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最近の記事

「ダサい」の美学:ダサい服はダサい人を前提とする?

以下は、「ダサいという美的用語についてなんか書く」という、自分に課した大喜利への回答である。 「美しい」や「醜い」と同様に、「ダサい」はさまざまな用法で使われうる。そのなかには、記述的要素がなく純粋に評価的な用法や、とくに美的でない用法など、放っておいてかまわない用法がたくさんある。放っておきたくないのは、次のような用例に現れる「ダサい」である。 ここでは、記述的な内容をもった美的性質としてのダサさが、個別のアイテムへと帰属されている。おそらく、これがダサいの最もベーシッ

    • 芸術作品を批評する芸術作品

      それ自体が芸術作品でありつつ、芸術作品についての批評であることは可能なのか。可能である、というのが本稿の主張だ。 前に書いた通り、私がもっともらしいと思う批評の定義とは、鑑賞のガイドである。特定の芸術作品についての理解、知覚、情動を導き、強化する機能を担うアイテムはなんであれ芸術批評と呼ばれるのに十分であり、そのような機能を担うことは芸術批評と呼ばれるのに必要である。(必要条件のほうは今回のテーマとは関係ないが。) 鑑賞ガイドとしての批評、という考えを採用した場合、私たち

      • 「批評」を定義するという課題

        批評の定義について。「定義」というのは、やや問題含みなところがあるので、私は「特徴づけ」という表現の方をより好んでいるが、まぁやること同じだ。すなわち、批評という活動(ないしその産物)に特徴的で、その他の活動(ないしアイテム)から批評を区別する要素とはなんなのか、に答えるのだ。芸術に関連した言説はいろいろある(広告、美術史、芸術哲学、キャプションなど)が、そのうちどれがなぜ批評に該当するのか。単純化のために、これらの課題については以下ではとにかく「批評の定義」と言うことにしよ

        • シンディ・シャーマンと自己を埋没する芸術

          7月15日、哲学若手研究者フォーラムにて村山さん(@Aizilo)、岡田さん(@summerfuyo)、伊藤さん(@eudaimon_richo)によるWS「美学と自己」を聞いてきた。村山さんは自己表現と自己理解、岡田さんはフィクションを通した作者の人柄理解、伊藤さんは美的な個性と逸脱の自由についてお話されており、どれもたいへん面白かった。 岡田さんと伊藤さんのアーギュメントにはそれぞれコメントをしたのだが、村山さんのご発表についてはちょっと咀嚼に時間がかかった。というのも

        「ダサい」の美学:ダサい服はダサい人を前提とする?

          芸術的価値についてどのような立場があるのか

          芸術の価値や芸術的価値について調べているが、Internet Encyclopedia of Philosophyのエントリーに立場一覧があって面白かったので、簡単な補足を入れつつ&ちょいちょい修正しつつ一通り訳してみた。元エントリーを書いているのはリヴァプール大学のHarry Drummond。 まず大前提として、「芸術の価値[value of art]」と「芸術的価値[artistic value]」はふつう区別される。前者は、ものとしての芸術作品が持ちうる任意のタイプ

          芸術的価値についてどのような立場があるのか

          2022年に聴いてたK-POPいろいろ

          すっかりK-POPの話をしなくなったのだが、実は最近また熱心に聴くようになってきた。振り返ってみれば2022年はK-POP(のうち、私の聞いているヨジャドル界隈)にとって、直近3年で見て最も豊作な年だったと言っても過言ではないだろう。 流れ変わったなと思わせたのは、春先に(G)I-DLEが出した「Tomboy」だ。2021年のいざこざで、誰もが認めるエース・スジンが脱退したときにはもう正直おしまいだと思っていた。のだが、こんなに自信満々でやりたい放題なカムバを誰が予想しただ

          2022年に聴いてたK-POPいろいろ

          ジャンル研究の方法論②

          その①はこちら。 相変わらず、「{任意のある芸術ジャンル}とはなにか」式の研究の正解は分からないが、ここ一年でジャンル論についてはいろいろと読み、論文も書いているところなので、専門トピックのひとつに「ジャンル」を数えてもよい頃だろう。同じく、ジャンル概念に関心を向けているローン・スター大学のEvan Maloneによる論文「ジャンル爆発の問題[The Problem of Genre Explosion]」を読んできたのでご紹介。 ホラーとはなにか、SFとはなにか、といっ

          ジャンル研究の方法論②

          美しさを見てとるために訓練が必要であるとはどういうことか

          美的性質や美的知覚について、最近出版されたマドレーヌ・ランサム[Madeleine Ransom]の論文がとてもよかったのでまとめておく。 1 前提:美的知覚美的性質[aesthetic properties]とは、「美しい」「優美だ」「けばけばしい」「退屈だ」「バランスが取れている」など、われわれが芸術作品や自然の風景について語るときによく言及する性質のことだ。こういう性質を見てとったり聞いてとることを美的知覚[aesthetic perception]と呼び、「このモネ

          美しさを見てとるために訓練が必要であるとはどういうことか

          美的に良いものはなにゆえ良いのか

          美的価値に関する快楽主義芸術作品なり風景が、美しかったり優美だったりしてとても感じがよいときに、それらは「美的価値が高い」と言う。このような美的価値の本性に関してはさまざまに議論があるが、その中心には「快楽主義」という立場がある。 美的価値に関する快楽主義:Xの美的価値とは、Xが与えられる美的快楽(満足、楽しみ、喜び)の度合いである。 快楽主義において、美しい風景や優美な絵画が「高い美的価値を持つ」と言われているときに言われることとは、それらが「大きな美的快楽を与える能力

          美的に良いものはなにゆえ良いのか

          「芸術なりそこない」を探し求めて

          芸術なりそこないは存在するのか?ちょっと前に書いた記事に、難波さんと村山さんが反応されていたので、この話題に関する自分の考えをもう少し補足しておこう。 論点は、Christy Mag Uidhirが「failed-art」と呼んだ非芸術のサブクラスをめぐるものである。はじめの記事と重複になるが、Mag Uidhirの主張を手短にまとめておこう。 「芸術ではない」ものはあちこちにある。私の電子ケトルも中目黒駅も月も、分類的な意味では芸術ではない。ふつうに考えれば、芸術ではな

          「芸術なりそこない」を探し求めて

          感想と批評の境界線:北村紗衣『批評の教室』

          書評タイトルは源河さんの本から来ている。源河さんが「知覚と判断の境界線」はあいまいであると結論づけるのと同様、私は感想と批評の境界線があいまいだと結論づけることになるだろう。 北村紗衣『批評の教室』は、批評という営みの敷居を下げる本だ。「チョウのように読み、ハチのように書く」という副題の通り、本書は芸術作品(主には文学、映画、劇作品が参照される)について軽やかに読解し、クリティカルに論じる手引きとなっている。 実践編の第四章を除けば、本書は「精読する」「分析する」「書く」

          感想と批評の境界線:北村紗衣『批評の教室』

          衛星は回る:LOONA「HULA HOOP」

          こんなご時世だが、LOONAが日本デビューを果たした。それも、既存曲に適当な日本語をのせただけのしょうもないやつじゃなくて、オリジナル曲ふたつ抱えてのイルデなので、改めてバックの太さを実感する(会社としてはカツカツなので、太いよりも別の表現が必要なのだろうが)。 BLACKPINKの三番煎じみたいなガールクラッシュをやりはじめたときはどうしたものかと思ったが、ちゃんとプロジェクト初期のパトスを忘れていないことが判明し、悪口書いた側としては大きく胸をなでおろしつつ、ちゃんとa

          衛星は回る:LOONA「HULA HOOP」

          プロムへの招待:TWICE「The Feels」

          ITZYのカムバから息をつく暇もなく、TWICEが「The Feels」で戻ってきた。見るからにBTSのバカ売れを意識した、英語歌詞のディスコチューンにいやらしさがないわけではないが、いいものはいいのでこれでいいのだ。 「More & More」はシンプルにしょうもなかったし、「I CAN'T STOP ME」はEVERGLOW「LA DI DA」の後追いとしてはやや力不足だったが、今夏の「Alcohol-Free」はわるくないカムバだった(残念ながらnot for meだ

          プロムへの招待:TWICE「The Feels」

          芸術作品を作りそこねることはあるのか

          先日の日記[2021/09/28]に書いたネタだが、もうちょっと膨らませたものをnoteにも載せておこう。 Mag Uidhir (2010)による「failed-art」の話がピンとこなくて、ここ最近ずっと頭をひねっている。Mag Uidhirの主張は、「情報としてトリヴィアルでない意味で〈芸術ではない〉ものがある」だ。ふつう、〈芸術ではない〉はたいした情報ではない。たいていのものは芸術ではないからだ。私の炊飯器も目黒駅も太陽も、分類的な意味では芸術ではない。 Mag

          芸術作品を作りそこねることはあるのか

          作者の意図とその証拠

          作品解釈における意図の話は、定期的に浮上するので、みんな好きなんだなぁと実感する。最近もろもろを読んで整理できたことをいくつかまとめておこう。なかなか進展の見えない話題だが、なんらかの役には立つだろう。 村山さんの紹介しているMatraversの議論はかなり腑に落ちるものなのだが、補助線として以下の話をしておくとなおよしかもしれない。すなわち、意図論争においては、大きくふたつの(結びついてはいるが)異質な問いが与えられている。 存在論的問い:作品の正しい意味は、作者の意図

          作者の意図とその証拠

          センター現代文で学ぶ誤読解力

          はじめに今ではかれこれ3年ほど現代文を教えているが、受験生時代はほんとうに現代文ができなかった。それなりに資金と時間を投資して学んだはずなのに、この科目がなんの能力を問うものなのかすらよく分からずじまいだった。とどのつまり「読んで理解して答える」というだけの試験ができない自分は、知的に基本的ななにかが損なわれているのではないかと勘ぐったほどだ。 私がまともに読解を学んだのは学部の後半で、なんなら修士に上がってからだ。基本的に文章というのは、精読多読の上でトライアルアンドエラ

          センター現代文で学ぶ誤読解力