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「見上げること」の希少性〜中秋の名月を眺めて思ふ〜

今宵は中秋の名月ですね。

夜空を見上げれば、美しく浮かび上がる月。

どこか迫り来るような存在感を放つ月。

ふと思ったんです。

日常生活の中で、上を、空を、天を見上げることが希少であることに。

見上げれば自然と胸が開き、胸が空きます。

空いた胸には自然と呼吸が充ちていきます。

スマートフォンやパソコンなど、見上げるよりも見下ろす姿勢を取ることが固定化されやすい今日この頃。

見上げる、見下ろすのバランスを取りたいものです。

そして、また思ったんです。

空間が閉じているほうが見上げることが多いのは気のせいだろうか、と。

ホール、教会、寺院など。

物理的に高い天井があるとき、天井までの距離が意識され、その距離のもとで広さ、あるいは高さを実感しているわけです。

ですが、よく考えてみれば、天は、空は「開かれた空間」です。

その閉じることのない空間の高さには限界がありません。

どこまでもどこまでも広がっているにもかかわらず、「見上げることが希少」なのはなぜでしょうか。

閉じた空間では天井の一点に視点が定まることで距離を知覚できる一方で、開かれた空間では視点を定めること自体が難しい。

言い換えれば、視点が定まる場合、ここ(私)とあそこ(天井)という主客分離の状態が生じます。

一方、視点が定まらない場合、あそこ(天井)が決まらず、ゆえに果てなくどこまでもどこまでも天は「ここ(私)の延長」であり、主客未分の状態が生じている。

ヨガに取り組んでいるときも、目の力を抜いて視点を定めずにぼんやりと。全身の隅々にまで自然と意識が広がってゆく感覚が鮮明になっているように思います。

そう思うと、私たちは物事に対して視点を、焦点を定めることに慣れすぎている、偏りすぎているのかもしれません。

その結果、「全体」あるいは「ありのまま」が持つ調和的な美しさを見逃してしまっているのかもしれない。

焦点を定めることが「緊張」に対応するのだとしたら、逆に力を緩めることすなわち「弛緩」あるいは「緩和」を日常生活の中に取り入れることが大切なように思うのです。

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