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見たこともない絵画を「美しい」と言ってなにがまずいのか

タイトルは反語。以下では、まずくない、という話をする。


1 直面原理について

私たちは、絵画や音楽や映画や服や風景などについて、美的判断を下している。つまりは、「Xは美しい」「Yは醜い」といったことを考えたり言ったりしている。美的な観点からアイテムを評価しているのだ。あったかい服でもダサければ選ばないし、美しい風景なら苦労してでも見に行くという風に、美的判断は生活における選択を左右している。

美的判断というのは美学という学問のコアを成す主題(と言ってもよいだろう)だが、これをめぐっては強く支持されている原理がある。

直面原理[Acquaintance Principle]
直接の経験に基づくことなく、美的判断を下すことはできない。

その目で見てないならある絵画が優美かどうかは分からないし、その耳で聞いてないならある曲がかっこいいかどうかは分からない。読んだこともないのに『ユリシーズ』は壮大だと言ったり、訪れたこともないのにストーンヘンジはミステリアスだと言う人は、なにかNGなことをしている。

おそらく、多くの人はこの原理にピンとくるだろう。見てすらいないのに美しさや醜さについてとやかく言うなんてありえない、と。この原理を命名した美学者リチャード・ウォルハイムも、これを「美学に深く浸透した原理」と呼んでいる。古典的なところでは、カントの『判断力批判』にすでにこの考えが現れている。

しかし、直面原理はよくよく考えてみると、いろいろとツッコミどころのある原理である。「美的判断」とはなにか、「できない」とはどういうことか、「直接の経験」とはなにか。これらの点については美学者の間でも解釈が分かれており、そのせいで、「直面原理」によっての意味するところもすれ違いがちだ。

いずれにせよ、私は直面原理を疑っている。以下では、この原理の可能な解釈を整理しつつ、どの解釈ももっともらしい原理を提出できていないと論じる。直面原理が間違っているなら、私たちは直接見たり聞いたりしていないものについて「美しい」「醜い」などと判断できる。私はまさにそう考えている。

2 「美的判断」とはなにか

まずはじめに、直面原理の射程をはっきりさせておこう。

美的判断とは美的な観点からアイテムを評価することだが、そこで問題となる美的価値とは、「美しい」や「醜い」、それらに類する独特な価値のことである。典型的には、フランク・シブリーが取り上げたような美的形容詞たちによって指示される価値が、美的価値である。

ちゃんとした線引きはともかく、美的価値の事例を捉えることはむずかしくない。「あの人は美しい」という発言によって、発言者はある人に美的価値を帰属している、つまり美的判断を下している。(その判断が正しいかどうかは、ひとまず問題外である。)

気をつけなければならないのは、美的価値を芸術作品の芸術作品としての価値(以下、芸術的価値と略す)と同一視してしまうことだ。一般的に、美的なものは芸術的なものと混同されてきたのだが、これをちゃんと区別したほうがいろいろと都合が良い。明らかに、芸術作品だけが美しさや醜さを持つわけではないし、芸術作品には美的でない価値もある。細かい話は前にいろいろ書いたので、以下を参照。

例えば、デュシャンの《泉》は、ただの男性用便器を芸術として提出するその試みによって、〈芸術とはなにか?〉という問いについて深く考えさせる点に認知的価値があるとしよう。この価値は、美しさや醜さのように、見たり聞いたりするなかで知覚されるような価値ではなく、美術史的知識を動員したりするなかで理解されるような価値である。いわば、感じるのでなく、考えることによって把握される類の、美的でない価値である。

《泉》の認知的価値ですら、あの便器を直接見ることなしには判断できない、というのは疑わしい。《泉》がどういう試みであったのかは、「ただの男性用便器を芸術として提出した」という一文だけでも十分に伝えられており、実際にあの便器を目にすることは、その理解をたいして深めるものではない。目で見ることを軽視するような観念的な芸術作品を提出することは、デュシャン本人が意図したところですらある。一般的に、コンセプチュアル・アートの芸術的価値はその見た目には基づいていないので、一個一個じっくり見る必要はない。「アンディ・ウォーホルの《エンパイア》について美的に判断したければちゃんと8時間見なければならない!」というのは厳しすぎる。

芸術作品に美的でない芸術的価値がある限り、直面原理はその射程を美的価値に絞るべきである。つまり、「美的判断」というので、芸術作品に対するあらゆる評価を念頭に置くべきではない。一方、「あの絵画は美しい」などで言われる美しさは、少なくとも典型的には知覚されるような価値なので、〈直接見ることなく「美しい」とは言えない〉というのはもう少ししのぎがいのある見解である。端的に言って、美的判断の対象が芸術作品かどうかはぜんぜん関係ないのだ。

なので、本記事の問いは〈鑑賞することなく「Xは素晴らしい映画だ」と判断できるか〉という問いとは必ずしも一致しない。「素晴らしい」のような薄い称賛語には複数の解釈があり、美的でない芸術的価値を意味する可能性がわりと高いからだ。

絵画を例にしたタイトルがややこしければ、〈会ったこともない人を「美しい」と言ってなにがまずいのか〉に置き換えても構わないだろう。

3 「できない」とはどういうことか

直面原理によれば、直接の経験に基づくことなく美的判断を下すのはまずい。しかし、ここで言われるまずさが、なにに照らしたまずさなのかははっきりしない。直接経験に基づいていない判断には落ち度があり、なにかにカウントされないらしいのだが、具体的に言ってなににカウントされないのか。

標準的な解釈では、直接経験に基づいていない美的判断は、知識の形成にカウントされない。人から聞いてXが美しい風景だと分かった気になっている人は、実のところ〈Xは美しい風景である〉を知ったことにはならない。知識には正当化が必要だが、分かった気になっている人はこれを欠いているのだ。なので、この人が「私は〈Xは美しい風景である〉ことを知っている」と言うのは虚偽だとされる。

別の解釈では、直接経験に基づいていない美的判断は、知識の形成にはカウントされるが、運用可能な知識の形成にはカウントされない。信頼できる人からの伝聞に基づき、「私は〈Xは美しい風景である〉ことを知っている」と述べるところまではいいが、それをさらなる推論に利用することができない。この解釈にはいくらかテクニカルな動機があるが、ややこしいし、哲学者でもなければたいして興味を引かない話題だろうから、脇に置くことにしよう。詳しく知りたい方はHopkins (2011)を参照。

さすがに、信念の形成あるいは判断そのものにカウントされない、とまでは言えないだろう。人から聞いてXが美しい風景だと分かった気になっている人は、少なくとも、分かった気になっている。つまり、主観的には〈Xは美しい風景である〉と信じている。偽であろうが正当化がなかろうが、信じること自体は妨げられない。(念のため、哲学者が言う信念[belief]は、強い意志のようなものを意味するのではなく、「これはこうだ」という考えを持っているぐらいの意味。)

直接の経験に基づいていないなら「美的」判断にカウントされない、というのは別の理由から言えない。これを言うためには「判断が美的であるとはまさに直接の経験に基づいているということだ」という前提が必要なのだが、この前提を立てるのは論点先取だからだ。つまり、「なんで直接じゃなきゃダメなのか」という問いに対して「それは直接じゃなきゃダメな判断なのだ」と言い張っているだけになってしまう。

ところで、「判断できない」を〈正しく判断することはできない〉で解釈するべきでもないだろう。(次の節で見るように)複製や記述や証言を通した間接的な美的判断があるとして、それが直接の経験に基づいた美的判断よりも不確かで信用ならないものにしかなりえず、間違っている見込みが高いと考えるべき理由はない。結局のところ、直面さえすれば確かで信用でき、正しい見込みが高い判断をくだせるとも言い切れないのだ。不注意でなにかを見落としたり、考えが及ばない可能性は実物を目の前にした経験にも伴う。むしろ、十分な複製や記述を通した経験のほうが、自分でコントロールできる要素が多い分、ゆっくりじっくり対象を評価することができるだろう。

4 「直接の経験」とはなにか

結局のところ、直面原理がもっともらしい原理かどうかは、大部分が「直接の経験」の解釈次第である。

まず、十分に精巧な複製や写真を通して美的価値を判断できることは、誰も否定すべきではない。直接経験じゃなきゃダメというので、居合わせなきゃダメというのを意味するならば、録音を通して聞いている限りは音楽のかっこよさや優美さについて私たちはなにも知らないことになる。これは信じがたい帰結であり、現に私たちは録音を通して音楽作品の美的価値について判断できている。私はジェームス・ブラウンの「Funky Drummer」がファンキーだと知っている。「JBの生演奏を聞いたわけでもないのに、なんでファンキーだと分かるのかね?」などと言われるのは心外である。

であるとすれば、十分に精巧な記録写真や動画を通して、絵画や彫刻や風景や人の美的価値を判断できることも、否定されるべきではない。私は会ったこともないが、映画で見たことがあるので、イザベル・アジャーニが美人であると知っている。(別の話だが、Walton (1984)が正しければ、写真を通して見ることは、直接見ることにカウントされる。)

とはいえ、ただちに直面原理が間違っていることにはならない。直面原理は複製を通したアクセスを「直接の経験」としてカウントし、戦線を撤退すべきなのだ。

次に、言葉による作品記述に基づいて美的価値を判断するケースはどうか。この場合も、事情は複製を通した判断とあまり変わらないように思われる。イヴ・クラインのモノクローム絵画について、サイズ、塗られている色を十分に細かく伝えられたら、たとえ写真すら見たことがなかったとしても、私にはそれが落ち着いていて瞑想的だと判断できる。より複雑な作品の場合、より詳細な記述が必要になることは言うまでもないが、記述を通した美的判断が原理的に不可能になると考えるべき理由はない。とくに、小説や映画の場合、あらすじの記述を通してどんな美的性格を持った作品なのか(喜劇的なのか悲劇的なのか)判断でき、その判断が正しい場合もある、というのはよりもっともらしい。

なので、直面原理はさらに戦線を撤退し、詳細な記述を読むこともまた「直接の経験」としてカウントするべきだろう。このすでにかなり譲歩的な直面原理ですら、私は間違っていると思う。

5 美的判断は証言に頼れるのか

直面原理は、後により焦点を絞って美的証言の問題として論じられるようになった。美的証言、つまり他人の美的判断を聞いて、自分は直接経験していないにもかかわらず、美的判断を下すことはできるのか。例えば、私はXという絵画を見たことがないが、実際にXを見たことのある知人(知的に信頼できる人物であると仮定する)から「Xは優美な絵画だ」と伝えられた場合、私はこの証言に基づいて〈Xは優美な絵画だ〉という判断を下せるのか。下せる、つまり美的証言に頼れるなら直面原理は間違っているし、下せない、つまり美的証言に頼れないなら直面原理には信じる理由がある。

美的証言は、とりわけ批評家の役割と関連づけて論じられてきた。批評家は、しばしば作品の美的価値について判断を表明するが、その判断はそもそも伝達可能なものなのか。美的判断に関する証言が役立たずなら、批評家はただ自分の経験や感想を報告しているだけになる。しかし、一方では批評家は美しさや醜さといった価値について教えてくれている気がするし、私たちはときにそれに基づいて価値を理解している気がする。

これはややこしい問題であり、「美的証言に頼れる」と言うのも「頼れない」と言うのも、いくらか論点先取の感がある。とにかく、以下では「美的証言に頼れる」派としての直観をいくつか表明しよう。

大前提として、私たちはさまざまな事柄について証言に頼っている。外国や海底や宇宙や体内や過去にある見たこともない事物について、私は人に伝えられた事柄の多くを信じており、それは私の知識の一部を形成している。クイズで聞かれたら、織田信長や核分裂について、私は知っていることを答えるだろう。「会ったことがない、見たことがないのだから、あなたは実はそれらについてなにも知らないのだ」と言われたら、私は驚くだろう。

ここで、事実はともかく、価値については証言に頼れない、と言われるかもしれない。「Xは鋭い包丁だ」という証言からは知識を得られるが、「Xは良い包丁だ」という証言からは得られない、というわけだ。この線引きは疑わしい。鋭い包丁は良い包丁なのだから、「Xは鋭くて良い包丁だ」という証言を丸ごと鵜呑みにしてなにがまずいのか。「自分で手にとって使ってみなきゃ、良い包丁かどうか分からない」という考えは、おそらく、〈あるものが良いものかどうか〉と、〈あるものを良いと思うかどうか(好むかどうか)〉を混同している。刃物恐怖症の人は鋭い包丁を決して良いとは思わないだろうが、それは、鋭い包丁が良い包丁であることとは独立である。

「美的証言には頼れない」というのは、一種の特殊性の指摘なのである。つまり、その他の判断に関しては頼れる証言が、美的な判断においては頼れそうにない、ということだ。しかし、そうなってくると、なぜ美的判断だけが特殊なのかと問うのは自然である。すでに触れたように、美的判断についてもこれを伝達していると思しき批評家がいる。プロの美術批評家でなくても、私たちは「沖縄の海はとてもきれいだったよ」「あの映画はすごくエキサイティングだったよ」といったことを話すし、人からのおすすめを自分の選択の考慮事項としている。少なくとも表面上は、その他の判断と同じく、美的証言をやり取りしているのだ。

信頼できる筋から「グランド・キャニオンは壮大だ」と伝えられた私は、相手が普段嘘をつくような人物ではない限りで、言われたことをふつうに信じるだろう。「へー、そうなんだ」というだけで、抵抗すべきことはなにもない。そして、それは信頼できる相手からの証言であるという事実(あるいはちゃんとした本やガイドブックに書かれているといった事実)によって、正当化されている。つまり、それは私の知識の一部となる。

場合によっては私は証言を拒絶するかもしれないが、それは「美的判断には直面が必要だ」と考えているからではなく、単に相手が十分信用できる証言者じゃないからだろう。この点は、十分にちゃんとした複製や記述じゃなきゃ頼れないというのとたいして変わらないし、美的でない証言に頼る/頼らない場合ともたいして変わらない。証言の頼れなさは、美的判断の本性にあるというより、証言者の信頼性にあるのだ。

おそらくこの辺で、「あなたは〈グランド・キャニオンは壮大らしい〉という知識を得ただけで、〈グランド・キャニオンは壮大である〉という知識を得たわけではない」と反論されるだろう。私は、そう美的判断を下した人がいるということを知っただけで、対象についてなにかを知ったうちには入らないのだ。しかし、そうなってくるとまたしても、なぜ美的判断だけが特殊なのかという話になる。仮定として、「鋭くて良い包丁です」というレビューを読んだ私は、単に〈鋭くて良い包丁らしい(そう言っている人がいる)〉と判断するのではなく、それを超えて〈鋭くて良い包丁である〉と判断してよい。では、なぜ美的判断だけが「らしい」にとどまるのか。

私が、美的価値についても「らしい」を超えて「である」の判断をしていることは、動機づけ確証というふたつの観点から支持される。これはジェームズ・シェリーが最近の論文[1][2]で書いていることなので、こちらに頼ろう。(本記事は他の箇所でもかなりシェリーの影響を受けている。)

「グランド・キャニオンは壮大だ」という証言を与えられた結果、私はどうなるのか。例えば、グランド・キャニオンに行ってみたくなるかもしれない。半年後に私がグランド・キャニオンに行ったとして、なにがこの行為を動機づけたのか。言うまでもなく、先の証言に基づいて私が下した判断である。私は、グランド・キャニオンが持つ価値について知ったからこそ、行ってみる気になったのだ。単にそう評価している人がいるという判断は、私を実際の訪問に動機づけるようなものではない。

では、実際に行ったあと、私はどうなるのか。例えば、「なるほど、確かに壮大だ」と判断したり、逆に「うーん、たいして壮大ではないな」と判断したりするだろう。直接見る経験は、事前に与えられた証言を確証したり反証したりする。確証・反証が意味を成すのも、そもそも私が証言に基づいて美的判断を下していたからだ。単にそう評価している人がいるという判断は、実際に見ようが見まいが、確証されたり反証されるようなものではない。

私は、証言に頼って美的判断を下せている。そう考えたほうが、実際にやっていることとの齟齬が小さく、判断による動機づけや判断の確証を理解しやすい。

6 映画を倍速で見ることのなにがわるいのか

ちょっとだけ、倍速鑑賞の話に寄り道しよう。私のなかでは、美的証言についての楽観主義および直面原理の否定は、倍速鑑賞の肯定と繋がっている。変な話だが、倍速で見ても構わないのは、そもそも見なくても構わない(証言などに頼ればいい)からだ

現在の私の考えはこうだ。直接経験しようが、等速で見ようが、作品について十全に知りうる保証はないし、正しい美的判断を下せる保証はない。逆に、証言に頼ろうが、倍速で見ようが、知るに値することを必然的に知り損ねると考えるべき理由はないし、そうして下された判断が必然的に間違っていると考えるべき理由もない。鑑賞がちゃんとしているかどうかは程度問題である

倍速鑑賞の記事を書いたとき、「倍速で見るのは自由だが、分かった気になって批評しないでほしい」という意見を複数見かけた。しかし、この線引きは悪手だろう。むしろ批評(作品についてあれこれ語るレベル)こそ、倍速鑑賞によってたいして左右されないレベルなのだ。『死霊の盆踊り』が下品なうえに不必要なダンスシーンだけで構成された駄作であること、『東京家族』が伝統的な日本家族の崩壊という主題を端正に扱い、優美な構図を練り上げた傑作であることは、4倍速で見ようが分かる。1000倍速では無理だろうが、それは再度、単に程度問題である。

私が、私にとって十分と言える鑑賞をして、それに基づいて語ることは、作品について間違っているかもしれないが、正しいかもしれない。この点、等速で見た批評家が語ることと実質的な違いはないのだ。批評の読者としても、語られていることが作品について正しいかどうか、それに賛同できるかどうかだけが問題なのだから、批評家が倍速で見てようが等速で見てようがどうでもいいはずだ。なぜ、「倍速で見るのは自由だが、批評はダメ」という線引きが出てくるのか、私には理解できない。

倍速によって取りこぼされる重要ななにかがあるとすれば、それは知覚や経験のレベルにあるのであって、批評云々はぜんぜんまったくなんの関係もない。倍速否定派は、「倍速で見るのは自由だが、そんなの楽しくないだろう」と言うべきなのだ。前までは変に抵抗しようとしていたが、現在はこの点についてはおおむね受け入れようと思っている。とはいえ、楽しい/楽しくないも、結局は程度問題だろうとは思うのだが。

直面原理の肯定も、倍速鑑賞の否定も、根底には「ちゃんとした鑑賞」をめぐるマウントがいくらか含まれているように思う。ちゃんと鑑賞した自分のほうが、作品についてとやかく言える立場にある、というわけだ。これが「ちゃんと見てないくせに作品についてとやかく言うなんて、傲慢だ/ずるい/不誠実だ」ということになってくると、それはもう単なるお気持ち表明なので、言い返せることは特にない。「ちゃんと見てないが、私の言うことは正しいかもしれない」「ちゃんと見ていても、あなたの言うことは間違っているかもしれない」というのは、批判者をさらにムカつかせること必至だが、これはこれで否定しようがないだろう、と私は考えている。

7 さいごに、表出主義について

ところで、直面原理の検討に際して、あえて触れなかった考えがひとつある。美的判断についての表出主義(美的価値についての反実在論)だ。この考えによれば、「Xは美しい」という判断は、ざっくり「私はXが好きだ」という報告に還元される。つまり、字面に反して、私の判断は対象Xについてなにかを報告しているのではなく、私自身の感情や趣味について報告しているのだ

鋭い包丁に関連して、〈あるものが良いものかどうか〉と、〈あるものを良いと思うかどうか(好むかどうか)〉を区別したとき、私は暗に判断についての認知主義(価値についての実在論)にコミットしていた。つまり、価値についての事実が世界側で成り立っているので、評価はちゃんと対象についての報告になりうる、というわけだ。

明らかに、直面原理や美的証言の是非は、表出主義と認知主義のどちらを前提するかで左右される。前者を前提するなら、「直接経験しないことには、自分が好きかどうかは分からない」という、かなり当たり前に思える原理が導かれる。「あの絵画、見たことないけどめっちゃ好きだ!」というのはいくらなんでもおかしい。

一般的に、規範的な事柄について考えるのが面倒くさくなった人は、表出主義のような「人それぞれ」的な考えに走りがちだ。こんなちゃぶ台返しはよろしくない(これは〈私は大嫌いだ〉の表出である)のだが、それはともかく、美的判断についての表出主義は独立した検討に値する立場である。とはいえ、ここにあるのはめっちゃでかい哲学的論争なので、おいそれと踏み込むわけにもいかない。

なので、本記事が主張してきた「直面原理は間違っている」というのは、「認知主義を前提するなら、直面原理は間違っている」という留保つきの主張として理解されるべきだろう。まずもって表出主義を前提している読者にはこの主張はたいして刺さらないだろうが、そこは仕方がない。表出主義は表出主義で修正的だし、擁護を要する極端な立場なんですよー、といくらかケチをつけるのにとどめよう。

8 まとめ

  • 直面原理とは、〈直接の経験に基づくことなく、美的判断を下すことはできない〉という原理。美学において人気だが、正しいかどうかは「美的判断」「できない」「直接の経験」などの解釈次第。

  • 「美的判断」は芸術的価値の判断として解釈されるべきではない。直面が不要そうな、美的でない芸術的価値もあるから。

  • 十分な複製や記述を通して美的判断ができてしまうので、「直接の経験」がこれらを弾く限り、直面原理は間違っている。

  • 〈証言を通して美的判断ができるか〉というのはややこしい問題だが、できると考えるべき理由はいくつかある:現にそうしているっぽいし、そうしていると考えなきゃ動機づけや確証について理解しがたい。

  • (見てないのにとやかく言えるのだから、倍速で見てもとやかく言える。それで楽しいかはともかく。)

  • (美的判断についての主観主義が正しければ、ぜんぶ考え直す必要があるかも。)

リーディングリスト

日本語で読めるものとしては、とりあえず森功次さんの発表資料を参照。直面原理や美的証言の問題を細かく整理されている。

つい先日の哲学若手研究者フォーラムで、北海道大学の昆佐央理さんが美的証言についての発表をされていた。倍速鑑賞の話にもご関心があるそうで、続報が楽しみだ。

英語読める方は、今年書かれたばかりのSEPの「美的証言」がおすすめ。著者は、このトピックについて書きまくっているJohn Robsonと、これで博論を書いたRebecca Wallbank。Robsonは2012年に『Philosophy Compass』でも美的証言についてのサーベイ論文を書いているが、今はSEPがあるのでSEPでいいだろう。

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