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「ふつうの暮らし」を美学するを読んだ

 日常美学という新しい学問領域の本を読んで思ったことを書くね。これまで美学は日常や芸術と切り離された対象とされていたらしく、生活にも感性って働いているよね、もっとそれを学問的にみてもいいよねって本。易しい内容で抽象的な内容を著者の経験や身近な例から紐解く。
 日常の小さな機微を感じ取ることって大切だと思いつつ、多忙になると蔑ろになる自分への自戒になった。また、日常の美しさを感受してから、言語化して第三者に伝えることへの苦手意識があり、個人感想の域にすら到達しないことの不甲斐なさ歯痒さを感じていた。同時に、この感覚は良くないものなのではと崩れそうになることもある。本書をきっかけに、自分を大切にしたい日常の小さな機微を感受する軸を明確で強固なものにし、これからの日常への視点を問い改めたい。

美的性質・趣味

自分に誇れるものはなんだろう。そう自分に問いかけると、真っ先に思い浮ぶのは感性だと思う。素質もあるだろうけど、後天的に絵筆を手に取り、絵をよく見、歴史を学ぶなどして磨いた感性には自信がある。私はそれを絵画的言語と勝手に名付けていたが、美学では美的性質・趣味と呼ぶそう。
 薔薇の例がわかりやすい。薔薇を見て華麗だと感じるが、華麗だと感じる要素は具体的にどこにあるのだろう。薔薇における非美的性質を「くっきりと弧を描く花弁」美的性質を「華麗」と分類すると、必ずしも非美的性質と美的性質がイコールではないことに気づく。良いものを良いと感じるのに必ずしも根拠や言葉が必要なのではない。
 美術館に絵を見に行っているのに絵をロクに見ずにキャプションをやたら読んでいたり、歴史的に分析し過ぎる鑑賞を野暮だと思っている(どちらも大事だし、そこに醍醐味があるのも事実なんだけど)ので、趣味の体得を重要視する自分を肯定できた。

機能美を3つに分ける

パーソンズ&カールソンによれば実用的観点と美的観点の両方が絡み合った複雑な視点で発見されるモノの美的な良さを機能美を呼ぶ。とりわけ著者は椅子を事例として展開している。椅子は純粋な色形の美しさを愛でるだけでなく、どのように使えるかという観点を抜きにして捉えることは難しい。機能美はデザインへの姿勢と似ている。パーソンズ&カールソンは、議論をするために機能美を3つに分けた。機能面を踏まえた感受性を上手に言語化していて学びになったので紹介する。著者が具体的に椅子の名作に置き換えていたのがわかりやすかった。

  1. ぴったりに見える(looking fit)

    1. 伝統的な見た目で機能と美を考察するときの典型例として用いられる(ヤコブセンのセブンチェアなど)

  2. 合理化された見た目(streamlind appearance)

    1. 機能を最もストレートに表したエレガントでシンプルな見た目(アルヴァ・アアルトのスツール60など)

  3. 視覚的緊張(visual tention)

    1. 反標準的性質が効果的な見た目(パントンのパントンチェアなど )

 椅子どのような状況に置かれるかでも機能美が変わってくる。本を読むために置かれた椅子なら、「リラックスできる椅子」などの別観点の機能美が立ち上がる。家具や物との関係で捉え方は変わる。トップダウン式で決められた機能を鵜呑みにせず、なぜこの機能として提案されているのか考慮し、自分の暮らしにフィットするのか、もっと遊べる範囲はないのか、創意工夫を凝らしたい。


 椅子は機能美を説明するのにちょうどいいんだ。椅子っていいね。美大時代、図書館のいたるところに設置された椅子を気に入ってよく座っていた。座りにくそうなのに意外にも座りやすい椅子はこれ

きれいと汚いは曖昧

部屋がきれいか汚いと感じる境界線も美的性質がある。確かに自分が部屋を汚いと感じる基準には自信がない。その美的性質の曖昧さの中で、一つの判断基準となるのが過程。自分で掃除した部屋のことを「きれいな部屋」ではなく「きれいになった部屋」と表現する。我々は単に完成された部屋だけでなくここに至るプロセスを含めて評価している。
 テクノロジーの発達によって過程の重要性が薄れ、片付けにおける美学の立ち位置の占め方は変化する。アレクサなどのスマート家電に嫌悪感を感じるのはこの過程の重要性が薄れるからなのだな。ただ、あくまで2024年を生きる私にとっての価値観なだけで、今後も時代の変化を追いながらどこにロマンを感じるか否かは常に見つめ直したい。
 片付けは人のあり方を反映し、道徳的な価値観までもを映し出す。きれいであれば良い、汚いとだらしない、でも仮にだらしなくてもその部屋主がアーティストだったりすると自由な人として逆に認められる。道徳的とは人のものを盗まないなどが一般的だ。けれども、きれいな部屋はきっちりした人という社会的な評価にもつながる。社会があって道徳がある。だからこそ、道徳的判断に頼りすぎるとステレオタイプで他人を評価することになりかねない危険性も孕んでいる。
 部屋は人に見せないからどうでもいいなんてことはなく、どのように社会と関わり、自分のことを発信していきたいかを自らに問いながら汚いときれいを超越したスタイルを確立したい。

高級感覚と低級感覚

料理は美学として扱われていなかった。その背景は複数あるが、中でも五感が高級感覚と低級感覚の2つに分類されることに驚く。高級感覚は視覚・聴覚は精神と強く結びつき、低級感覚は触覚・味覚・臭覚は身体と結びつく。手で触り、鼻で嗅ぐのような実感が伴うものを低級感覚とされてきたと言われると、目で見る美術、耳で聞く音楽は崇高なものだとされてきた歴史に納得する。

料理は美学になりうるか?

私は、料理は創作・芸術的な営みだと考えている。しかし、著者は家庭料理は、いかなる状況でも短いスパンで義務的に作らねばならないと鑑賞より制作の面で課題があると指摘している。指摘の事例には、三浦哲也さんの自炊者になるための26週の本を例として芸術抜きに家庭料理を語れるとも主張している。だが、むしろ私は感性(芸術の延長線上にある性質)を知的に解釈する本だと捉えていたために、まさか、クリティカルな要素で引用されるとは想定外だった。確かに短いスパンで今日食べたいものが思い浮かばないときしんどさを感じる。とはいえ、自分の環境や時代(一人で自分のためだけに自由に料理ができ、料理は女性がするものだと強いられない)が恵まれているからこそ、ありがたいことに、家庭料理を芸術的な営みだと捉えられるのではないかと、考えたりした。制約を強く感じないうちに、のびのびと感性や知的好奇心に従順になり家庭料理を楽しみたい。

自分の美学・芸術

私は、崇高とされるものよりも日常美学や大衆芸術のような生活に根ざすものに関心が強いことが分かった。時代を超えてもやり続けたいと思える行為を見つける。もしくは、今関心が高いことに真正面から向き合えると、より軸が定まって芯のある人格になれるのではないだろうか。
 料理は自分の生活にとって重要な創作活動として立ち位置を占めている。美学と料理について書かれた本「美味しい」とは何か-食からひもとく美学入門」など関連書籍をもっと読んで家庭料理と感性について深く理解したい。
 また、かなり驚いたのが美学と芸術は親和性が高いことだ。読む前は哲学的側面が強いと思っていたが、もはや芸術的価値観で物差しが図られている問題提起があるくらいには、芸術と重なる分野だった。美学は自分を豊かにできるジャンルなのかも、出会えてよかった。
 「花がきれい」「パン生地こねながら無心になる」のような暮らしを慈しみ過ごしたい。生活の機微を敏感に感じとり、時代の変化と呼応しながら日々を新鮮に感じられるように感性を磨き続けたい。

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