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『センスの哲学』と『「ふつうの暮らし」を美学する』の重なり

『「ふつうの暮らし」を美学する』——家から考える「日常美学」入門を読んだ。

世界の「日常美学」を牽引する美学者の主張を引きながら、掃除や片付け、料理などの日常に転がっているささやかな美も美学の領域に入れてあげてもいいのでは?という(包摂する)スタンスが終始貫かれている。

序章で、日常美学は二つの主要な立場に大別され、ひとつは、日常のなかの平凡のなかの平凡(映画『パーフェクトデイズ』的ルーティーンを含む)にこそ美は宿るというもの。もうひとつは日常のなかの特別なものに注目する(ルーティーンが美的であることには懐疑的)というもの。個人的には前者のような平凡のなかの平凡にこそ非凡が湧き上がるということをイメージはできても、後者のような平凡のなかの非凡は基本平凡であると思わざるを得ない、というのが素朴な感想としてある。
もっといえば、後者はあなたという(ひとりの非凡な)存在のなかで生まれた非凡と思えたことを美学はその領域から追い出したりはしないから、という期待さえ感じてしまうのだ。

さいきん『なぜ働いていると本が読めなくなるのか 』『働くということ 「能力主義」を超えて』などの新書をひもとくと、現代の労働慣行を含む社会の責任を指摘することで、労働者/市民を免責するような主張を見かけることが増えた(そしてこれは『人新世の資本論』以降の傾向であるような)気がしている。
いつも自己責任を言い立てる世界がまったくいいとは思わないが、個人で変革しきれることではない社会問題を提起するだけで、つまり個人の意識変革を期待することにとどまるような提言をするだけで終わってしまうことにどれほどの意味があるのか、ということは考えてもいいのではないか。

日常美学は、家を舞台/背景にした美学として「機能美」の項目では椅子のを題材としながら、そのひとつとして説明される「視覚的緊張」(78頁)を示す事例に「パントンチェア」が挙げられている。椅子にとっての足という標準的性質を欠いているにもかかわらず、座るという機能を果たすという意味で、調和(標準的性質を持つ/非標準的性質を持たない)を美とするあり方に対して「アンチセンス」的な価値倒錯を(日常)美学に取り込んでいると理解したが、こういう事例はきわめて限定的であると感じた。
という意味で、千葉雅也『センスの哲学』をより要素分解したような、生活のシーンごとに存在する「センス」にまつわる学術的解説を期待するとそれは残念ながら裏切られてしまう。

そんなふうに、家のなかにおいて椅子だけではないあらゆるものがネットワークとして機能していることが紹介されるものの、カテゴリーの異なるもの同士がいかなるネットワークを構築したときにそれらがどう美的といえるか?というような(ズレ/ハズシの組み合わせでまたべつの調和に至るというような)ファッションコーディネートに敷衍できそうな議論にはいっさい立ち入ることはない。

機能美のあとにふれることになる「美的性質」を敷衍して掃除や片付けにつなげる回路としても、整理されている/きちんとしていることを美学に取り込んでいく動きがあることは確認されるが、あくまでもそれはマイナーリーグとしての美学であって、著者はそれも美や崇高といったかつてより美学のメジャーリーグにあった概念と同等に扱うべきだという(やさしい)主張が繰り返される。
ただ、こういうことにふれるとしたら、1993年に京都書院から出版された都築響一『TOKYO STYLE』に映し出されていたアノニマスで猥雑でカオスでもあるもの(有名人による整序されたもの、つまりラグジュアリーの対偶にあるもの)も美学の範疇だろうし、絵になるという意味では「ピクチャレスク」な風景/光景と言ってもいいのでは、と思ったりも(その流れで、井奥陽子『近代美学入門』をひらき、「美しいものが端正で、『滑らかさ』をもつのに対して、ピクチャレスクなものには『粗さ』がある」ということを確認したりも)した。

第5章において、デューイが引かれ、生活と芸術が重なり合う「のりしろ」の部分を限界芸術であると言った鶴見俊輔にも接続しうる議論だと思うものの、本書が(初学者のための)概説書としての性格であるからか、具体的に立ち入っていくことはない。いっぽう、「脱意味的な/(時間における)フォーマリズムとしての「リズム」はその文脈で触れられるので、「センスの哲学」とまったく無関係とは言えないかもしれない。

デューイを引き継いで登場したプオラッカは改良主義を踏まえて、センスがよくなる方法として以下のように言う。


「デューイの言う美的経験のリズムが生じやすい、すなわち主体と環境との相互作用を誘発するような客観的条件の整備——芸術経験が日常を豊かにする仕組みづくりや、会話などの日常的経験の充実——などをしっかりやっていくことで、日常を美的によりよいものとして改善していく必要があると言うのです」

『「ふつうの暮らし」を美学する』258頁


「芸術経験が日常を豊かにする仕組みづくりや、会話などの日常的経験の充実」とは具体的にはどんなことなのだろう。とはいえ、美学を日常に敷衍することへの挑戦はとても興味深いテーマだと思うので、より専門的な『環境を批評する』を読みはじめている。


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