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岡田温司 『[増補] アガンベン読解』 : 〈反実際〉的な思想家・ ジョルジョ・アガンベン

書評:岡田温司『[増補]アガンベン読解』(平凡社ライブラリー)

ジョルジョ・アガンベンという思想家には、長らく興味がなかった。
なぜなら、その「剥き出しの生」とか「例外状況」とかいったテーマは、すでにどこかで論じられているもののようで新鮮味に欠け、それでいて「時事性」も感じられないから、「いま読む必要はないや」と、おのずと後回しにしてしまったのである。

ところが、先日、翻訳刊行された『王国と楽園』は、「キリスト教」がテーマであり、しかも「アウグスティヌスの贖罪論」批判の、まさに「異端の書」。そう紹介されていたので、趣味でキリスト教を批判的に研究している者としては、これは無視できないと飛びつくことになった。

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で、『王国と楽園』は、キリスト教批判の面で、とても面白かったのだが、さすがは現代思想家の著作。一読して「ひととおりの理解が得られた」というわけにはいかなかった。
しかしまた、アガンベンには、他にキリスト教関連の著作があり、それらも読みたいと思ったので、その前に、アガンベンについて、ひととおりの知識を得ておくべきだと考えて、本書を手に取ったのである。

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本書を一読して、『王国と楽園』でフワッと感じていたことが、かなり整理されたように思う。
要は、アガンベンは「カトリック的な思想家」だということだ。一一だから、分かりづらい。

私は、基本的にキリスト教批判者(宗教批判者)だし、キリスト教の中では、プロテスタントよりもカトリックに厳しい。
なぜなら、カトリックは「権威主義的」であり、その点で「伝統主義」であり「特権主義的非理性主義」であるから、「現世の現実問題」に対して、真正面から取り組もうとしないところがあるからだ。
「われわれは、あくまでも霊性の側面から、この地上の問題に取り組む。それが、最も本質的なアプローチだからだ」というような感じなのである。

無論それは、一つの立場としてわからないでもないのだけれど、しかし、それならそれで、「霊性」的側面へのアプローチと、「現世現実(地上)」的な側面へのアプローチという、言わば「両面作戦」であっても良いのではないか。どうもカトリックは、権威主義的に「専門家」的な立場にあぐらをかいて「現世(地上)のリアルな生への、責任意識が足りない」と、そんな印象があったのだ。

私が、現ローマ教皇(法王)であるフランシスコに共感的なのも、彼が「現実問題」に取り組む、現実主義者の一面を持っているからだ。
無論、彼とてカトリックだから、プロテスタント的な「現実主義」とは違い、あくまでも信仰と現実との一体性を重視しており、そこで物足りない(不徹底)と感じられる部分はある。しかし、頑張っているとは思うから、支持し応援しているのである。

こうした観点からすると、アガンベンというカトリック信者の思想家は、コロナ禍問題に関してフランシスコを批判したことからもわかるとおり、かなり強く「カトリック的な立場」に立つ思想家だと言えるだろう。
この場合の「カトリック的立場」というのは、「カトリック的な権威主義」とか「教会主義」といったこと(保守主義)ではなく、「霊的な立場」に徹することで、現実にアプローチして、それ(現実)を動かそうという立場のことである。

そして、ここでいう「霊的」とは、日本で流行りの「霊性主義者(スピリチュアリスト)」たちの言う「勿体ぶった、エリート主義的精神主義」のことではなく、人間における「本質主義」のことであり、要は、「現実重視」故の「安易な、方法的実効性主義」ではなく、「本質」を重視してそこから離れずに、しかし、現実と対峙していく、というような立場だ。言い換えるならば、「哲学的な現実アプローチ主義」だとでも言えるだろうか。

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そうした意味で、アガンベンというのは、きわめて「文学的」な思想家だと言えるだろう。彼が「美学批評」から、その経歴を始めた人だというのも、その点でとても納得できる。

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また、その意味で、とてもレトリカルであり、現実主義的論理主義ではない点が、もともと文学趣味の私には合っていて、読んでいて分かりにくくはあっても、「気持ちがいい」という意味で面白い。
有無を言わせず論理的に説き伏せるとか、「わからないのは、読者であるあなたの頭が悪いせいだ」といったような力技ではなく、読者である私が、主体的にあれこれ考える余地を残している。一一と言うか、「こうしろ」「こうすべき」といった、わかりやすい答えを与えてはくれない。

そんなところが、私には合ってはいるのだけれど、しかしまた、そういう部分が「曖昧さ」や「無責任さ」とも評価され、批判されることにもなる。
「現実の重み」に対し、責任を持って対峙しておらず、レトリックの遊戯に逃げている、と見られるからであろう。

そして、この批判も、決して間違いではなく、たぶん、アガンベンは、そのカトリック的感性において、問題を「社会的」に扱うことを、自覚的に拒否しているのではないかと思う。

彼にとっての問題であり、問題解決とは、結局は個々人の内面での変化なくしてはあり得ないと、そう考えられている。だから、左翼的、あるいはプロテスタント的な「現実主義の方法論」は、「小手先」の方法論に過ぎず、それは現実的対処と見えながら、じつは本質的な変革をもたらさない、表面的な対処主義(場当たり的な補修主義)としか思えないのではないだろうか。

私としては「その両方が必要」という立場なのだが、哲学者のように、徹底的に考える(本質にまで掘り下げる)という立場からすれば、私のような「中途半端」な立場は、所詮は場当たり的対処にもならない、ということになるのだろうと思う。
しかしまた、哲学者でもなんでもない、ただの凡庸な個人である私としては、あえてどちらかに徹して、それで満足するということもできないのだ。だからこそ、「宗教」や「思想哲学」あるいは「文学」の問題に(趣味的に)終始することができす、現実の「社会問題」にも目を向けているし、そうせざるを得ないのである。

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ただ、私自身の本質がどちらに近いのかと言えば、アガンベン的な本質主義に近いように思う。内側からの改革主義だ。
それは私が、宗教批判をしながらも、その本質が「宗教が、あるべき宗教ではない」という現実への「理想主義的(完璧主義的)苛立ち」にあることからも明らかであろう。宗教が、現実には、世俗的に堕落したものでしかないからこそ、宗教を批判しているわけで、その意味では私は、下手な宗教家よりも、本質的には「信仰者」なのだと思う。

そして、同様の意味で、アガンベンという人は、現実のカトリックが不満でならないからこそ、カトリックを厳しく批判してしまう、「純粋主義」的な、その意味での「異端」のカトリックなのであろう。

(2022年4月10日)

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