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マルティン・ブーバー 『我と汝』 : 〈汝〉としてのブーバー

書評:マルティン・ブーバー『我と汝』(講談社学術文庫・岩波文庫ほか)

ブーバーの哲学は、一般に「対話の哲学」だと位置づけられている。しかし、これはきわめて問題のある「簡約」ではないだろうか。

講談社学術文庫版の解説者・佐藤貴史は、解説文「出会いとすれちがい」を次のように締め括っている。

『 書物と人間のあいだでも、つねに出会いとすれちがいが起こっているのではないか。偉大な書物が複数の訳者によって複数の言語に翻訳され、さまざまなコンテクストの中で読み継がれていくという出来事は、出会いだけでは語り尽くせない複雑な事態だと言える。そうであるならば、いまこの本を手に取っている〈あなた〉にも、『我と汝』との出会いと、そしてすれちがいが到来しているはずである。』(P248)

ここで言う「すれちがい」とは、ブーバーの経験した、ある「すれちがい」による、重要な「思想的転回=回心」を踏まえたものだ。

かつてブーバーは、自分に救いを求めてきた青年と、十分に向き合うことができなかったという「すれちがい」によって、青年を救うことができなかった。それは自分が、自身の神信仰に耽溺するあまり、他者や現実の問題を軽視していた結果の「すれちがい」であった。だから、その「すれちがい」経験後のブーバーは、「現実の問題」を決して「信仰」の二の次に置くようなことはしなくなったのである。

つまり、人は「すれちがい」によって学ぶことも多いし、より正確に言うなら「すれちがいの(必然的な)存在の自覚」において、人は「自己満足」に陥ることなく、より多くのことを学び、現実と向き合うことも可能になる、ということである。

したがって、佐藤が、上の言葉で何を言いたかったのかは明らかで、それは、簡単に「わかった」つもりになるな、ということである。ブーバーの思想は、一見したところ「取っつきやすくて、わかりやすい」という印象を与えるのだけれども、そうではないんだ、ということだ。

そのレベルで「わかった」つもりになる読者は、ブーバーの思想を捉え損ねていると考えていい。だから、読者は、ブーバーの言葉と向き合って、少しでも違和感や疑問を感じたところを、読み流すのではなく、そこにこだわって、ブーバーと「対話」しなければならない。ブーバーの思想を、自分を飾る「アクセサリー」として〈それ〉化してはならない、ということなのである。

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以上を踏まえた上で、本書『我と汝』における、ブーバーの思想の基本的な部分を、まず押さえておきたい。

ブーバーは、世界の存在様式を表現する「根源的な言葉」として、「〈われ〉-〈なんじ〉」と「〈われ〉-〈それ〉」の二つがあると言う。
簡単に言えば、「〈われ〉-〈なんじ〉」とは「私とあなたが向き合っているような相互的な関係性」を言い、「〈われ〉-〈それ〉」とは「私が、一方的に対象に向かっている態度」とでも言えるだろう。そして、当然のことながらブーバーは、前者の「〈われ〉-〈なんじ〉」の重要性を説いている。だからこそ「対話の哲学」だと言われるのだ。

したがって、このレベルの解釈である「やはり人間は、対象との相互関係の中で生きないといけないよね。一方的に、相手を対象化して捉えるのは、極めて傲慢だし、相手を見誤ることにもなるし、同時に自身をも見誤る。だから、対話(的関係性)が重要なんだ」といった感じで、ブーバーの思想を、ほとんど「社会学」的に理解する人が少なくないはずだ。

無論、これとて間違いではないのだが、これはブーバーの思想を理解したと言うよりも、ブーバーの思想の中から、自分の理解できる部分だけを取り出して、それで満足しているだけだ、とも言えるだろう。

つまり、ブーバーの思想を、その「信仰」とは別の、一般的な「哲学」に還元して理解しているわけだが、はたしてそれで十分なのか。それで、ブーバーの思想を理解したことになるのか、ということなのだ。

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たしかにブーバーの「思想」は、「信仰哲学」なのか「宗教哲学」なのか「宗教的哲学」なのかが、わかりにくい。言い換えれば、「神の実在」を信じているのか否か、「神」を「神」として信じた上で、その存在を探求しているのか、それとも「神」という言葉で表して良いような「哲学的概念」を語っているだけなのか、が判りにくいのだ。

前述のとおり、ブーバーは「現実(の問題)」を重視する。と言うか「軽視しない」。何に比べて「軽視しない」のかと言えば、無論それは「神への信仰」と比べて、ということだ。
これが意味するのは、「神」とは「すべての現実」を含めて「神」であり、それへの「信仰」だということである。
したがって、ブーバーは「(比喩的に)信仰的な言葉で、現実を語っている哲学者」なのではない。その意味で、「宗教(についての)哲学」でもなければ「宗教的哲学」でもなく、まさに「信仰(を前提として、それを徹底的に思考する)哲学」者なのである。

ただ、解説者の佐藤が解説で紹介しているとおり、

『M・ブレンナーによれば、「(※ 若い頃の)ブーバーはハシディズムに向かうことによって、神秘的伝統を現代に復活させることを考えただけではなく、ユダヤ教を神秘主義や迷信とは無縁の「清潔な」合理的宗教として紹介しようとした一九世紀のユダヤ学に反抗した」』(P241、※は引用者補足)

ような「熱い信仰者」であり「神秘主義者(反近代主義者)」であった。
マイスター・エックハルトのように「神との合一」を目指すような、本気の神秘主義者だったのだが、前述の「青年とのすれちがい」体験による「回心」を経て、自分一人が満足するような神信仰は本物ではないという認識にいたり、その結果として「現実の問題」を「軽視しない」信仰者になったのである。

したがって、ブーバーは「信仰を捨てて、現実主義者になった」のではない。彼は、その「回心」後もずっと「ユダヤ教徒」だったのだが、しかし、その信仰は「教条主義」「形式主義」的なもの(キリスト教で言えば「カトリック的なもの」)ではなく、個人(我)として「神」と向き合って、「神」と語る中で「真の信仰」を探求してゆく、「信仰としての哲学」だったのである。

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だから、ブーバーの「哲学」を、「信仰」を考慮しなくても理解できる「思想」だと考えるのは、間違いであろう。
その意味で、ブーバーの思想に影響を受けたというキリスト教神学者や、ブーバーの思想に共感できたとする「無宗教あるいは無神論者の、一般読者」の多くは、ブーバーの思想を理解したのではなく、ブーバーの「〈われ〉-〈なんじ〉」重視という思想、ブーバーの思想のその部分だけを「利用(援用)できる」と考えたに過ぎないのである。
もしもそうではなく、ブーバーの思想自体を理解したと言うのであれば、ブーバーの「ユダヤ教(的神)信仰」を理解し、その信仰を共有しなければ、ブーバーの思想を十全に理解したなどと言えるものではないからである。

そして、だからこそ私たちは、『我と汝』を読んで「わかった」つもりになっても、そこに「すれちがい」のあることを理解しておかなければならない。
所詮は、ユダヤ教信仰すら共有できない「他人」なのであれば、私たちは、ブーバーの思想を十全に理解できるわけなどないという自覚を持って、〈なんじ〉たるブーハーと真摯に向き合わなければならない。そうでなければ、その人は、ブーバーを〈それ〉扱いにしているだけであり、その意味で、ブーバーの「〈われ〉-〈なんじ〉」の思想をまったく理解していない、ということにもなるのである。

「対話の哲学」などというと、私たちは誰しも、それをとてもわかりやすいもののように感じてしまう。「対話は大事だよね(一方的な決めつけはいけないよね)」というわけだが、ブーバーも書いているとおり「〈われ〉-〈なんじ〉」の関係とは、簡単なことではないし、まして継続し続けることのできるものでもない。
私たちは、常に〈なんじ〉に向き合う意識的努力をしていたとしても、次の瞬間には「汝は、こういう存在なのだな」と〈なんじ〉を〈それ〉化してしまう。そうせずにはいられない存在なのだ、私たちは。

だから、私たちが、ブーバーの思想として「〈われ〉-〈なんじ〉」論を理解したつもりになっていても、実際にはそれは、カントの定言命法の一つの定式化である「すべての理性的存在者は、自分や他人を単に手段として扱ってはならず、 つねに同時に目的自体として扱わねばならない」と同じようなものとして理解している、といった程度のことなのである。「他人を物扱いにする(物を見るように、一方的に対象化して見る)」のではなく「同じ人間として、今ここの相互関係において、お互いを見なければならない」という程度の理解である。

だが、ブーバーの思想には、すぐに〈それ〉化されてしまうような一般的な〈なんじ〉ではなく、絶対的な〈なんじ〉としての「神」が存在する。言い換えれば、ブーバーの「〈われ〉-〈なんじ〉」論とは「(規定し得ない)神」と向き合うように、すべての〈なんじ〉と向き合え、という思想だと言い換えても良いだろう。つまり、これは、わかりやすい思想でも、簡単に実行できる思想でもないのである。

こうした意味で、ブーバーの哲学は、「対話の哲学」だとか「関係性の哲学」だとか言っても、それはブーバー自身も使っている言葉だから間違いではないにしろ、しかし、その意味するものは、キリスト教徒や非信仰者や無神論者がイメージするような「わかりやすく簡単なもの」ではない、ということを理解しておかなければならない。
その上で、その先にあるブーバーの哲学に向き合ってこそ、私たちは初めて、ブーバーの哲学と向き合ったことになるのではないだろうか。ブーバーという「他者」、〈われ〉ではなく、無論、使い勝手の良い〈それ〉でもない、まさに〈なんじ〉としてのブーバーと向き合うのである。

これは「神」をめぐる、「〈われ〉-〈なんじ〉」の「対話的対決」でもあるのだ。

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初出:2021年10月7日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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