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クラウス・フォン・シュトッシュ 『神がいるなら、 なぜ悪があるのか』 : 至高者を信じる者だけが

書評:クラウス・フォン・シュトッシュ『神がいるなら、なぜ悪があるのか』(関西学院大学出版会)

素晴らしい神学書である。
「神義論」とは、もともと「神の正しさを弁ずる議論」であり、要は「キリスト教の自己弁護論」であるから、キリスト教徒ではない私にとっては、その「ご都合主義的に、結論ありきの非論理的議論」は、しばしば痛罵の対象にしかならず、「神義論はクソだ」と吐き捨てたくなるようなものばかりが目についた(例えば私は、英国国教会を代表する新約学者で主教のN.T. ライト著『悪と神の正義』について、その自己満足的な議論を「価値の無い、凡庸な「神義論」の書」と題し、批判するAmazonレビューをすでにアップしている)。

しかし、本書は違う。著者シュトッシュは、現実の悪や堪えがたい人間の悲劇から目をそらすことなく、それでも神を信ずる者として、神の存在を問うている。
したがって本書では、私のような門外漢による批判ではなく、これまでになされてきた多くの神義論の不十分さを、自ら仮借なく検討批判した上で、それでも可能な神義論とは何かということを真摯に追及している。だからこそ、本書は「現代の神義論」たり得ているのだ。

『神のすることに同意するにせよ抗議するにせよ、神を信じることがいかに総合的に合理的で正当なものとして説明できるかということが問題なのです。神を信じることの正当性を説明できなければ無神論に決定的な反論を行うことができませんし、それでは神を信じることは不合理なことだと思われてしまいます。』(P7)

このように真っすぐな言葉を語り得たキリスト教神学者が、いったいどれだけいただろう。
しかし、本気で神を信じているのであれば、たとえ神が人の言葉では完全には語り得ないものだとしても、可能なかぎりそれを追及しただろうし、現にシュトッシュはそれをしている。逆に言えば、このような言葉を語り得ない一般信徒は無論、神学者たちもまた、じつは自身の神やそれへの信仰に、内心で「不安」を抱いていたのではないかと、私などは疑いを持たざるを得ない。すでに持ってしまった信仰という支えが「幻想に過ぎなかったらどうしよう」という「怯え」を密かに抱えているからこそ、それと世界の現実との矛盾と見えるものに、真正面から向き合うことを避けるのではないか。

シュトッシュは、キリスト者が向き合わなくては済まされないはずの現実的悲劇として、ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』のなかで描いた、イワン・カラマーゾフによる「神への告発」に繰り返し言及している。「罪も無い子供たちの悲劇と、その不幸の最中の死」というものを、「正当化する理屈」などあり得ないという観点から、これまでは自己弁護的な正当化にあけくれていた神義論の、乗り越えの必要性を提唱する。

『苦しみに意味を見出すことができるのは、苦しんでいる当事者だけです。理屈だけの神学が他者の苦しみを機能的に処理しようとすると、苦しんでいる当事者の尊厳を許しがたい方法で即座に傷つけてしまうことになるのです。ですから「機能化」の観点から苦しみを「善化」できるという意見に対する決定的な反論は、自分自身の苦しみに意味を見出せない当事者に、苦しみが「機能的」に良いものとして働くことなどあり得ない、というものです。確かに、当事者がその意味を納得できていない生き方や苦しみに何かほかの善なる目的があるとみなす考え方は、人間を何かほかのものの手段として扱われてはならず、人間そのものが目的でなければならない、というカントが提唱した道徳的命題に矛盾してしまいます。』(P25)

平たくいえば、最終的に「神の偉大さ」を示すための道具として「悲劇の中で死んで行く子供たち」の存在があったのだから、それはそれで良いのだという理屈は許されないし、そんな正当化論を神も望んではいないだろう、ということだ。

だが、現代においても、このレベルの神義論が懲りずに再生産されているという事実は否定できない。
かって、ナチスの引き起こした悲劇を目の当たりにし、ヨハン・ハブティスト・メッツが繰り返して言ってきたとおり『我々はアウシュビィッツ以降、アウシュビィッツを考慮に入れなければ、神についても神に対しても、何かを語ることは許されない』(P233)はずなのだが、実際には多くの人々、そしてキリスト教神学者にとってすら「喉元すぎれば」アウシュビィッツも「厄介なエピソードの一つ」と化してしまい、そこで失われた命の尊さ、悲劇の重さは失われてしまっている。
だが、世間の無神論者がそのようなニヒリズムに犯されたとしても、愛の神の僕たるキリスト者に、どうしてそのようなことが許されよう。キリスト者は、誰よりも重い十字架を引き受けつづける存在でなければならなかったのではないのか。

シュトッシュは言う。

『 神学の目的は、神義論を解決してしまうことでもなければ、「なぜ」私たちはこの世界で苦しまなければならないのかという問いに回答をすることでもありません。こうした問いはおそらく神にしか答えられないでしょうし、そもそもこうした問いはいつも神に向かって発せられているのではないでしょうか。同時に、神は神にしかできない働きかけで、慰めと救いに満ちた回答をすでに先取りして実現しているのかもしれません。神学とは、神がそうした慰めと救いを働きかけていることを示唆するものであって、苦しみの意味を説明したり、それによって神に対する抗議をなだめたりするためのものではないのです。』(P200)

言うまでもなく、人間でしかない神学者に「神の代弁者」は務まらない。彼にできることは、人間として真摯に他者の苦しみと現実の悲劇に向き合い、それでも神を信じる者として、政治的なハッタリ的言説を退け、誠実に「悪と悲劇の実在」の意味を問い続け、それを語り得る範囲で語ることなのではないだろうか。

『(※ ヨブ記におけるのと同様)神との(※ 正当な)言い争いを最も意味深く表現しているのは、ペルシャの神秘主義詩人であるファリードゥッディーン・アッタール(1145ー1221)の『苦しみの書』です。それは「神と言い争う過程ばかりではなく、イスラーム的敬虔による中道の歩み方をも教えるもの」です。アッタールの神への挑み方の特徴は、神にとらわれた者がそれを語るという形式となっている点です。「至高者を信じる者だけが、天国まで届く石を投げることができる」。
 ここでは、無神論者による抗議の仕方が批判されているというよりも、それを超える抗議の仕方に取り込まれているといえるかもしれません。むしろ抗議は神との対話に統合され、有神論的な観点に結びつけられるのです。神へ全幅の思いを寄せているとしても、また、あまりにもひどい運命をすべて受け入れたとしても、それでもなお他者のために神に訴え、また問いかけずにはいられません。「絶望している人々は、むしろ神をたたえる信仰者たちよりも宗教的である。しかし信仰者たちの目は、神による被造物の現実の状態に対して閉じられてしまっている。普通の仕方を超えて愛する人は、神が自己を啓示したように、敢えて神に向かって訴えかけるのである」。神に向かって反抗することこそが、神を信じることに最も迫る瞬間として明らかになるといえるでしょう。』(P258~259)

イワン・カラマーゾフは、しばしば無神論者と呼ばれるけれども、そうではない。
彼は、神の存在を信じればこそ、子供たちの悲劇を黙認している神を「許せない」と、熱涙を流して神に抗議しただけなのである。彼にとって神とは、彼を支えるために彼の中にだけ存在していれば事足りるという利己的な必要性に基づく存在などではなく、この世界に実在しているものだからこそ、彼は、神の、他者の悲劇に対する不作為を黙認することができなかったのだ。
そして彼の言葉が、今も多くの善意の人々の胸を打つのは、それがニヒリストの言葉ではなく「至高者を信じる者だけが、天国まで届く石を投げることができる」ことを証明しているからであろう。

「現代の神義論」は、ここまで来ている。それを保身的に虚弱な信仰心によって「アウシュビィッツ以前」に後戻りさせてはならない。
人なればこそ、究極の答を知りそれを語るなどといったことはできないだろうが、それでも誠実に神に問い、対話を続けることは、その信仰的確信において、できないことではないはずなのである。

是非とも、本書を読んで、自身の「信仰の強度」を確かめていただきたい。

初出:2018年11月26日「Amazonレビュー」
  (2022年8月1日、閉鎖により閲覧不能)

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