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「至福」とはどういうことだろう?〜ふとした瞬間の香りの記憶を通して〜

「至福」とは一体どういうことなのだろう。幸福との違いは何だろうか。

「福に至る」と書いて「至福」と読むわけですが、この「至る」というのは自らが何かを実践して至るのか、あるいは不意に出会った何かに導かれて至るのか。

後者の「何かに導かれて」至るというのは「訪れる」とも言えるかもしれません。

とある南の島を歩いていた時、ふと爽やかな柑橘の香りが。

今でも「香りを思い出すだけで、その場にいるような気持ち」になります。

それほどに色鮮やかな香りの記憶。

これもまた不意に訪れた「至福」だとすれば、「至福」に至るためにはその福を受け取る感覚、あるいは感度が必要なのかもしれません。

繰り返し起こる出来事、物事でも、いつも初めて出会った時のように新鮮にに感じながら生活することを大切にしたいものです。

そういうわけで、芸術の本質は、このこと、すなわち存在するものの真理がそれ自体を - 作品の - 内へと - 据えることであろう。しかし、これまで芸術は美しいものと美とに関わってきたのであって、真理には関わってこなかったのではないか。そのような作品を生み出すもろもろの術〔Künste〕は、道具を作製する手仕事的な技芸〔Künste〕と区別して、美術〔die schönen Künste〕と呼ばれる。

マルティン・ハイデッガー『芸術作品の根源』

美術においては技芸は美しくないのであり、芸術が美術と呼ばれるのは、それが美しいものを生み出すからである。これに対して、真理は論理学が扱うべき事柄である。美はしかし、美学のために取って置かれるのである。

マルティン・ハイデッガー『芸術作品の根源』

あるいは、<芸術とは真理がそれ自体を - 作品の - 内へと - 据えることである>という命題によって、<芸術は現実のものの模倣であり写しである>と言う、幸いにも克服されたあの考えが、もしかしてもう一度生き返ることになるのだろうか。たしかに、眼前にあるものの再現は、存在するものとの合致〔Übereinstimmung〕を、すなわち存在するものとの適合〔Anmessung〕を要求する。そのような合致を、中世〔の哲学〕はアダエクワーティオー〔adaequatio〕と言い、すでにアリストテレスはホモイオーシス〔ὁμοίωσις〕と言っている。

マルティン・ハイデッガー『芸術作品の根源』

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