特に目的を決めず、気になった物事を思いつくままに拾い集めてゆく。
本、人、旅、そして様々な分野の論文。
色々なものを自分という器に入れておくと、ふとした瞬間に全く異なる分野や領域で提唱された概念の間に近しさを感じることがあります。
文化人類学者クロード・レヴィ=ストロースが提唱した「ブリコラージュ」という概念があります。
「何かの役に立つかわからないけれど、いつか役に立ちそうな気がする」との直感によって拾い集めておいたものが、実際に役に立つことがある。
「ブリコラージュ」に重なったのが「確率的遺伝子発現(Stochastic gene expression)」です。
Physics of Life Reviewsに掲載されたModels of stochastic gene expression(Johan Paulsson, 2005)という論文から一部を引用します。
遺伝子発現は「DNAからRNAを経てタンパク質が生成される過程」であり、生命活動の基盤とも言えるこの過程が細胞の機能を決定します。
ブリコラージュにおいて非予定調和的に集められた物事が、実際に何かの役に立つこともまた確率的な事象であると捉えてみる。
非予定調和的に集めた物事、直面した出来事(あるいは環境)、そしてそれらがどのように組み合わさるか、という三つの要素によって「役に立つか否か」が決まるとすれば、最後の要素である「物事と出来事の組み合わせ方」は、確率的遺伝子発現における「分子間の確率的衝突」に似ていると思います。
仮に未来の出来事が全て予測可能だとすれば、それは確率的ではなく決定論的で、ゆえに「ブリコラージュ」における物事の収集もまた決定論的に選択されることになりますが、実際には未来の全てが予測可能ではありません。
「いつか何かの役に立ちそうな気がする」という直感は論理的な思考を経ずに物事を理解する能力として捉えられ、東洋哲学では、直感は縁起の思想と結びつくことがあります。
仏教の基本的な概念である縁起思想は「すべての存在や現象が相互に依存し合い、独立して存在するものはない」というものです。
ある幅をもって将来を予測し、その幅の中に物事が収まることをある意味で「祈る」ような備え方も一理ですが、その対極とも言える「非予定調和的」な備え、あるいは引き寄せの不思議、神秘性になぜだかとても心惹かれるのです。
自分自身、身体それ自体が「縁起的な存在」ということ。