個人的に 将棋で見事な一局だと思う 要素のひとつは 「駒が歩一枚余らずに ピッタリ詰みあがる」 終わり方であること これを食事に喩えれば、 料理はもちろんのこと タレや調味料も キレイに使い切って お皿に余さずに ごちそうさま を迎えることじゃないだろうか 美しく食べたいよね
現代人を殺すにゃ刃物は要らぬ スマホを叩き割ればいい スマホは便利だ 私も多くの恩恵を受けている それは紛れもない事実 だが、それに依存した人間にはなりたくない 「スマホがなければ 生きていけない」 というのは、私の美学には反する スマホではなく、私自身に価値があるのだ
最近 マンガ「NARUTO」を 読み始めたのだが、 ロック・リーを見て 改めて考えた 鬼滅の刃の 我妻善逸 にしても 将棋の 藤井猛 九段 にしても 「徹底的に一芸を極める」ということに 私は たまらない魅力を感じるようだ 「これだけは誰にも負けない」 と誇れるものは美しい
大人になっても純粋さは失わない。 その純粋さを失ったら、僕は自分の絵を描けなくなるだろう。 自分に本当に正直でいることをすべて放棄しなければ、僕はその純粋な絵を描写し続けることができるだろう。 大人って、澱んだことばかりじゃなくて、大人の純粋な涙も残ってるってことを言いたいのだ🤭
書くと建築は似ている🏢 「名建築で昼食を」を見返す。うっとりする。基礎があって組み上げる、作者のこだわりがそこかしこに散りばめられている、100年前の作品にも色あせない美学がある。わたしは建てれないから、noteは一人でできる建造物だから 書いているのかもしれない。
(バウムガルテン) 美的真理はその対象における道徳的可能性を要求する。つまり例えば一定の人間の所与の自由、所与の人格と道徳的性格から流れでると理性類似者に思われるだけの質と量のものが自由からのみ導きだされるようにということである。これがあの「生の真実に一層近づく」ということである