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身体で哲学するということ〜トップアスリートの身体を通して〜

先日、パリ2024夏季オリンピックが閉幕しました。

世界のトップアスリートが競い合う中において、人間の身体の極美の可能性を垣間見ました。個々に異なる競技の極限を目指すために、追求される身体の能力や性質も異なる。それはある意味で「身体のデザイン行為」と言っても過言ではないように思います。

身体を極限まで磨き上げてゆく。そして、磨き抜かれた身体を極限の緊張の中で繊細に操作する。そこには「形」としての身体と、「運動」としての身体の美しさがあります。身体において静と動が調和した美しさがあります。

トップアスリートの方々の言葉からには、各人が自分の身体をどのように捉えているのか、その解像度の高さが伺えます。どのような動きが、身体要素がどのように協調して、連動することで実現するのか言葉で的確に表現している。そこには身体がどのように動くのか、動かすのかという問いがあり、その問いを追求することはすなわち、各人の哲学に他ならないと思います。

そして、言葉で表現するだけでなく、その言葉で紡がれたイメージを実際に身体で表現している。身体という言葉にしにくいものを言葉で解き明かし、それでいて身体を身体それ自身でも捉えている。

「身体で哲学する」

身体の尽きることのない神秘性、美しさを見出し続けていきたい。そのようなことを思ったのでした。

美学とは、芸術や感性的な認識について哲学的に探究する学問です。もっと平たくいえば、言葉にしにくいものを言葉で解明していこう、という学問です。(中略)美学と生物学がクロスするところ - それは「身体」です。生物学は人間以外、美学はもっぱら人間のみという違いはありますが、生物学も美学も、身体の働きやまわりの環境との関わりについて探究してきました。

伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』

さて、そんなふうに美学は私にとっては「体で分かる」学問なわけですが、体は美学の道具であると同時に対象にもなります。感性は身体の働きですし、芸術作品にも身体は密接に関わってくる。そうなると美学は「体について(言葉で分析したものを)体で理解する」という、自分で自分のしっぽにかみついたような状態になります。いわば美学の究極形態。どうせ美学という学問を選ぶなら、この究極形態を目指したいな、という野望めいた思いが私にはあります。生物学者を目指していた私の変身願望は、つまり「体について体で理解する」ということなんじゃないか、と思ったわけです。

伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』


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