤ人虐殺(ホロコースト)と言えば、「大量殺戮」とか「大量抹殺」といった、ある意味では「量的な面」を中心にして、その「規模の比類なさ」ばかりが強調的に語られてきた。

しかし、「絶滅収容所」には、そうした「数字」には還元できない、「質的」な「最悪さ」があったのであり、それが「回教徒」の存在なのだが、「回教徒」の存在を知らされたからには、もはや私たちは、「数的」な問題に驚き嘆くだけではなく、その「質」の「意味」を問わないかぎり、「ユダヤ人虐殺(ホロコースト)」の惨禍と向き合ったことにはならない。

しかしまた、「回教徒」とは何か、それが何を意味するのかという問題は、そう簡単に「結論を出して、片付け」られるようなものではない。

だからこそ、本書著者アガンベンは、本書での試みを、次のように説明している。

(5)『 歴史家の観点からは、たとえば大量殺戮の最終局面がどのようであったのか、どのようにして収容者たちをほかでもないかれらの仲間からなる特別労働班(いわゆるゾンダーコマンド)がガス室に連れていき、死体を外に引きずり出して洗い、死体から金歯と髪の毛を採取したのち、最後に死体を火葬場の炉のなかに投じたのかを、わたしたちは細部にいたるまで知っている。しかし、わたしたちは、これらのできごとについて記述し、時間軸にそって順に並べることはできても、できごと自体を本当に理解しようとすると、奇妙なことに、それらのできごとは不透明なままなのだ。この隔りと居心地の悪さをザルメン・レーヴェンタールほど直截に書き記した者はいないだろう。かれは特別労働班の一員で、第三火葬場のかたわらに埋められたいくつかの紙片にみずからの証言を残しており、それらはアウシュビィッツの解放から十七年後に日の目を見ることになった。レーヴェンタールは簡潔なイディッシュ語でこう書いている。

できごとがどのように起こっているのかについて、いかなる人間も、これほど正確に想像することはできないだろう。そう、わたしたちの体験がどのようになされているのかについて、これほど正確に伝えることができるとは考えられないのだ。〔……〕わたしたちは一一陰に隠れた小さな一団は、歴史家たちにやるべき仕事を多くは提供しないだろう。

 ここにあるのが、もっとも内密の体験を他人に伝えようとするときにわたしたちが通常感じる困難でないことは明らかである。(※ 伝えるが、伝わらないだろう、という)ギャップは、証言の構造そのものにある。じっさい、一方では、収容所で起こったことは、生き残って証言する者たちにとってはかけがえのない真実であり、そうであるからには、けっして忘れることのできないものである。が、他方では、この真実は、まさにそれ自体としては想像もできないものである。つまりは、その真実を構成する現実的諸要素には還元できないのだ。これ以上に真実なものはないというくらいにリアルな真実。事実的諸要素を必然的に逸脱してしまっているほどのリアルさ。これがアウシュビィッツのアポリアである。レーヴェンタールの紙片に書かれているように、「真実そのものははるかに悲惨であり、ずっと恐ろしい」。いったい、なにと比べて悲惨で恐ろしいというのだろうか。
 しかし、少なくとも一点において、レーヴェンタールはまちがっていた。その「陰に隠れた小さな一団」(陰に隠れているというのは、ここでは、目に見えず、気づかれないという、文字どおりの意味にも理解すべきである)が歴史家たちにやるべき仕事を提供することをやめないだろうというのは明らかであろうとおもわれる。じつのところ、アウシュビィッツのアポリアは歴史認識のアポリアに他ならない。すなわち、事実と真実、確証と理解のあいだの不一致である。
 このようなわけで、すべて納得してしまう者のようにあまりにも拙速に理解しようとするのでもなく、安直に神聖化してしまう者のように理解を拒否するのでもなく、その隔たりのもとに留まりつづけることが、著者には唯一の実践可能な方途であるようにおもわれた。』(P8〜9)

(6)『 生き残った者たちの証言にかんして新しいものがこの本にはほとんどないことを知って、読者はがっかりするかもしれない。形としては、この本はいわば証言にたいする終わりのない注釈である。これ以外のやり方はありえないようにおもわれたのである。もっとも、証言にはその本質的な部分として欠落がともっているということ、すなわち、生き残って証言する者たちは証言しえないものについて証言してるのだということがある時点で明らかとなったので、かれらの証言について注釈することは、必然的に、その欠落について問うことを意味するようになった。あるいはむしろ、その欠落に耳を傾けようとすることを意味するようになった。欠落に耳を傾けることは、著者にはむだな労力とはおもわれなかった。それはなによりもまず、アウシュヴィッツ以後に倫理の名を思いあがって自称しているほとんどすべての理論を一掃することを著者に強いた。あとで見るように、現代の人々が妥当なものと認めることができると信じている倫理の原理のほとんどどれも、最後の試練、すなわち〈アウシュビィッツの流儀で証明されたエチカ(Ethica more Auschwitz demonstrata)〉として通用するための試練に耐えられなかった。』(P10)

『すべて納得してしまう者のようにあまりにも拙速に理解しようとするのでもなく、安直に神聖化してしまう者のように理解を拒否するのでもなく、その隔たりのもとに留まりつづけること』が、ひとまず可能なことであり、そこで、今できることとは、聞くことのできない、生還しなかった「回教徒」たちの、存在しない言葉ではなく、彼らのことを語っている「生還者としての、回教徒の代弁人の言葉」あるいは「生還はできなかった人たちの手によって残された、回教徒に関する文書」に、丁寧に「注釈」を加えていき、そこから「回教徒」という存在の意味に迫っていくことだと、おおむねそういうことである。そもそも、それ以外に、何ができるであろう。
それでも、私たちは、やれることをやらなければならない「義務」を負っている。

なぜなら、私たちは、次のような「誤認」のもとにあって、「ホロコースト」の問題を「片付けた」つもりになり、安心を得てきたのだけれども、それは実際のところ、「ホロコーストの最悪の部分」から目をそらして、「回教徒」たちを見捨ててきたも同然であったからだ。

(7)『法律家なら十分承知しているように、じっさいには結局のところ、法律は正義の確保をめざしているのではない。また、真理の確保をめざしているのでもない。法律は、真理からも正義からも独立に、もっぱら判決をめざしている。このことは、不当な判決でさえもがもっている既判力を見れば、なんの疑いもなく明らかである。既判事項(res judicata)の産出によって、判決は真理と正義に取って代わる。そして、この産出は、たとえそれが偽りで不当であろうと、真なる産出として効力をもつのであって、既判事項の産出が法律の究極の目的なのである。事実とも道徳規範とも言えない、この雑種的なしろもののうちに、法律は平安を見いだす。法律がそこから先に行くことは不可能である。』(P18)

(イスラエルでの裁判を受ける、アドルフ・アイヒマン)

(8)『あれらの裁判(ニュルンベルクでおこなわれた十二の裁判、および、アイヒマンの絞首刑をもって終わり、ドイツ連邦共和国における新たな一連の裁判に道を開くことになるイェルサレムの一九六一年の裁判にいたるまでの、ドイツ国境の内外でおこなわれたその他の裁判)にこそ、アウシュヴィッツについて考えることを何十年もさまたげてきた知的混同の責任があるのかもしれない。あれらの裁判は必要であったのであり、また明らかに不十分なものであったにもかかわらず(全部合わせてもわずか数百人しか起訴されなかった)、それらはアウシュビィッツの問題はもう終わったという観念が流布するのを助長してきた。それらが下した判決はすでに既判事項となっており、有罪の証拠は最終的に認定されているのである。たいていは孤立している何人かの明晰な頭脳を別にすれば、法律がこの問題のすべてではないこと、それどころか、ひょっとするとこの問題は、法律そのものを疑問視するほどに、法律を破滅に引きずりこむほどに巨大な問題であったかもしれないことを理解するのに、ほとんど半世紀を要したのであった。』(P20)

(東京裁判の東條英機)

「反省しました」「賠償しました」「悲劇の本質をよく理解しました」と申告することで、この難問を「お払い箱」にして、さっさと「お役御免」になりたいところなのだろうが、人間が生み出した「最悪の部分」であり、かつ「語り得ない存在」についての問題であるからこそ、「回教徒」たちは、今も私たちに「問いかけている」おり、私たちには、私たち自身を知るための「応答義務」が、そこに課せられている。

(9)『 ところで、レーヴィが伝えるところでは、アウシュビィッツの最後の特別労働班のなかでわずかに生き残った者のひとりであるミクローシュ・ニイスリという証人は、「作業」の中断中に、SSとゾンダーコマンドの代表者たちがサッカーの試合をしているのを観戦したことがあったと語っている。

SSのほかの兵士と特別労働班の残りの者は、その試合を観戦し、選手たちを応援し、賭け、拍手喝采し、声援を送る。それは地獄の門の前でではなくて、まるで村のグランドで試合をやっているかのようだった。(P40)

 ことによると、この試合がかぎりない恐怖のただなかでの人間味のある小休止に見える人がいるかもしれない。だが、わたしの目には、証言者たちの目にそう映ったのと同じく、この試合、この一見してごく平常の瞬間は、収容所の真の恐怖を物語っているもののように映る。というのも、わたしたちはひょっとすると、虐殺はもう終わったものと考えているのかもしれないからである一一たとえあちこちで、わたしたちからさほど遠くないところで散発的にくり返されているにしてもである。ところが、試合はけっして終わってはいない。どうやら、途切れることなく、いまだに続行されているようなのだ。それは「グレイ・ゾーン」の永遠なる完全数であり、時間を知らず、あらゆる場所にあまねく存在している。生き残った者の苦悩と恥ずかしさ、「いっさいが神の精神〔霊〕のもとに圧せられていて、しかしながら人間の精神はまだ生まれていないかすでに消滅してしまったために不在のトーフ・ヴァヴォフ(『創世記』一・二参照)、すなわち荒涼とした空虚な宇宙にいるあらゆるもののうちに刻みこまれた苦悩」(P.66)は、ここから生まれてくる。しかし、それはわたしたちの恥ずかしさでもある。収容所を知らず、それでもどういうわけかその試合を観戦しているわたしたちの恥ずかしさでもあるのだ。この試合は、わたしたちのスタジアムでおこなわれるあらゆる試合のうちで、あらゆるテレビ放送のうちで、日常のあらゆるありきたりなもののうちでくり返されている。わたしたちがその試合を理解し、それを止めさせることができないかぎり、希望は絶対にないであろう。』(P28〜29)

ここで言われていることを、わかりやすく例えるならば「コロナ緊急事態宣言下で開催された、オリンピックを楽しむこと」。それと、まったく同じことだ。
犠牲者が日々生み出されている「地獄の門の前」にいることを知りながら、「金メダル」がどうのと盛り上がれる心性と、虐殺収容所でのサッカーに打ち興じられる心性に、いったいどれほどの違いがあろう。

(東京五輪2020)

しかし、これは単に「非常時」だけの問題ではない。
なぜなら、この世界には、常時「非常時」の存在することを、私たちは知っているのだから、「コロナ緊急事態宣言」が解除されたからといって、晴れて、やましさもなく「WBCを楽しむことに、何ら恥ずるところはない」ということには、ならない、ということである。

しかしまた、アガンベンがここで問題にしているのは、単に、こうした「スポーツイベント」や「花見・行楽」といった「娯楽」に止まるものではない。

例えば、「テレビドラマを視る」「ニュース番組を視て、世界情勢を知る」なども、「本を読む」「哲学書を読む」「アガンベンの『アウシュヴィッツの残りもの』を読む」「書評を書く」「アガンベンはすごいと褒め称える」といったことなども、すべて含まれている、と解するべきだ。

自分だけは「回教徒のことを考えて、胸を痛めている」として「自己免責」してしまい、それで、今を「無条件に楽しむ」ことを許されているかのように思い込むのは、普遍的な「回教徒」の問題から、顔を背けることでしかない。

(10)『 西暦三八六年にヨアンネス・クリュソストモスはアンティオキアで『神の把握しがたさ〔理解不可能性〕について』という論文を書いた。「神が自分自身について知っていることのすべてをわたしたちはわたしたち自身のうちも容易に見いだす」から神の本質は理解されうると主張する論敵たちをかれは相手にしていた。「言語を絶し(arrhetos)」、「名状しがたく(anukdiēgētos)」、「書きあらわしえない(anepigraptos)」神の絶対的な理解不可能性をかれらに抗して雄弁に主張するとき、ヨアンネスは、まさにこれが神を讃える(doxan didonai)ための、また神を崇める(proskyein)ための最良の言い方であることをよく理解している。しかも、神は、天使たちにとっても理解不能で不可能である。しかし、このためにますます天使たちは神を讃え、崇め、休みなく自分たちの神秘的な歌を捧げることができる。天使の勢力にヨアンネスが対置するのは、いたずらに理解しようとする者たちである。「前者(天使たち)は讃え、後者はなんとしても知ろうとする。前者は沈黙のうちに崇め、後者は躍起になる。前者は目をそらし、後者は、恥じることもなく、名状しがたい栄光を凝視する」(Chrysostome,p.129)。「沈黙のうちに崇める」と訳した動詞は、ギリシャ語原文では euphēmein である。もともと「敬虔な沈黙を守る」を意味するこの語から「婉曲語法(eufemismo)」という近代語が派生する。この近代語は、羞恥もしくは礼儀のために口にすることができない言葉を代用する言葉を指す。アウシュヴィッツは「言語を絶する」とか「理解不能である」と言うことは、euphēmein、すなわち沈黙のうちにそれを崇めることに等しい。神にたいしてそうすることがごとくにである。すなわち、そのように言うことは、その人の意図がどうあれ、アウシュヴィッツを讃えることを意味する。これにたいして、わたしたちは「恥じることもなく、名状しがたいものを凝視する」。たとえ、その結果、悪が自分自身について知っていることをわたしたちはわたしたち自身にのうちにも容易に見いだすということに気づかされることになろうともである。』(P38〜39)

『アウシュヴィッツは「言語を絶する」とか「理解不能である」と言うこと』は、「神は、言語を絶するほどに偉大な存在であり、人間の理解など及ぶべくもない」などと言って、自身の「敬虔さ」をアピールすることしか考えていない、キリスト教徒の「小狡さ」と同じことである。

もっと卑近な例を言えば、ある映画を観て「感動しました!」「泣きました!」「10回、観ました!」などと言って済ませるというのは、「作品と真剣に向き合っている」のではなく、ただ「自分は、この作品のベスト理解者である」ということをアピールしているだけでしかなく、これも同種のことなのだ。

「目をそらし」「敬虔な沈黙を守る(語らない)」ことが「神への敬虔さ」であるとアピールする、その御都合主義的自己正当化こそが、「回教徒」の現実から目をそらし、「悲劇だ」「重大問題だ」などと言うだけで済ませて、それそのものを直視すること引き受けようとはしない、悪質な欺瞞と同じなのである。

だから、私たちは「恥じることもなく、その名状しがたい難問を凝視する」のでなくてはならない。

(ダンテ『神曲 天獄編』より、天使の薔薇)

(11)『 収容所の住人全体は、顔をもたない中心を休みなく回りつづける巨大な渦巻きにほかならないといってもよい。しかし、その匿名の渦巻きの中心は、ダンテの天国にある神秘的な薔薇のように、「わたしたちの姿に似せて描かれており」、人間の本当の本姿が刻みこまれていた。人間が忌み嫌うものは自分がそれに似ているのを知られたくないものでもあるという法則に従うなら、回教徒こそは、みながこぞって回避しようとするものである。というのも、収容所のだれもが、その抹消された顔のうちに自分を認めるからである。
 あらゆる証人が回教徒のことを中心的な体験として語っているにもかかわらず、ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅についての歴史研究において回教徒の名が口にされるようになってまだ間がないというのは、奇妙なことである。ほぼ五十年たった今になってようやく、それは十分に目に見えるようになってきたようである。今になってようやく、わたしたちはこの可視性もたらすもろもろの帰結を導きだすことができるようになった。というのも、その可視性が含意するのは、これまで収容所についての解釈を独占的に方向づけてきた大量殺戮のパラダイムがもうひとつのパラダイムにとって代わられるというのではないが、そこにもうひとつのパラダイムが付け加えられて、そのもうひとつのパラダイムが大量殺戮そのものに新たな光を当て、ある意味ではそれをはるかに残酷なものに変えるということだからである。死の収容所であるよりもまえに、アウシュヴィッツは、生と死を超えたところでユダヤ人が回教徒に変容し、人間が非-人間に変容するという、これまで考えられたこともない実験場である。回教徒が何者であるのか、あるいは何物であるのかをまず理解するまでは、かれといっしょにゴルゴンを見つめることを習得するまでは、わたしたちはアウシュヴィッツがなんであるのかを理解することはないだろう。』(P66〜67)

それにしても、「キリスト教(宗教)」や「映画(娯楽)」などであれば、ただ自己顕示のために「わかった」アピールをしているだけでも、あるいは許されよう。
しかし、「回教徒」の存在は、他人事ではない。

それを直視した者の「心」を石に変えてしまうような、ゴルゴンのごとき「恐ろしい現実」であろうとも、私たちは「石(のような何物か)」にされてしまった彼らを、見捨てるわけにはいかない。なぜなら、彼らを「石」にして廃棄したのは、私たちの中にも住んでいる「ゴルゴン」だからである。

(ゴルゴンを倒したペルセウス)

私たちは、「回教徒」の現実を直視しようとする努力の中で、私たち自身の中に「隠されて在るもの」を直視することになる。だから、それを直視しなければならないのだ。

(12)『罪を感じる能力だけが、わたしたちを人間にする。客観的に見てわたしたちに罪がない場合には、とりわけそうである。(P.231)』(P124)

「何も、私自身がユダヤ人を殺したのではない」「何も私自身が、戦争犯罪を犯したのではない」と、そういう「法律」的な意味では、私たちの多くに「罪」はないだろう。

しかし、「客観的に見て」つまり「法律的に見て」、自分自身には「罪がない場合」にこそ、自分の「罪」を感じられる者が、「人間」でいられるのだ。

言い換えれば、自分は「客観的に無関係だから」あるいは「法的な罪はないから」から、「罪の意識」など持つわけもない、などと、平然としていられる人間は、ユダヤ人たちをナチスに売り渡し、朝鮮人たちを見殺しにすることができる人間だ、ということである。

(13)『 レヴィナスの分析をさらに進めてみよう。恥じることが意味するのは、つぎのことである。すなわち、引き受けることのできないもののもとに引き渡されることである。しかし、この引き受けることのできないものは、外部にあるものではなく、まさにわたしたちの内密性に由来するものである。それは、わたしたちの内部の奥深くにあるもの(たとえばわたしたちの生理学的な生そのもの)である。すなわち、ここでは、自我は、それ自身の受動性によって、それのもっとも固有の感受性によって凌駕され、乗り越えられる。しかし、自分のものではなくなり、脱主体化されたこの存在は、自己自身のもとへの自我の極端で執拗な現前でもある。あたかも、わたしたちの意識がどこまで崩れ、こぼれ出ていきながら、それと同時に、さからえない命令によって、自分の崩壊に、絶対的に自分のものでありながら自分のものではないものに、いやおうなく立ち会うよう呼びつけられているかのようである。すなわち、恥ずかしさにおいて、主体は自分自身の脱主体化という中身しかもっておらず、自分自身の破産、主体としての自分自身の喪失の証人となる。主体化にして脱主体化というと、この二重の運動が、恥ずかしさである。』(P141〜142)

(14)『ベンヤミンの『一方通行』のアフォリズムに、簡潔でうってつけの分析がある。ベンヤミンによれば、嫌悪において働いている主要な感情は、自分が不快に感じるものをもとにして自分が認知されることへの恐れである。「魂の奥深くでおののいているのは、自分のなかにおぞましい動物とほとんど異なるところのないものが棲んでいて、この動物をもとにして自分が認知できるものとなることについてのぼんやりとした意識である」(Benjamin,P.11)。このことが意味するのは、嫌悪を感じる者は、いわば、みずからが嫌悪する対象のうちに自己を認めていて、ひいては自分がそれをもとに認知されるのを恐れているということである。嫌悪を感じる人間は、引き受けることのできない他性のうちに自己を認める。すなわち、絶対的な脱主体化のもとで主体化を実現するのである。』(P142〜143)

「恥じる」というのは、「その恥ずべきもの」が、自分とは無関係だから、平然と「恥じられる」のではない。それが、自分の中にもあって、それが出てくるのを恐れて、それを「恥じる」のである。
「金輪際、そんなものにはなりたくない」という「羞恥」の感情が、自然と湧き上がってきて、自分の「恥ずかしい部分」の表面化を押さえつけるのである。

言い換えれば、「自分はそんなものとは関係ない」とか「ひどいことをする奴らだねえ。自分は、絶対そんなことはしないし、考えられないことだよ」などと澄ましていられる人間は、自分の中にもあるもの、「回教徒」を生み出す「ゴルゴン(怪物)」を、野放しにしているに等しい。

だから、私たちは「恥」を知って、「回教徒」の存在に「罪」を感じ、その「罪」の意味を問い続けないわけにはいかないのである。


(2023年4月1日)

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