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竹下節子 『ジャンヌ・ダルク 超異端の聖女』 : ジャンヌという 少女への〈幻想〉

書評:竹下節子『ジャンヌ・ダルク 超異端の聖女』(講談社学術文庫)

本書は、「霊性」を重視するキリスト教神秘主義とフェミニズムの視点から、ジャンヌ・ダルクという歴史上の人物が意味するところを解説したものである。

本書の長所は、ジャンヌ・ダルクという特異な少女が、どのような時代背景の下に生まれ、そのために奇跡的活躍をし、やがて異端者として処刑され、数百年の後に名誉回復して「聖人」認定され復権したのかについて、とてもわかりやすく説明している点であろう。

一方、弱点としては、著者がジャンヌ・ダルクという「ドラマチックな人物」の数奇な運命に、感情的に思い入れすぎている点であろう。著者の解釈的評価は、いかにも主観的で過大なものとなってしまっているのだ。

著者は、キリスト教神秘主義の立場からキリスト教信仰をとらえているので、ローマ教皇を頂点とした絶対的位階性組織である「(地上の)教会」の硬直した政治性には極めて批判的であり、逆に、そうした霊性不在の権威主義から自由であったがために、異例の活躍をし、異端として裁かれ、やがて復権したヒロインたるジャンヌ・ダルクに、深い共感を寄せていて、その評価も、とうぜん極めて高いものとなっている。
しかし、著者の視点に欠けているのは「ヴァチカン的なキリスト教とジャンヌ・ダルク的なキリスト教の、いずれが真の信仰(真実)なのか?」という「キリスト教的」設問の外部に厳然と存在する「どちらも間違いなのではないか?」という問いへの配慮である。

つまり、ヴァチカン的な権威主義的キリスト教と比較するなら、たしかに、ジャンヌ・ダルク的な霊性重視のキリスト教の方が「信仰としては、まとも」であろうとは、無神論者である私とて、そう思う。だから、多くの非クリスチャン読者も、(判官贔屓も含めて)きっと同じように感じることだろう。

しかし、真の問題は「そもそもキリスト教自体が、真実なのか(虚妄ではないのか)」という問題であり、ジャンヌが「神のお告げ」によって、戦争をたたかい、やがて異端として処刑された悲劇や、後に復権して聖人として崇められたという毀誉褒貶は、そもそも本質的な意味や根拠のある出来事なのか、という問いなのである。

「キリスト教は、神の真実である」という前提があるからこそ、ジャンヌの神がかりにも、戦争にも、処刑にも、復権にも、それぞれに「深い意味」を見いだすことができるのだが、キリスト教が、人間の「願望充足的フィクション」でしかなかったとするならば、ジャンヌの人生とその毀誉褒貶もまたおのずと、ありもしない「正邪善悪」のうえで展開された「人間的悲喜劇」にすぎない、ということになるからである。

著者が、ジャンヌ・ダルクを「超異端」と呼ぶのは、「キリスト教的宇宙」においては「正統と異端」だけが存在しており、正統は異端を規定することによって、自らの輪郭を規定するもの(図柄が正統で、地が異端)だという正統的な考え方に対し、ジャンヌ・ダルクの存在は、その「霊性」において、そうした「二項対立性」の図式を超越し、状況に応じて正統にも異端になってしまう「外部」の存在、だと捉えられているからである。

しかし、このようにして、ジャンヌ・ダルクに象徴される存在を、常識的な「キリスト教的宇宙観=二項対立的世界観」から次元的に超越した価値として賞揚する著者には、ジャンヌ的な「外部」をも含めた「三次元的なキリスト教的宇宙観」にもまた、さらに広大な「外部」があることへの配慮が、まったく存在しない。

そうした「三次元的なキリスト教的宇宙観」の「外部」からみれば、正統教会的キリスト教とは「幻想を根拠とした人間的な組織」でしかないし、異端とは「教会と同じような世界観を持ちながら、その解釈の違いにおいて、排除された人々(負け組)」に過ぎないし、ジャンヌ・ダルク的な「超異端」とは「キリスト教村を二分する、正統と異端という二項からはずれた、例外的第三項」に過ぎないということにしかならない。
つまり、いずれにしろ「キリスト教村」内の「線引き」の問題であって、その外部に広がる広大な「現実世界」が見えていない、けちな「本家争い」に過ぎない、ということにしかならないのである。

そして、そうした視点からすれば、ジャンヌという少女は、土着の信仰とキリスト教信仰の入り交じった地方において、日本における「狐憑き」と同様の神がかりとなり、それがたまたま時代的な要請とマッチしたがために、数奇な運命をたどり「時代をも超えるヒロイン」にまで上り詰めてしまった「すこし頭のおかしな少女」でしかなかった、ということにもなるのである。

無論、どんなに活躍した歴史上の人物でも、生まれた時期や環境が違っていたなら、同じような活躍はできなかっただろう。だから、ジャンヌの活躍もまた、偶然の要素が大きいとは言え、それはそれなりに高く評価すべきものではある。
しかし、彼女がこのような「時代をも超えるヒロイン」になったのは、「神の意志」があったればこそだと決めつける証拠は、どこにもない。
「神が存在する」と信じている人たちなら、そのようにも考えようが、そんな「信仰」を持たない者は、ジャンヌの「数奇な運命」もまた、歴史的な「偶然の産物」だと考えるのは、ごく当たり前のことで、これは評価の矮小化でもなんでもない、単なる「醒めた評価」でしかないのである。

初出:2019年6月28日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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