Makoto Shirasu

「毎日をていねいに暮らす」を大切に。 興味の中心は「生命・自然・調和」。哲学、ア…

Makoto Shirasu

「毎日をていねいに暮らす」を大切に。 興味の中心は「生命・自然・調和」。哲学、アート、デザイン、サイエンス、音楽、ヨガなど幅広く。 総合商社 → AIエンジニア → 事業統括・PM・事業開発・サービスデザイン@startup → 自由に。

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「味わう」ということ〜体験の全体性〜

風邪をひいて体調を崩すと、食事をした際に味がぼんやりと感じられることがあります。鼻が詰まっていて香りが感じられない、舌の感覚(味覚)がぼんやりする、あるいはその両方。 あらためて思うのは「味とは食材や料理と自分自身の間で生まれる現象」ということです。決まった食材、調理法によって出来上がった料理の味は自分の状態、感じ方に左右される。「味わい」とは、食材、料理と私の間に存在する「流動的な関係性」であると思えるのです。 世の中には数々の食材、それらの味わいを引き出す調理法が存在

    • 聴覚優位〜内側から音の記憶を喚び起こすことの能動性〜

      ふと、自分は「聴覚」が優位なのかもしれない、と思いました。 五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)のうち、どれぐらいの割合でそれぞれの感覚を使っているかと言えば、一般的に「視覚が8割」と言われることが多いようです。 たとえば、私は過去にコンサート会場で聴いた、というよりも浴びた音楽を頭の中で思い返すだけで鳥肌が立つことがあります。その音楽には、会場の時間と空間、空気が含まれていて、その音の記憶に触発されるように空気の質感が身体の内側から立ち昇ってきたり、光景が頭に浮かんでき

      • 睡眠の質、太陽光、そして文脈依存性。

        「日中浴びる太陽光の量が、熟睡に欠かせない神経伝達物質セロトニンの量を調節している」 睡眠の質を改善したい場合、寝具などの睡眠環境に意識を向けるように思いますが、日中に浴びる太陽光の量にも睡眠の質が左右されるのだとすると、睡眠環境に留まらず「そもそもどのような生活をしているか?」という問いを立てることが必要になってきます。 たとえば、もし日中を室内で過ごすことが多い場合、太陽光がどれほど入る環境であるのかが気になってきます。あるいは、少しでも屋外に出るような時間を作るよう

        • 睡眠、休息、そして他力。

          眠る。寝かせる。休ませる。 季節の変わり目のこの時期、日中と夜間の寒暖差が激しく体調管理が難しいと感じます。外気温に合わせた衣服の調整はもちろんのこと、睡眠の確保も大切です。 思えば、「寝かせる」「休ませる」という言葉は、日常生活の中で幅広く使われています。たとえば、料理をイメージしてみると、パン生地をこねた後に一定時間「寝かせる」「休ませる」と表現します。この時間は「発酵が進む」という重要な役割があり、人が何か手を加えているわけではありませんが、たしかに「発酵」という過

        「味わう」ということ〜体験の全体性〜

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        • 生命
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          「感じるままに」ということ

          音楽が奏でられる。 音は世界の至るところに存在しているのだけれど、人がいわゆる「音楽」として捉えられるのは一体どこまでなのだろう。ふと、そのようなことを思ったのです。 風がそよぐ音、水がせせらぐ音、枯葉がカサカサと擦れる音。そうした音を人が「音楽」と感じることができるならば、それは「生きた音楽」となるでしょうし、「単なる音に過ぎない」と感じるならば、それは「死んだ音楽」となるのでしょう。 感じることは、事前に抱く「音楽とはこのようなものである」とのイメージや型にあてはめ

          「感じるままに」ということ

          「自ら聴く」機会の希少性

          会場に足を運び、生(LIVE)の音楽にふれる。 音楽がデジタル配信され、24時間365日アクセスができる時代、ある意味で音楽を聴き流し続ける時代において、自ら「聴く機会」を持つことが希少であるように思えます。 明日はコンサート本番。奏者と聴衆が、その時間その場所の空気を共有するという一回かぎりの「ご縁」ですから、音楽にふれる喜びを分かち合えたらと思います。

          「自ら聴く」機会の希少性

          「イメージに囚われない」ということ〜流れとしてのイメージ〜

          「イメージは流動的であり、時には手放してしまうほうがよい」 そのようなことを思うわけです。 5月6日(月・祝)のクラシックコンサート本番に向けて練習、調整を進めています。「音を奏でる」というとき、その音がいったい何を描き出しているのか。楽譜に記された内容を理解し、イメージを持つことは演奏において大切な支えとなる一方、そのイメージに過度に囚われてしまうと演奏の妨げになるようにも思える。 固定的なイメージは諸刃の剣のようなところがあり、「過去の延長線上に未来を描く」、あるい

          「イメージに囚われない」ということ〜流れとしてのイメージ〜

          詩情と至情 〜"言葉"の響きを通じて橋を架ける〜

          『簡素な生き方』という本の中で「詩情」という言葉に出会い、この言葉の佇まい、響きに無性に惹かれました。そして、同音異義語を探してみると「至情」が見つかりました。それぞれを辞書で引いてみます。 同音異義語、面白いですよね。響きが橋となって、異なる意味の世界を自由に行き来する。詩情と至情。たとえば「詩を作りたくなるような気持ち」と「この上なく深い心」には重なりが感じられます。詩(うた)は生み出すというよりも、深い心から「自ずと生まれてくる」のでしょうか。 「詩の美しさはどこか

          詩情と至情 〜"言葉"の響きを通じて橋を架ける〜

          内観と外観 〜"見ることがすなわち作ることである"という言葉を手掛かりに〜

          「見ることがすなわち作ることである」 西田幾多郎(哲学者)による言葉に触れたとき、「あぁ…そうかもしれない」と感じたので、この言葉の奥行きを、自分の経験を踏まえて探ってみたいと思います。そして、「見る」とはどういうことなのか、ということも。 ヨガに取り組んでいる時の自分の身体を思い浮かべてみると、西田氏の言葉にある「見る」とは、「内観」と「外観」が共時的に調和している状態ではないかと思えます。「身体を内観する」とは身体の隅々まで「つながっている」感覚が広がってゆくことに近

          内観と外観 〜"見ることがすなわち作ることである"という言葉を手掛かりに〜

          静と動の円環的調和〜瞑想を考えてみる〜

          「瞑想」とは一体どのような状態なのだろう。少しばかりそのようなことに思いを巡らせてみます。 まず「瞑想」という言葉を引いてみると、様々な形態があることがわかります。 上記の説明も参照しながら思うのは、瞑想の核心にあるのは「つながる」ということではないかと思うのです。つながる先は様々ではあるものの、まず何より「自分自身とつながる」ということではないか、と。 先日、ヨガのレッスンを受けた後、インストラクターの方から「深い瞑想に入っていましたね」というお言葉を頂きました。

          静と動の円環的調和〜瞑想を考えてみる〜

          「倍音」という概念を拡張する〜基音としての言葉、倍音としての質感〜

          「倍音に耳を澄ませる」 この「倍音」という概念は、物理現象としての音(振動)だけではなく、実は「あらゆる物事に拡張できるのではないだろうか」と、ふと思いました。 詳細は解説動画を参照して頂ければと思いますが、基音は「実際に鳴らした音」で、倍音は「(実際に鳴らしたわけではないけれど)基音に共鳴して鳴る音」です。 楽器の文脈で言えば、倍音は楽器の種類や音域(音の高低)、演奏方法などによって含まれ方が変わり、この倍音の含まれ方によって音の「質感」が変わってきます。 「倍音の

          「倍音」という概念を拡張する〜基音としての言葉、倍音としての質感〜

          「本来の生き方」とはなんだろう?〜表情のやわらかさを通して〜

          「季節の変わり目は身体の調子も変化しやすいように、おそらく人生の節目においても身体が変わってくるのではないか」と思います。 最近は自分に流れる時間の流れを緩めるように生活をしていますが、ヨガのインストラクターの方から「表情がやわらかくなりましたね」とのお言葉を頂きました。時の流れが自分にあっているというよりも本来的な自分に戻ってきているような感じです。 自分のことは案外自分が一番よくわかっていないものです。毎日、鏡に映る表情を見ていてもわからない微細な変化も、時間の間隔を

          「本来の生き方」とはなんだろう?〜表情のやわらかさを通して〜

          流れが速いと全体に、遅いと細部に意識が向いてくる 〜楽器の運指練習を通して〜

          「テンポが上がると全体性に、テンポを緩めると細部に意識が向いてくる」 そのような気付きについて綴ります。 5月6日(月・祝)のクラシックコンサートに向けて練習を続けていますが、偉大な作曲家であるグスタフ=マーラーの大作「交響曲第5番 嬰ハ短調」をサクソフォンオーケストラで演奏する機会は大変貴重です(おそらく世界初だと思います)。 全体を通すと70分超と集中力を要する上、技巧的にも大変難しい曲ですが、個人練習はあせらず・ゆっくり・じっくりと。指定されたテンポでいきなり吹こ

          流れが速いと全体に、遅いと細部に意識が向いてくる 〜楽器の運指練習を通して〜

          言葉の意味を「体得する」ということ。

          「言葉の意味は体得するものなのかもしれない」 そのように思うことが度々あります。 ヨガや楽器の練習に取り組んでいると、「身体の使い方」のイメージをインストラクターの方が言葉や動作のデモンストレーションを交えて伝えて下さいます。 身体の動かす「部位(What)」を指定する。そして、その部位の「動かし方(How)」を伝える。「リラックスして〜」とか「足から先に〜」など、フレーズをつなげながら、動かし方のイメージが作られてゆくわけです。 では、いざ「その伝えられたイメージの

          言葉の意味を「体得する」ということ。

          言葉が変わると何が変わるだろう?

          「日頃使う言葉が少しずつ変わってきた気がする」 そのようなことを思っています。 最近、時間のペースをゆっくり穏やかにして、自分の外側のあわただしい時の流れに流されるのではなく、自分の内側に流れる時の流れに乗るように過ごしています。 すると、不思議とふれたくなる言葉、読みたくなる本、一緒に時間を過ごしたい人、場所も変わってくるのです。 先日、「沈黙」とは「語らずに語ること」であると綴りました。 それからというもの、たとえば歩いていると、ふと「この街は何を物語っているの

          言葉が変わると何が変わるだろう?

          「情的にわかる」ということ

          身体というのは本当に不思議なもので、自分で自分の身体をどうやって動かしているのか説明ができないのですが、でも動いている。目や口や鼻、手足指先など、目に見えて意識の届く範囲ならまだしも、身体の内側はまったくもって、どうやって動いているのかわかりません。けれども、生命を支える数多の働きが、自分の意識の外で調和しながら進んでいる。本当に不思議なものです。 毎日ストレッチをしても、朝起きて目が覚めたら元通りに固くなっている。 またじっくりじっくりとほぐしてゆくわけですが、最初は不

          「情的にわかる」ということ