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「映画を倍速で見ることのなにがわるいのか」ROUND3

倍速鑑賞について、私が当初考えていたことはこうだ。

作者の意図するところではないやり方で鑑賞することは、ふつうは、美的に落ち度があり、道徳的に落ち度がある。つまり、ちゃんと見れておらず、失礼である。〈見るからにはちゃんと見るべし〉も〈失礼なことはするな〉ももっともらしい規範なので、ふつう、倍速で見ることは美的・道徳的な非難に値する。ふつう、映画を倍速で見ることはわるいのだ。

しかし、「ふつう」と書いたように、これらの落ち度を打ち消すような要因がある。鑑賞が回復可能な場合、つまり等速で見た場合にキャッチしたであろう事柄を十分キャッチできる範疇での鑑賞である場合(そうかどうかは個人の認知能力の問題)、ちゃんと見れてないわけでも失礼でもない。方法としてちゃんとしていようがいまいが、結果として同じものをキャッチしたのであれば、総合的にはちゃんと見れているし、失礼でもない。なので、美的な非難にも道徳的な非難にも値しない。映画を倍速で見ることは(一定の範囲内であれば)わるくないのだ。


私の論証はともかく、最近、北海道大学と一橋大学の合同研究会で、北大の竹下昌志さんと昆佐央理さんが、それぞれの観点から倍速を擁護する発表をされていた。Zoomで拝聴したので、以下いくつか感想を述べよう。私たちは三人とも倍速肯定派なので、〈映画を倍速で見ることは(必ずしも)わるくない〉という方向性はゆるやかに共有されている。しかし、私はお二人の論証に必ずしも納得していない。以下では、倍速否定派を自らに憑依させてコメントする。

倍速鑑賞は自由なので失礼じゃないのか

竹下さんは倍速を道徳的に擁護する論証をふたつ提示されているが、そのうちのひとつ(「自由な視聴からの擁護」)はnoteで公開されている。それによれば、〈鑑賞者には倍速で鑑賞する自由があるし、作者には等速鑑賞を要求する自由がないので、倍速鑑賞は道徳的に許容可能である〉。

ちなみに、もうひとつの論証(「社会的要因に起因する余裕の無さからの擁護」)によれば、〈等速で見るだけの時間的・精神的余裕のない鑑賞者であれば、倍速鑑賞は道徳的に許容可能である〉。この「余裕」の有無に訴えた議論については、私はいまいちピンときていない。私にはなんだか、金銭的余裕のない人であれば盗みを働くことは許容可能、というのに似た話のように聞こえる。竹下さんの取り上げる超義務まわりの話について私が明るくないのもあり、ここでは第一の論証(「自由な視聴からの擁護」)のみを扱うこととする。

さて、(1)鑑賞者には倍速で鑑賞する自由があるし、(2)作者には等速鑑賞を要求する自由がないので、(3)倍速鑑賞は道徳的に許容可能、というのは本当か。竹下さんは、(3)を示すために(1)と(2)を示しているが、作者側の話(2)は一旦脇に置くことにしよう。(実をいうと、私は鑑賞者の自由が作者の自由とバッティングする可能性についてほとんど考えていなかったので、作者の自由の有無が倍速の是非にどう絡むのかいまいち分かりかねている。)

鑑賞者には倍速で鑑賞する自由がある、とはどういうことか。竹下さんは、ある行為をする自由の有無を、危害の有無から説明している。

例えば、個人が自室で一人で作品を倍速視聴し、作者に知られることがないとすれば、通常は誰にも危害は加えていないと思われる。

https://note.com/ma_takeshita/n/n9f0f33ffc94b

このように述べるとき、竹下さんはおそらく危害に関する経験主義のような立場を前提されている。つまり、危害が成立するかどうかは、害を加えられる側に苦痛があるかどうか次第だと捉えられている(あるいは、危害を単に苦痛を与えることと同一視されている)。相手が嫌な思いをしたなら危害であり、そういった苦痛が一切ないなら危害ではない。ひとまず、危害に関するこの理解を受け入れよう。すると、こっそりやる限りでは作者に苦痛を与えないのだから、鑑賞者には倍速鑑賞をする自由がある、ということになる。

しかし、ここで竹下さんが使っている〈他人に苦痛を与えることのない行為であれば、する自由がある〉という原則には反例があるように思われる。私が寝ている友人をこっそり経験機械に繋げることは、友人になんの苦痛ももたらさないどころか友人の快を最大化するが、常識的に考えて、私にそうする自由はない。

もっと現実的な例として、決してバレない浮気なんかを考えてもいいだろう。墓場まで持っていくとすれば、浮気された側にはなんの苦痛もないが、だからといって「バレない限りで浮気する自由がある」と言うのは、少なくとも私にはためらわれる。(残念ながら、浮気する側もされる側もそう考えている人が少なからずいることは否定できないが。)

おそらく、倍速鑑賞とより関連しそうなのは次のような例だ。私が誰も見ていないところで墓石を蹴りつけることは、常識的に考えて道徳的にわるい行為である。それによって誰かに苦痛が生じるわけではない。死者はまさに死んでいるのだし、墓地の管理者や遺族に苦痛を及ぼすレベルで破壊するつもりもない(ちょっと小突くぐらいだと仮定しよう)。だとしても、なので私には墓石を蹴る自由がある、というのはちょっと信じがたい結論だ。

端的に言えば、誰も苦しめないことは、その行為をする自由があることの十分条件ではない。こっそり経験機械に繋いだり、浮気したり、墓石を蹴るというのは、(相手が生者にせよ死者にせよ)いわば人間性への冒涜である。それらは、相手の自由意志、愛、信頼、達成などなどを軽視した行為であり、主観的な苦痛を生じさせないにせよ、する自由があるとは言えない。同様に、倍速鑑賞も作者への危害がないにせよ、そこから直ちにする自由があるとは言えない。

まとめると、「自由な視聴からの擁護」にはジレンマがある。倍速鑑賞は苦痛を与えないが、ある行為が苦痛を与えないからといってそれをする自由があるとは言い切れない。ある行為が苦痛を与えず、かつ冒涜的でもないならばそれをする自由はありそうだが、倍速鑑賞がこれをクリアするかは定かではない。

ところで、「自由な視聴からの擁護」にはもうひとつジレンマがある。私はその背景には詳しくないが、竹下さんがミルから借りている危害原理は、実のところ、危害のなさを行為の自由の十分条件ではなく、必要条件としているように読める。〈する自由がある only if 誰も苦しめない〉に過ぎず、〈する自由がある if 誰も苦しめない〉とは言えないのではないか。しかし、単に必要条件として解釈された場合には、危害原理から倍速鑑賞の自由は言えないし、十分条件として解釈された場合の危害原理に反例があることは上で見た通りである。

倍速鑑賞は楽しいので真正なのか

昆さんは、インタラクティブな鑑賞としての倍速鑑賞は、ときに等速鑑賞よりも豊かな鑑賞となりうるという点から、倍速鑑賞を美的に擁護している。倍速鑑賞でもいいケースどころか、倍速鑑賞のほうがいいケースがある、というわけだ。

これは興味深い主張だが、私がもともと取り組んでいた「真正な鑑賞」の問題とはかなりズレを感じる。楽しい鑑賞が真正な鑑賞とは限らないし、真正な鑑賞が楽しいとは限らないからだ。

最初の記事で、「真正な」というエリート主義的な用語を持ち込んだせいで、話をややこしくしてしまったのではないかと私は反省している。clarificationとして、「真正な鑑賞」というので私が意味していたのは、〈与えられたものとしての芸術作品をそれに即した仕方で十分に汲み取った鑑賞〉ぐらいのことだ。それが作者の意図に即した仕方での鑑賞かどうかはともかく、この意味での真正さは主観的な楽しさや豊かさの問題ではない。与えられたものとしての芸術作品がそもそも駄作なら、それを過剰に楽しむために変な見方をすることは真正な鑑賞ではない。そっちのほうが楽しいにせよ、『プラン9』をポスト・モダン映画として見ることは、ふつう、ちゃんと見たうちに入らないのだ。同様に、メリハリがあるにせよ、『ジャンヌ・ディエルマン』を倍速で見ることは、ふつう、ちゃんと見たうちに入らない。

(ところで、わりかし確信をもって提出できる批評として、その単調さに退屈を覚えることは、『ジャンヌ・ディエルマン』の鑑賞において決定的に重要な要素である。これをなしで済まそうとする鑑賞がちゃんとした鑑賞でありうるというのは、私には信じがたい。)

コマ送りのアニメは、倍速視聴することによって流れが滑らかになり、戦闘シーンに迫力が出る、という説明。この場合等速視聴よりも「迫力のある」(スピード感がでる、なめらか)、という美的な性質が見えてくる。

https://zest-hub-4bf.notion.site/e20a832079c347479509d2ae522e0206

昆さんは倍速鑑賞の豊かさとして、倍速鑑賞だからこそ得られる美的性質があると指摘している。しょぼいアクション映画でも、倍速にすればスピード感・迫力あるものとして楽しめるというわけだ。しかし、ここに現れる「スピード感」「迫力」は、作品に帰属できる美的性質ではない。それらは主観に現れるノイズに過ぎず、真正な鑑賞が排除すべきものである(これは松永さんの見解でもある)。再度、鑑賞がちゃんとしているかどうかは、楽しいかどうかの問題ではない。

ところで、「倍速視聴はいかなる美的実践なのか」というタイトルから推察されるところとして、昆さんはおそらく一種の実践相対主義を前提されている。倍速鑑賞が必ずしも真正じゃないことにはならないのは、それを真正とする鑑賞実践が現にあるからだ。つまりは、映画を倍速で鑑賞し、「迫力すごかった!」などと述べることを正当化するような実践が存在するのだ。倍速鑑賞は、倍速コミュニティ(?)に照らせば、ちゃんとした鑑賞なのである。このコミュニティに照らせば、だらだら等速鑑賞をするほうが不適切だとされるかもしれない。作者の意図に沿っているかどうかははじめから問題外であり、鑑賞がちゃんとしているかどうかは鑑賞がなされる文脈次第(もっと言えば、鑑賞者の目的次第)というわけだ。

鑑賞の真正性を、鑑賞実践に相対化してしまうアプローチには、いくらか共感できるところはある。私も博士論文で、〈正しい鑑賞方法があらかじめ決まっているなどということはなく、個々の鑑賞の均衡として気の利いたやり方が確立していくだけ〉という趣旨のことを書いた。しかし、この観点から見て、倍速鑑賞実践が確立していると言えるのかなぁ、とやや懐疑的ではある。いずれにしても、倍速鑑賞を実践から正当化するためには、埋めなければならないピースがまだまだあるように思う。

まとめ

変な話だが、ふつう、倍速で見ることは美的・道徳的な非難に値するという直観をそれなりに強く持っている点において、私はお二人とは異なるのだろう。ふつう倍速鑑賞は失礼だしちゃんと見たうちに入らない、という前提を私は否定しようとは思わないのだ。

なので、回復可能性に訴えた私の論証は、ふつうはわるいことのわるさがなぜ打ち消されるのか、という構造を持っている。倍速でも同じものをキャッチしている、という条件が満たされる限りで、それを失礼とかちゃんとしていないとか言えなくなる、というのが私の主張だ。自由に訴えた「人それぞれ論法」を拒絶するのは、〈打ち消すまでもなく、そもそもなにもわるくない〉という方向性が、直観的にしっくりこないからだ。

この点、竹下さんよりも昆さんの論証のほうが私の論証と似た構造を持っている気がする。倍速鑑賞でも楽しいという事実が、倍速鑑賞のわるさを打ち消すのだ。しかし、「楽しい」ではまだ弱いため、「回復可能である」のような阻却要因を立てる必要があるんじゃないか、というのが私の感想だ。

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