映画を倍速で見ることのなにがわるいのか
以下は2020年3月に書いたまま放置していたドラフトだ。ちょうど『現代ビジネス』で同じ話題を扱った記事がバズっていたので、この機に多少手を加え、成仏させておく。
上の記事で問題視されている「「10秒飛ばし」で観る」「1.5倍速で観る」のうち、私は後者のみを擁護するつもりだ。「10秒飛ばし」を含む鑑賞は、あとで論じる「回復可能な鑑賞」に該当しないと考えられる点で、私にとっても「わるい」鑑賞である。よってそちらは問題とせず、倍速鑑賞のみを問題とする。
また、上の記事はこれら不適切な鑑賞がはびこっている原因に関して「①作品が多すぎること」「②コスパが求められていること」などを指摘しているが、社会的な風潮の分析も本稿の関心事ではない。本稿が問題とするのは、「映画を倍速で見ることのなにがわるいのか」という美学的問いのみである。
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映画を倍速で見ることのなにがわるいのか
タイトルは問いであり、反語でもある。
最近、倍速で映画を見るようになった(Amazon Prime, Netflix)。2.0倍以上は流石に速すぎて字幕に追いつかないため、1.2〜1.5倍ぐらい。
ちなみにChromeの「Video Speed Controller」という拡張機能を使っている。ブラウザ上のビデオであればいずれもDキーとSキーで±0.1倍調整できるので、めちゃ便利。
YouTubeで動画を見るときも、今ではほとんど倍速にしてる。きまぐれクックは超人的なスピードで魚をさばくし、コーギー犬ノエさんはプルップルしている。しかし、ここではとりあえず映画の例を念頭に置く。
倍速鑑賞の美学
「映画を倍速で見る」ことは、美学的に興味深いトピックだ。その是非をめぐる対立は、ネタバレの是非をめぐるそれに劣らず顕著だろう。倍速じゃなきゃ見てられないという人もいれば、倍速で見るなんてとんでもない!という人もいる。
さしあたり倍速鑑賞によるメリットをあげよう。ひとつはpracticalなもので、ひとつはaestheticなものだと思っている。
ひとつ目は鑑賞の効率に関する外的なメリットだが、ふたつ目は鑑賞の質に関する内的なメリットだろう。
当然、デメリットもある。
ここでも、ひとつは外的なデメリットであり、ひとつは内的なデメリットであると言えよう。
実際、(2)と(4)のトレードオフ関係については、鑑賞しながら適時速度を調整することで対応可能である。「中だるみしてきたな」と思えば速めればよいし、音楽のある場面や緊張感のあるシーンやクライマックスでは等倍にすればよい。ゆえに本稿で(2)と(4)は問題としない。
問題は、しばしば(3)とセットで主張される次のことだ。
このあたりで、「真正な鑑賞」という概念が出てきて、話はいよいよ美学っぽくなってくる。ネタバレの是非をめぐる議論とまったく同じ展開だ。
しかし、倍速否定派はなにをもって倍速肯定派の鑑賞経験を「ろくでもない」「真正でない」と考えているのか。この点を明らかにしない限り、否定派の追及は主観的な抵抗にとどまるだろう。
本稿では、映画を倍速で見ることに含まれる、あるいは含まれうる、あるいは含まれるというふうに言われているが実際には含まれないかもしれない「わるさ」について考える。
あらかじめ、私の結論を述べておくならば、映画を倍速で見ることは必ずしも「わるくない」。少なくとも、「倍速で見ることは、真正な鑑賞に必要なしかじかの条件を満たしていない点で、わるい」という否定派の非難については、抜け穴が存在することを示す。
「人それぞれ論法」を退ける
さしあたり、次のような論法は相手にしない。
倍速論争は、基本的に否定派から肯定派への攻撃というかたちを取る。「映画を倍速で見ないヤツの鑑賞経験なんて、ろくでもない」という主張をするような倍速タカ派はいないだろう。ゆえに、議論そのものを無効化するような「人それぞれ論法」は、倍速肯定派にとって手っ取り早い防御となる。「自由と多様性は尊重されるべき」だという規範はカッチリしたものであり、その範疇において倍速鑑賞が認められることも自明だからだ。
しかし「人それぞれ論法」は、権利的な自由に基づいた倍速鑑賞が依然としてなんらかの「わるさ」を伴う可能性をまったく排除しない。
ある人の自由に基づいた行動が、別の誰かの自由を毀損しうるということは、言うまでもないだろう。この場合、なんでもありというわけにはいかず、行動は外的な規範によって制御されなければならない(十中八九、それが社会というものの起源だ)。自由と多様性は議論におけるジョーカー・カードとはならない。
よって、倍速肯定派は「倍速鑑賞はいかなる規範に背くと言われているのか」を検討した上で、これに対する実質的な反論をしなければならない。
「たとえ論法」を退ける
一方、主に否定派側が提出する次のような批判も退ける。
フランス料理のたとえは故Hagex氏のブログより。
私はこのような「たとえ論法」が、倍速鑑賞のわるさを直観的に示す手段としては(場合によっては)うまくいっていることを認めたい。「フランス料理ミキサーはさすがにやばいだろ」というのはたいていの人が認めるだろう。「倍速鑑賞はアレと同じようなもんだぞ」と言われれば、なるほど「倍速鑑賞はわるいな」という気がしてくる。
しかし、このような論法は、それだけでは何も言っていないに等しい。主張として有効性をもたせるためには、以下のふたつの補足が必要だろう。
抵触してはいけないとされる規範が妥当でない限り、例えられている実践における「わるさ」を指摘することすらできない。また、例えられている実践における「わるさ」を指摘できたとしても、「同じようなもん」だと言って同じ規範抵触を倍速鑑賞に対して適用するためには、そのための橋渡しがなければならない。でなければ、「別に同じようなもんとは言えないよね?」と反論されておしまいだ。
Hagex氏は、さしあたり「お行儀が悪い」という点に触れている。すると、氏が食事および映画鑑賞に関して念頭に置いている共通の規範とは「行儀よくすべし」というものだろう。
いまのところ、食事と映画鑑賞の双方において与えられている「行儀よくすべし」という規範の内実は、ほとんど明らかではない。また、それが従うべき規範であることの根拠もいまだ不明瞭だ。ゆえにHagex氏の指摘は、倍速肯定派の行いを批判するものとしては言葉足らずだと言うべきだろう。
Hagex氏が言うような「行儀の悪さ」については、もう少し精緻なパラフレーズが求められる。これを次節で示そう。いずれにしても、「たとえ論法」がそれだけでは詭弁の誹りを受けかねないことについては、以上の議論から明らかであろう。
もちろん、同様の指摘は、「たとえ論法」に訴える倍速肯定派にも言える。「小説を読む速度は任意に選択できるのだから」「食事は好きな速さで食べてもかまわないのだから」といったたとえを根拠として「映画を見る速度も任意に選択してよいはずだ」と主張するのは、双方における規範の差異に無自覚である点で、主張としてダメだろう。
作り手の意図を無視しているからわるい
倍速否定派にとっての主要な論拠とは、次のようなものである。
前提となる規範はこうだ。
実際、ここで言われている「わるさ」にはふたつの解釈が可能である。
前者はaestheticなものであり、後者はethicalなものだろう。
前者はまた、芸術鑑賞に関する「意図主義(intentionalism)」の立場でもある。意図主義において、真正な鑑賞(=ちゃんとした鑑賞)のためには、作者の意図を踏まえることが必要条件とされる。意図主義のバリエーションはさまざまあるが、いずれも「作者の意図って大事だよね」という主張を共有している。
美学者の森功次(@conchucame)さんは、(11)(12)をともに擁護している。
あいトリ問題からネタバレの是非まで、トピックはさまざまだが、「意図をないがしろにする鑑賞はちゃんとしていない」「意図をないがしろにするのは失礼だ」という主張が通底していると言えよう。
さて、倍速肯定派は、「あなたの映画鑑賞は、ちゃんとしていないし、しかも失礼なんですよ」という批判に対し、どう応答するべきか。
再度、「人それぞれ論法」を退ける
わざわざ晒すまでもないが、森さんの記事に対し批判的なツイートやブコメは数多く寄せられた。その多くは次のような形式を取る。
このような見方を裏で支えているのは、バルト的な作者の死だったり、デリダ的なエクリチュールだったり、蓮實的な表層批評なわけだが、ひとつひとつ詳説する必要はない。ざっくり言えば、20世紀後半〜終わり頃のフランス現代思想界隈で、「作品に対して特権的な権限をもつ作者サマの意図に従って読むとか、いまどきダサいぜ」的なムードがあったわけだ。英米圏のもうちょっと精緻化された議論としては、Wimsatt & Beardsley(1946)に端を発する「意図の誤謬」がある。
森さんが指摘する通り、このような芸術観に「芸術作品は自由に見ていいんですよ」という多様性教育が折り重なった結果、反意図主義的な傾向が強まったと言えるかもしれない。
人それぞれ論法についてはすでに退けているので、大事なところだけ繰り返しておこう:自由と多様性は議論のためのジョーカー・カードとはならない。
また、人それぞれ論法に伴う「作品をちゃんと鑑賞する必要はない」「他人に対して失礼なことをしてもよい」論法も相手にしない。そのような主張が可能だとしても、倍速肯定派はまったく魅力的でない立場になってしまうだろう。倍速肯定派は、より実質的な仕方で擁護されなければならない。
倍速肯定派からの応答
意図に基づく倍速否定派の三段論法はこうだ。
任意の鑑賞行為xに関して、
①xが作者の意図を踏まえていないならば、xは失礼であるかつまたは真正ではない。
②xが倍速でなされるならば、xは作者の意図を踏まえていない。
ゆえに、③xが倍速でなされるならば、xは失礼であるかつまたは真正ではない。
ということで、倍速肯定派の応答は、およそ次の筋で取り組むほかない。
まず、(13)の線は応答として弱いだろう。
第一に、「あらゆる倍速鑑賞は、いずれも作者の意図を無視することにはならない」という強い主張は無理筋だ。クリエイターの中には、現に倍速鑑賞に対する嫌悪感を示している者もおり(冒頭に上げた記事などを参照)、ゆえに典型的なケースにおいて、倍速鑑賞は作者の意図を無視することになることは否定しがたい。
第二に、「倍速で観ているけど、これは作者が倍速で観れることを意図した作品なので、作者の意図には沿っている」といったケースが存在することは、真だとしても応答として弱い。典型的なケースにおいて、倍速鑑賞がやはり作者の意図を無視してしまうならば、肯定派はなにかしら追加の言い訳を考えないといけない。
残るは唯一、(14)の線を支持する道だ。すなわち、「倍速鑑賞は作者の意図を無視する行為である」という否定派の主張を受け入れつつ、そこから「真正でないかつまたは失礼である」という結論を回避するのだ。
実際、私は倍速鑑賞が作者の意図にそぐわないことについては、認めざるを得ないと思う。ただし、(14)の主張もまた、端的に正しいと思っている。すなわち、意図に沿う鑑賞ではないが、失礼であるかつまたは真正ではない、とはならないような状況をもたらす特定の条件を明らかにすればよい。
サンプリングの是非をめぐる議論を考えてみよう。ヒップホップ楽曲において、他人の曲をサンプリングし使用する行為は、通常「作者の権利を侵害している」ことを根拠に「わるい」と主張される。しかし、ここに条件Cとして「作者に対するリスペクトが含まれている」を付け加えれば、「わるい」という結論は回避されるかもしれない。すなわち、「権利の侵害ではあるが、リスペクトを忘れていないので、このサンプリングはわるくない」という風に言われうる。
前述の通り、たとえ論法にはコミットしないので、上述の議論が妥当かどうかは問題でない。ここで重要なのは、行為が条件Cを満たさない場合に「わるい」というのは、サンプリング擁護派であっても認めるということだ。私はこれと同じ仕方で倍速鑑賞のわるさを打ち消すような条件Cがありうると考えている。
倍速鑑賞のわるさを中和するような条件Cとして、本稿は以下を提案する。
以下で求められるのは、「回復可能である」というのが正確にいってどういうことなのかの説明であろう。
鑑賞が回復可能であるとはどういうことか
特定のシーンを倍速で鑑賞することは、作者の意図に沿わない。しかし、作者の意図に沿って観た場合、すなわち等倍速で観た場合にどのような鑑賞をするかは、倍速鑑賞が適度になされる分には想像・追体験可能である。
ここで重要なのは、以下の事実だ。
1.2倍速で見ることは、私にとって、等倍で見た場合の鑑賞を想像・追体験することを妨げない。これに対し、50.0倍速で見ることは、私を含むたいていの鑑賞者にとって、等倍で見た場合の鑑賞を想像・追体験することを不可能にするだろう。
まとめよう。倍速鑑賞をすることは作者の意図に沿った鑑賞ではない。作者の意図に沿わない鑑賞は、それだけを取れば、作者に対して失礼かつまたは真正とは言えないような鑑賞である。ただし、自らの認知能力によって再生可能な範疇でなされる倍速鑑賞は、「作者が意図した仕方での鑑賞がどのようなものであるか、およそ正確に想像・追体験する」ことを妨げない点で、失礼さないし非真正さを取り消すような要因となる。
どのような鑑賞は回復可能で、どのような鑑賞は回復不可能なのか。これは各個人の能力にも関わる認知科学的な問題であり、一般的なことを述べるのは難しい。例えば、「自発的なネタバレ接触の上で見る」「映像を上下/左右逆さまで見る」「色反転で見る」「ものを食べながら見る」「ときどきよそ見しながら見る」「周囲がうるさい環境で見る」「吹き替えで見る」などは、いずれも多かれ少なかれ理想的ではない状況下での鑑賞であろう。このなかには再生可能な鑑賞もあれば、そうでない鑑賞もある。線引きは別途考えるべき問題である。
「回復可能な鑑賞」を持ち出すことが応答としてどこまで有効か、私には分からない。だが、仮に「回復可能だろうが失礼だし、真正ではない」と言われるとしても、さらに別の条件Cを取り上げることで、意図されない鑑賞を正当化する言い訳を考えることができるだろう。結局「意図されていない鑑賞なので、倍速鑑賞はわるい」という否定派の論証には、つねに抜け穴が存在することになる。
結論はこうだ。「あなたの倍速鑑賞は作者の意図に反しているのでわるいのだ」と言われれば、私は次のように応答する。すなわち、「意図された鑑賞がどのようなものかぐらい想像できる範疇なんで、問題ないんですよ」。
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【あとがき】
改めて見てみると、かなり控えめな擁護だった。まぁ、個別のケースにケチ付けられたときは「こういう事情があるので、あなたのいうわるさは取り消されるんですよ」という言い訳が可能だ、ということを示すだけでも一応の応答にはなっただろうか。
ちなみに私はこの前、『死霊の盆踊り』というクソのなかでもとりわけクソみたいな映画を4倍速で見た。等倍で見れるものなら見てみてほしい。
【2021/03/30追記】
森さん、松永さんから反論を頂きました。
応答書きました。
【2021/03/31追記】
反論したくなったらこちらへどうぞ、のフローチャートです。
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