芸術的価値についてどのような立場があるのか
芸術の価値や芸術的価値について調べているが、Internet Encyclopedia of Philosophyのエントリーに立場一覧があって面白かったので、簡単な補足を入れつつ&ちょいちょい修正しつつ一通り訳してみた。元エントリーを書いているのはリヴァプール大学のHarry Drummond。
まず大前提として、「芸術の価値[value of art]」と「芸術的価値[artistic value]」はふつう区別される。前者は、ものとしての芸術作品が持ちうる任意のタイプの価値であり、彫刻がドアストッパーに役立ったり、絵画が燃やして暖を取るのに役立つといった価値も含んでいる。一方、後者は芸術作品の芸術としての[qua art]価値であり、芸術ならではの価値であり、ふつう芸術家や批評家や鑑賞者が気にするような価値のことだ。
問題はその線引きなのだが、はっきりと一種類の価値まで絞る一元論者と、ゆるくいくつかの価値まで絞る多元論者がいる。一元論の代表は、唯美主義である。
〈美的価値とはなにか〉を話し出すと長いので、ここではとりあえず美しさや優美さや鮮やかさといった、知覚的形式ゆえの価値としてとっておこう。(外延をイメージするためのリスト)
唯美主義者は多元論を否定し、芸術的価値なる価値と美的価値を同一視する。芸術としての良し悪しは、美しさや優美さや鮮やかさといった美的価値をどれだけ持っている/持っていないかの問題になる。誰とは言われていないが、有名所はやはりMonroe Beardsleyだろう。
唯美主義に関連した立場として、エラーセオリーと消去主義がある。
エラーセオリーはそもそも概念として存在しない「芸術的価値」について、私たちが誤って語っているものとし、消去主義は「芸術的価値」なる概念は存在するがその中身は美的価値と完全に一致するので、美的価値のことをわざわざ芸術的価値と言い換えるのは冗長だとする。
一応、Gaut (2007)のように消去主義をとりつつ、美的価値については多元的に理解する立場もある。つまり、消去主義は一元論を含意しない。美的価値のほうをひろく取るわけだ。
一般的に、芸術的価値についての多元論は以下のような立場。
芸術としての良し悪しには、美しさや優美さや鮮やかさといった美的価値以外にも、知識を増やしてくれたり、正義を推進したりといった、いろんな価値が絡みうるとするのが多元論である。
もう一度注記しておくが、問題となっているのは「芸術的価値」ないし「芸術作品の芸術としての価値[value qua art]」であって、「芸術の価値[value of art]」ではない。芸術の価値がいろいろあるというのはみんな認めている。そのうち、「artistic」を冠するに値する、芸術ならではの価値もまたいろいろあるというのが芸術的価値についての多元論だ。
多元論をもう一歩推し進めれば、そもそも「芸術作品の芸術としての価値」「芸術ならではの価値」なる芸術的価値を放棄する、トリヴィアル理論に行き着く。
美的価値はふつうの花でも持ちうるし、道徳的価値はふつうの人助けでも持ちうるし、政治的価値はふつうの演説でも持ちうる。それら芸術作品でないアイテムも持ちうる価値ばかりなので、とりわけ芸術に固有・ならではな「芸術的価値」なるカテゴリーはいらない、ということになる。
Lopes (2011)はこのトリヴィアルな理論では元も子もないと考えて、芸術的価値と美的価値を同一視する方向へ向かうのだが、Hanson (2013)によればロペスの立場は唯美主義なのかエラーセオリーなのか消去主義なのかはいまいちはっきりしていない。いずれにせよ、芸術的価値と美的価値の同一視は繰り返し批判されてきたものであり、あれこれ鑑みるとやっぱり、〈美的価値は複数ある芸術的価値の一種に過ぎない〉とする多元論のほうがもっともらしそう──と著者のDrummondは考えており、私もそう考えており、『分析美学入門』のステッカーもそう考えている。
多元論の問題点は、まだ十分に線引きできていないことだ。彫刻がドアストッパーに役立ったり、絵画が燃やして暖を取るのに役立つといった価値まで「芸術的価値」のラベルに収めてしまうのは、多元論者にとっても不本意である。であるとすれば、どのタイプの価値がなぜ芸術的価値をも左右し、どの価値はなぜしないのかの説明が必要である。Drummondは、とりあえず(1)認知的価値、(2)道徳的価値、(3)政治的価値のみっつを取り上げ、それぞれがなにゆえ芸術的価値につながる/つながらないのかの議論を追っている。
「認知的価値[cognitive value]」というのは、狭く理解すれば世界の事実について教えてくれるアイテムの価値なのだが、芸術ならではの認知的価値についてはStolnitz (1992)の有名な批判がある。(この論文は前に読書会で読んだ)
芸術作品を通してでなければ知り得ない事実や、芸術だけが伝達できるテーゼのようなものはない、というのがストルニッツの主張である。
これに対し、認知主義者はふつう「認知的価値」なるものを広く理解することで対処している。すなわち、「知識を授ける」という効用だけでなく、視野を広げたりすでに知っていることの理解を深めるといった効用も認知的価値とみなす。Gregory Currieなんかがこの路線で認知主義を精緻化させている。
道徳的価値[Moral Value]は、たいていネガティブなほうを問題にされている。例えば人種差別的だったり暴力的であるといった作品の道徳的欠陥が、芸術的価値に絡むのか(どう絡むのか)がコアな問いとなる。
はじめに、道徳的良し悪しは芸術的良し悪しに絡みうるとする相互作用主義者と、そうでないとする自律主義者に分かれる。
人種差別的であるがゆえに、芸術作品は道徳的欠陥を抱え非難されるが、「その欠点ゆえに芸術としての価値も低い」ことは含意されない、とするのが自律主義である。人種差別的なので芸術としての価値も低い、というケースを認めるのが相互作用主義にあたる。
上に挙げたのは、道徳的査定自体はありうる(ただそれは芸術的価値には絡まないけどね)とする穏当な自律主義だが、もっとラディカルな自律主義もある。
アイテムとしての芸術作品は美的観点から見られるだけのものであり、道徳的観点から良し悪しを問題にするのは一律不適切である、という強い立場がラディカルな自律主義に相当する。
ラディカルな自律主義は論外であり、穏当なバージョンを擁護するのもしんどいのか、相互作用主義を前提とした上でどの程度まで/どういう仕方で相互作用するのかが盛んに論じられているようだ。
相互作用主義の一番シンプルなバージョンは倫理主義と呼ばれる。(あんまりいいネーミングじゃないと思うのだが、先行研究ですでに定着している呼び名ということだろう。)
道徳的な良し悪しと美的な良し悪し(従って芸術としての良し悪し)はつねに連動している(これは、後で見る不道徳主義の否定にもなっている)。すでにだいぶ攻めた立場だと思うが、Gaut (2007)が擁護しているらしい。関連して、もっと攻めた見解としては、次のものもある。
こちらは道徳的価値に一本化した、芸術的価値一元論に相当する。美しい、優美である、といった美的価値でさえ、それが芸術的価値になるかどうかはその作品の文脈において美しさや優美さが道徳的に良いかどうか次第になる。
ちょっと強すぎる立場なので、Carroll (1996)なんかはもっと穏当な道徳主義を選んでいる。
道徳的によろしくないので芸術としての価値も引き下げられるようなケースがある、というのにコミットするだけの穏当な立場だ。すると当然どういう場合に相互作用するのか、というのが次の問いになる。IEPでは引かれていないが、最近読んだGilmore (2011)は、個別作品ごとの目的に道徳的機能を果たすことが含まれており、これが作品に含まれる道徳的欠陥から妨げられる場合には芸術的価値も引き下げられる、という機能主義的説明を与えている。環境保護を訴えているが、撮影のために木々を切りまくった映画は道徳的欠陥ゆえに芸術的価値も低いケースになるのだろう。
以上は、道徳的なマイナスが芸術としてのマイナスにもなるのかという話が主だったが、これとは別に道徳的なマイナスが芸術としてのプラスになりうるのかという議論もある。『分析美学基本論文集』に載っているダニエル・ジェイコブソン「不道徳な芸術礼賛」(1997)はこのトピックの古典のひとつ。
不道徳主義はいずれも穏当な立場であり、道徳的欠陥が芸術的価値を高めるようなケースもある、というのにコミットしているだけだ。ここでも、どういうときにそういう相互作用が起こるのかが問われる。
Drummondは、Eaton (2012)の「強靭な不道徳主義」と、Kieran (2003)の「認知的不道徳主義」を紹介している。
ざっくり対比すれば、「道徳的に悪い👉美的に良い👉芸術として良い」というルートを認めるのが前者、「道徳的に悪い👉認知的に良い👉芸術として良い」というルートを認めるのが後者だと言えるだろう。
最後に、政治的価値[political value]についてだが、こちらについてはまだ十分に議論が積み上げられていない様子だ。ひとつ、ソーシャリーエンゲージドアートに特化して政治的価値と芸術的価値の相互作用を論じたSimoniti (2018)の立場が紹介されている。(こちらの論文は前に伊藤さんがART RESEARCH ONLINE論文で検討されていた。)
シモニティは政治的価値が、ソーシャリーエンゲージドアートという芸術カテゴリーにとっては利点になるという、ごく限定的な主張をしているだけだ。一般的に、芸術的価値と政治的価値がどう絡むのかについては、To be continuedといったところか。
お気に入りの立場や、擁護したい・蹴散らしたい立場はあっただろうか。私は一元論や自律主義よりも、多元論やいろんな相互作用を認める立場を好ましく感じることが多かった。もちろん、テーゼだけ見て分かった気になるのは危ういので、もっといろいろ当たってみようと思う。
日本語で読める関連文献としては、森さん作成の分析美学邦語文献リーディングリストのうち「9. 芸術的価値」を参照。まずは『分析美学入門』の第9章と第10章、森さんが『現代思想』に書かれた論文「芸術的価値とは何か、そしてそれは必要なのか」から入るのがよきです。
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