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ディッキーの「アートワールド」について

いわゆる芸術の制度説(制度的定義)の提唱者として挙げられがちなアーサー・C・ダントージョージ・ディッキーのうち、ダントーのほうは明確に誤読で、本人が公式に否定している。「制度」をどう理解するにせよ、ダントーは芸術制度の存在を持ち出して、芸術作品であるという地位を説明したわけではない。ダントーの立場については最近高田さんが改めてまとめてくださったので、そちらを参照。

そういえばディッキーの制度説について読み漁っていた時期があり、分かったことのいくつかは日記にポツポツ書いていたのだが、この機にまとめてみようと思う。要点だけ先に述べるならば、しばしば誤ってダントーに帰属される「アートワールド論」、すなわち〈あるものが芸術作品かどうかはアートワールド=美術界隈のみんなで決めている〉という見解は、ディッキーのものですらない。そういう考えを「制度説」に期待するならば、ダントーどころかディッキーも「制度説」の支持者ではない。

なので、「ダントーのアートワールド論によれば〜」という人がダントーについて誤っているにしても、ダントーのところをディッキーで置き換えれば済む話でもない。「制度説」というので結構な数の人が理解している見解は、原典をあたらない惰性と身勝手な連想の産物であり、ダントーにもディッキーにも帰属できない。

(以下の話はおおむね、Dickie (2000)を参照した。)


1 ディッキーの立場は?

ディッキーによる最初期の定義はこうだ。

記述的な意味での芸術作品とは、(1)人工物であり、(2)社会または社会のサブグループが鑑賞候補の地位を付与したものである。

Dickie (1969: 254), 以下すべて私訳

この定義が〈あるものが芸術かどうかを社会のみんなで決めている〉という印象を与えてしまったことを、ディッキーは後に悔やんでいる。「社会[…]が地位を付与」という箇所が、あらゆる誤解の始まりである。

これが一番重要なポイントだが、ディッキーにおいて芸術を芸術たらしめている主体は、もっぱら芸術家である。「芸術を定義する」(1969)はたったの3ページ半しかない短い論文だが、ディッキーはすでにこの点について明言している。

したがってこの地位は、ある人工物を鑑賞候補として扱う、たった一人の個人によっても付与可能でなければならない。たいていの場合、これは芸術家本人である。ただし、つねにそうとは限らないのは、ある人が鑑賞候補とみなすことなく人工物を作り、別の人ないし人々がこの地位を付与する場合もあるかもしれないからだ。

Dickie (1969: 254), 私による強調

なので、「社会[…]が地位を付与」というのはちょっと筆がすべったものとして読むべきである。社会から切り離されて孤独に作業する芸術家(ヘンリー・ダーガーみたいな)にも、芸術作品を生み出すことができる。〈あるものが芸術作品かどうかは、芸術家次第〉と要約したほうが、よっぽどディッキーの見解に近いのだ。一応、芸術家以外の人がこの役割を果たすケースも想定しているが、いずれにしても鑑賞候補の地位を付与するのは個人[person]であり、社会集団や制度そのものではない。

その後のマイナー修正版はこうだ。

分類的な意味での芸術作品とは、(1)人工物であり、(2)ある社会制度(アートワールド)を代表して行動するある人ないし人々が、鑑賞候補の地位を付与したものである。

Dickie (1971: 101)

分類的な意味での芸術作品とは、(1)人工物であり、(2)ある社会制度(アートワールド)を代表して行動するある人ないし人々が、その諸側面の集まりに対して鑑賞候補の地位を付与したものである。

Dickie (1974: 34), 『分析美学基本論文集』収録のバージョン

どちらも、美術界隈ないし社会全体が地位付与の主体だという印象を回避するために、「ある社会制度を代表して行動するあるperson」という言い方に変えている。再度、これはディッキーにおいて、基本的には芸術家のことである。

もちろん、アートワールドには鑑賞者や批評家やキュレーターなどいろんな身分の人たちがいるし、ディッキーは「自らをアートワールドの構成員とみなす全ての人は、そのことでもって構成員だとみなされてよい」とすら言っている。しかし、この記述を拾って(『分析美学基本論文集』の解説で西村清和がそうしているように)「ディッキーの制度説はなんでもありだ」と懸念するのは、「アートワールドの構成員」という項目と「アートワールドを代表して行動する人」という項目を混同している。ディッキーは前者についておおむね自認の問題だとしているが、前者は地位付与の主体ではなく、いわば背景である。私は単なる自認によって芸術鑑賞者であり、したがってアートワールドの構成員だが、必ずしも「アートワールドを代表して行動する人」ではない。私がただそう思い至って私のマグカップを「芸術だ!」と宣言することによって、マグカップが芸術作品になるとは限らない(ならないとも限らないが)。ちゃんと「アートワールドを代表して行動する人」にカウントされるかどうか、すなわち芸術家と言えるかどうかは、部分的にはやはり自認の問題ではあるが、部分的にはしかるべき背景(ディッキーの言い方ではinstitutional setting)のもとで仕事をしているかどうかの問題である。ディッキーが考えていたのは、ざっとこんなところだろう。

ある魚の切れ端が単なる切れ端ではなく、刺身であるという事実の背景にはさまざまな関係者がいる。だからといって、料理人、客、マネージャー、包丁職人、漁業関係者(サシミワールド)が一丸となってある切れ端を刺身たらしめているというのはおおげさだ。基本的には、料理人がしかるべき文化的背景のもと、しかるべきスキルを発揮し、食べてもらうつもりで切っていることでもって刺身なのである。背景は背景として必要だが、地位の付与に携わる主体ではない

なので、その意図をちゃんと汲むならば(というか繰り返し明言しているところをちゃんと読むならば)、次のような要約は間違っていることがわかる。

ディッキーは、あるモノがアートであるか否かの判断を下す主体をより具体的に示し、それは鑑賞する側の人間だとした。鑑賞する側が「こういうものは(も)、アートと見なせる」という社会的文化的な了解を抱けるかどうかにかかっているとし、ただ単にアーティストが「これはアートだ!」と述べているだけではアートとはいえないと定義づけた。

藤田令伊『現代アート、超入門!』p. 146

ダントーと言っていないだけマシだが、ディッキーも〈鑑賞者たちが"社会的文化的な了解"を形成して芸術を芸術たらしめる〉とは考えていなかったため、誤りである。しかるべき背景のもと、鑑賞してほしいなーと芸術家が意図して作ったものが芸術作品である。ほんとうにこれだけの、常識的でなんの変哲もない定義である。(日本語ややこしいが、「しかるべき背景のもと」は「意図して作った」にかかっている。)

高名な芸術哲学者たちでさえ、ディッキーの立場を誤解している。とりわけ有名なのはリチャード・ウォルハイムと、これに乗っかったダントーからの批判だ。ウォルハイムはディッキーの立場を、評議会のような場所にアートワールドのお偉方たちが集まり、「これは芸術、あれは違う」と振り分けるような理論として要約した上で、そんな代表者集団も会議も存在しないだろうと批判する。

しかし、再度、ディッキーにおける地位付与の主体はおおむね芸術家なのであり、それ以外の権威が社会集団となって芸術作品の地位を付与して回っているわけではない。もちろん、会議のようなものが必要とも言っていない。

ちなみに、これまた誤解されやすいポイントだが、ディッキーが提唱したのは芸術作品の地位が直接的に付与されるモデルでもない。付与されるのはあくまで鑑賞候補という地位だ。この付与と、人工物であるという事実が合わさって、芸術作品であるという事実が成立するだけで、芸術家が「これは芸術だ!」と考えたり宣言したりする必要はない。必要なのは、「これを鑑賞してもらおう」というちょっとした意図だけだ(おそらく顕在的な意図である必要すらない)。ウォルハイムの解釈は、付与される地位の中身についても誤解がある。

ダントーが『ありふれたものの変容』(1981)でウォルハイムの解釈を取り上げた際、ディッキーはそれが誤解であることを伝えたのだが、相手にしてもらえなかったようだ。ダントーはさらに別の場所(『Nation』)でも誤解に基づいた立場をディッキーに帰属しており、ディッキーは編集者に抗議文を送っている。しかしダントーは、「ウォルハイムが解釈するようなモデルこそ制度説のコアを捉えており、代表者=芸術家個人というのはもっともらしいバージョンからの撤退である」と、あろうことか開き直っている。これにはディッキーもかなりピキっときただろう。誤読された上に、誤読バージョンじゃなきゃお前の理論はダメだ、とまで言われたのだから。

一旦まとめよう。第一に、ディッキーが「アートワールドを代表して行動する人」と言うとき、念頭に置いているのは基本的に芸術家のことである。社会集団や制度そのものが主体となって地位を付与するわけではない。第二に、芸術家の付与する地位は「芸術作品」ではなく「鑑賞候補」という地位である。芸術家は自らの産物に「芸術作品」という地位を直接的に付与するのではなく、「鑑賞候補」という地位を付与することで、間接的に芸術作品であるという事実を成り立たせている。ちなみにどちらの点も、『分析美学入門』でロバート・ステッカーがちゃんと指摘している(訳 p. 173)。

2 それって「制度説」なの?

解釈を脇に置くならば、ウォルハイム=ダントーの見解にも一理はある。正味な話、〈しかるべき背景のもと、鑑賞してほしいなーと芸術家が意図して作ったものが芸術作品である〉という見解は、制度説という字面で期待されるものからいくらか距離がある。アートワールドという背景ありき、という点はいくらか制度説らしいポイントなのだが、結局のところアートワールドが芸術をもたらすのではなく、それを代表して行動する個人、すなわち芸術家が芸術をもたらすのである。それをことさら制度説と呼ぶのは、自ら誤解されに行っているようなものだ。刺身の制度的定義、なんて聞いたら誰だって余計なことを想像するだろう。

さらに、ディッキーが「制度」と言っているものは、社会科学や社会存在論の分野で後に取り上げられるようになったフォーマルな意味での制度とも距離がある。この点については、フィリップ・ブーケンズとJ・P・スミットが「制度とアートワールド:批判的注釈」(2018)という論文で検討している。ちなみにこの著者たちもダントーに制度説を帰属しているし、付与される地位の中身などところどころディッキーを誤解しているのだが、大筋の主張、すなわちディッキーの制度概念はフォーマルなものではない、という点では正しいと思われる。

制度とは、フランチェスコ・グァラによれば均衡したルールのことであり、調整問題に対して解を与える機能を持っている。土地のどこを放牧し、どこを相手部族に譲るかという問題に際して、川の南北で住み分けるというルールは、そこから一方的に逸脱しても得することのない状況(すなわち均衡)をもたらす。こういうのが、フォーマルな意味での制度である。貨幣も結婚も交通信号も、それによって解決している問題がある。

ブーケンズとスミットが懸念するのは、芸術の生産がこのような調整問題を伴わないことだ。画家たちは互いの出方を予想し、協調的にふるまうなかで絵画を生み出しているわけではないし、それに際して共通のルールが必要なわけでもない。勝手に描きゃいいのだ。つまり、均衡したルールとしての制度でもって解決すべき問題が、そもそも存在しない。

ディッキーはルイスやサールやグァラなんて読んでいないだろうから、彼の用いる「制度」のインフォーマルさを責めるのは不当だろうが、とにかくフォーマルな意味での制度を問題とする限り、ディッキーの立場はもはや制度説と呼べるようなものではない。文脈重視の意図説というほうが実態に即しているだろう。(私の知る限り、ちゃんとルイスやサールを踏まえて制度説をやっているのは、キャサリン・エイベルだけだ。)


ところで、後期ディッキーは(わりと仲の良かった)ビアズリーから、「"付与"とか"代表して行動"がフォーマルな感じしてよくないんじゃない?」とアドバイスをもらい、これらを排除したさらに別のバージョンを提示している。

芸術家とは、芸術作品の制作に理解を持って参加する人である。
芸術作品とは、アートワールドの公衆に提示されるために制作される種の人工物である。
公衆とは、提示された対象を理解するための準備がある程度できている人々の集合である。
アートワールドとは、すべてのアートワールドシステムの総体である。
アートワールドシステムとは、芸術家が芸術作品をあるアートワールドの公衆へと提示するための枠組みである。

Dickie (1984: 80–2)

本人が「アートサークル」と呼ぶ上記の連鎖的定義は、制度説のコアを成す五項目を特徴づけている。しかし、細かく見ればただちに分かる通り、これらの定義は循環している。ディッキーはこれが無害な循環であり、アートワールドの実態を捉えていると考えたようだが、ほとんど賛同を得られなかったようだ。それ以前のバージョンに比べれば、『アートサークル』(1984)のバージョンはぜんぜん読まれていない。今でも、ディッキーの制度説と言えば、たいていの人は1974年以前のバージョンを思い浮かべるだろう。

その後、弟子筋のノエル・キャロルが「これは芸術だ!と同定できるだけの十分条件があればよくない?」と言い出し、ベリーズ・ガウトが「クラスター説でいいんじゃない?」と言い出し、ドミニク・ロペスが「芸術作品よりいろんな芸術形式に目を向けようぜ!」と言い出すなかで、いつのまにか芸術の定義論自体が下火となってしまった。1950年前後のように、芸術は定義不可能だとみなされたのではなく、単にみんな定義論に飽きてしまったような印象を受ける。ロペス以後の雰囲気は以下を参照。

ディッキーは長生きして2020年に亡くなる。本の単位で体系的な芸術の定義論をやろうとする人は、もう当分出てこないだろう。ひとつには、ディッキーやダントーを刺激したような革新的芸術(レディメイドやポップアート)が21世紀にはまったく出てきていないため、みんないまいちやる気がしないのだ。

3 要点まとめ

  • 〈あるものが芸術作品かどうかはアートワールド=美術界隈のみんなで決めている〉みたいなことは、ダントーも言っていないし、ディッキーも言っていない。

  • それっぽい考えとして流布しているのは、ウォルハイムやダントーが誤ってディッキーに帰属したもの。ディッキーは変な立場を押しつけられて迷惑している。

  • ディッキーの「制度説」は、〈しかるべき背景のもと、鑑賞してほしいなーと芸術家が意図して作ったものが芸術作品である〉ぐらいの考え:芸術を芸術たらしめる主体は、基本的に個々人の芸術家。芸術家が付与する地位は「芸術作品」ではなく「鑑賞候補」。

  • ディッキーにおける「制度」はかなりインフォーマルなものなので、ことさらに「制度説」と言うのもミスリードな感じはする。

参照文献

  • Abell, Catharine. 2012. “Art: What It Is and Why It Matters.” Philosophy and Phenomenological Research 85 (3): 671–91.

  • Beardsley, Monroe C. 1976[1982]. “Is Art Essentially Institutional?” In The Aesthetic Point of View: Selected Essays. Cornell University Press.

  • Buekens, Filip, and J. P. Smit. 2018. “Institutions and the Artworld – A Critical Note.” Journal of Social Ontology 4 (1): 53–66.

  • Carroll, Noël. 1999. Philosophy of Art: A Contemporary Introduction. Routledge.

  • Danto, Arthur C. 1981. The Transfiguration of the Commonplace: A Philosophy of Art. Harvard University Press.『ありふれたものの変容』松尾大訳

  • Danto, Arthur. 1993. “The 1993 Whitney Biennial,” Nation, 19.

  • Dickie, George. 1969. “Defining Art.” American Philosophical Quarterly 6 (3): 253–56.

  • Dickie, George. 1971. Aesthetics: An Introduction. Pegasus.

  • Dickie, George. 1974. Art and the Aesthetic: An Institutional Analysis. Cornell University Press.「芸術とはなにか――制度的分析――」今井晋訳

  • Dickie, George. 1984. The Art Circle: A Theory of Art. Haven.

  • Dickie, George. 1993. "An Artistic Misunderstanding." The Journal of Aesthetics and Art Criticism 51 (1): 69–71.

  • Dickie, George. 2000. "The Institutional Theory of Art." In Noël Carroll ed., Theories of Art Today. University of Wisconsin Press. 93–108.

  • Guala, Francesco. 2016. Understanding Institutions: The Science and Philosophy of Living Together. Princeton University Press.『制度とは何か──社会科学のための制度論』瀧澤弘和監訳・水野孝之訳

  • Lopes, Dominic Mciver. 2014. Beyond Art. Oxford University Press.

  • Stecker, Robert. 2010. Aesthetics and the Philosophy of Art: An Introduction. 2nd ed. Rowman & Littlefield.『分析美学入門』森功次訳

  • Wollheim, Richard. 1987. Painting as an Art. Princeton University Press.

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