カール・テオドア・ドライヤー監督 『裁かるるジャンヌ』 : 「神と戦う」映画作家
映画評:カール・テオドア・ドライヤー監督『裁かるるジャンヌ』(1928年・フランス映画)
このサイレント映画がたいへん有名な理由は、まず、カール・テオドア・ドライヤー監督が「ヌーヴェル・ヴァーグ」の映画作家たちに大きな影響を与えて絶賛された人だからであり、その作品の中でも特に本作が有名なのは、ジャン=リュック・ゴダールがその初期作品『女と男のいる舗道』(1962年)の中で描いた、アンナ・カリーナの演じる主人公ナナが映画館で本作を鑑賞して、目に涙をいっぱい溜め、落涙するシーンのアップが、あまりにも美しく有名だからであろう。
少なくとも今となっては、本作を見ていて、『女と男のいる舗道』を見ていない者など、日本にはいないのではないだろうか。かく言う私も、ゴダールへの興味から、今回この『裁かるるジャンヌ』を鑑賞したのである。
本作は、フランスにおいて「救国の聖女」として知られる、あの、あまりにも有名な「ジャンヌ・ダルク」の、その最期を描いた作品である。
英仏による「百年戦争」のさなか、神がかりの活躍を見せた「オルレアンの少女」も、ついにイギリス軍に捕虜として捕えられ、イギリス側に立つ「異端審問官」による、宗教裁判にかけられた。
もちろん、イギリスもフランスもカトリック国ではあったけれども、そのカトリック国同士が戦争をして殺し合いをしていたということであり、イギリス側にすればジャンヌは、フランスの戦意を鼓舞する邪魔かつ邪悪な存在であったからこそ、ただ殺すだけではなく、彼女自身がそう主張し、フランス国民もそう信じたような「神から遣わされた救国の聖女」などではなく、「悪魔に惑わされた女」容疑で「異端裁判」にかけたのだ。
そして、彼女を、裁判の場において、火刑をチラつかせつつ論破することで、彼女自身に「自分は間違っていた」とする供述調書にサインさせようとしたのである。その証拠と、挫折したジャンヌの姿を衆目に晒すことで、フランス国民の戦意を挫こうとしたのだ。
また、この宗教裁判おいて、フランス側からの、当然の弁護要請がなされなかったのは、フランス側でも、彼女の存在を快く思わなかった教会勢力があったからだとも言われている。
教会としては、教会の審査による正式な保証を受けないまま「聖女」扱いにされているジャンヌは、教会の権威においては、決して好ましい存在ではなかったからだ。
そんなわけで、本作に描かれるのは、その「異端裁判からジャンヌの処刑まで」であり、内容的には「異端審問官の陰湿老獪な質問攻めと、それに苦しみながら応えるジャンヌ」という裁判の様子が、中心に据えられている。
こうした作品(裁判映画)が作られ得たのは、いったんは、ジャンヌを「異端」認定し「魔女」扱いにした殺した「カトリック教会」が、その後、この判断を翻しただけではなく、真逆にも、彼女が「神の奇蹟を起こした聖女」だと正式に認定した(列聖した)ため、かつての裁判記録が表に出てきて、裁判の中身が明らかになったからである。
言い換えれば、こうした記録は、本来はバチカン教皇庁の奥深くに秘蔵されたままとなり、一般の目に触れることもないのだが、「百年戦争」がフランス側の勝利に終わったという結果を受けて、教皇庁自身が、ジャンヌ・ダルク裁判から25年後に、「方針転換」したので、その方針転換こそが正しかったのだということを示すために、いまさらのように、裁判資料を出してきた、ということである(当然、誤った裁判を支持した、その当時のローマ法王はすでに死んでおり、責任を取ることもない)。
さて、本作の作られたきっかけは、まず、フランスの映画会社から「フランスの歴史上の人物である有名女性を描いた作品を撮って欲しい」という注文が、デンマーク人映画作家であるドライヤーにもたらされたことに始まる。
そして「マリー・アントワネット、カトリーヌ・ド・メディシス、ジャンヌ・ダルクの3つの企画案」の中から、最終的には「くじ引き」で、ジャンヌが撮られることになった。
そこでドライヤーは、ありきたりな活劇ではなく、異端審問官とジャンヌのやり取りを忠実に記録した「裁判記録」をもとに、歴史に忠実なかたちで「ジャンヌ・ダルク裁判」を映画化することにしたのである。
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さて、この映画だが、私は本作を見る以前に、まったく同じ題材をあつかった、ロベール・ブレッソン監督の『ジャンヌ・ダルク裁判』(1962年)を見ており、そのため、どうしても両作品を比較して見てしまう。
で、そのような観点からすると、ブレッソン監督の方は、周知のとおり「ストイック(禁欲的)」な撮り方であり、ドライヤー監督の本作は、ブレッソンとは好対照に「これでもか」というくらいの「攻め」の映画だったと、そう評することができるだろう。
私個人の「好み」としては、ブレッソン監督のストイックな撮り方が好きなので、同監督の『ジャンヌ・ダルク裁判』のレビューでは、同作を次のように評している。
このように「好意的」に評したのだ。
それに対して、ドライヤー監督による本作『裁かるるジャンヌ』は、あまりにも有名な、その「顔のクローズアップショットの多用」で、ジャンヌのアップは無論のこと、異端審問官である神学者や衛兵であるイギリス兵などの顔までアップにし、そのいささか「わかりやすい表情の演技」において、見る者の感情に「これでもか」と訴えてくるのである。
本作を見れば、『女と男のいる舗道』の中で主人公ナナが、ジャンヌにすっかり感情移入して泣いているのも、なるほどと納得できるはずだ。
そして、それが異端審問官のアップ(哀れなジャンヌを見下した、ニヤニヤ笑い)だと、憎たらしくてしょうがないくらいなのだ。
本作は「サイレント映画」であり、「字幕」として挟み込まれるセリフはごく限られている。つまり、「裁判記録」に忠実に作ったと言っても、当然のことながらそれは「一字一句」同じという意味ではなく、そうしたやり取りの本質を汲み取り、圧縮してセリフにしたものなのだ。
また、それでも限界があると考えたからこそ、ドライヤー監督は「セリフ」のみに頼らない「顔の演技」で、登場人物たちの心情を「雄弁に」語らせようとした。
上記のとおり、この映画では、過剰なまでに「顔アップ」が多用されているわけだが、これは、当時の映画作品として「実験的なもの」だったという点は、ぜひとも踏まえておかなければならない。
言い換えれば、今のように容易に「顔のアップ」が撮れるという技術的な担保のある時代に、それを多用した、というのではないのだ。「顔アップ」が簡単ではない(手間だった)から、それ(アップ)がほとんど無かった時代に、「実験的」に「顔のアップを多用した」演出を行った、ということなのである。
だから本作での「顔アップ」は、そこだけわざわざ(小さなものを撮る際に使う)「接写レンズ」を使って撮影をおこなっている。そのため、アップの後方(背景)は、室内であろうと屋外であろうと、すべて同じように真っ白なのだ。要は、顔を接写で写すと、背景は完全にぼやけてしまう。今のように、カメラのズーム機能によって、お手軽にアップが撮れるような時代ではなかったのだ。
アップの少なかった時代に、それを逆手にとってアップを多用し、そのことで、セリフの省略という弱点を、(セリフの圧縮と同時に)アップで見せる顔の演技で、「雄弁」に語らせた。
だからこそ、「これでもか」という感じに迫ってくる、濃厚な作品に仕上がっており、その点で、ブレッソン監督の抑えた演出とは、「好対照」な作品に仕上がっているのだ。
しかしながら、ここで勘違いしてはいけないのは、作品の制作年代としては、当然のことながら、本作『裁かるるジャンヌ』の方が、ブレッソン監督の『ジャンヌ・ダルク裁判』より、ずっと古いという点だ。両作の間には、じつに30年以上の開きがあるのである。
つまり、ブレッソン監督は、ドライヤー監督の『裁かるるジャンヌ』を見ており、その上で、あえて同じ素材を扱って、正反対の撮り方をして、「対抗」してみせたのだ。だからこその「好対照」なのである。
つまり、ブレッソンは、ドライヤーの撮った『裁かるるジャンヌ』は、「裁判記録をもとにして、ジャンヌ・ダルクの真実を描いた」と言いながら、実際には「大衆向けのお涙ちょうだい映画」を撮ったにすぎないし、「あんなものは、ジャンヌ・ダルクの真実ではない」と、そう考えて、自分の映画では「泣かない(動じない)ジャンヌ」を描いてみせたのである。「ジャンヌの信仰とは、斯様に堅固なものだったのだ」と。
しかし、私から見ると、これは所詮、敬虔な「カトリック教徒」であるブレッソンが、「庶民感覚」のあるドライヤーによるジャンヌ描写を、「神聖冒瀆」のように感じて、反発したにすぎない、と感じられる。
たしかに、ドライヤー監督の『裁かるるジャンヌ』は、お芝居が大仰で、「宗教映画」としては「品格に欠ける」という印象が無いではない。
しかしだ、ドライヤー監督は、そもそも、その「信仰的な欺瞞」を批判する意図を持ってこの映画を撮ったのだから、ジャンヌの信仰を称揚して、彼女を有罪にしたカトリック教会を批判しながらも、しかし「信仰そのもの」を否定する気はなく、「誤った信仰」を批判しただけのブレッソン監督とでは、「信仰」に対する描き方が、その本質において違っていたのは、当然のことなのだ。
私は前記の、ブレッソン作品『ジャンヌ・ダルク裁判』のレビューで、
と結論して、ブレッソンの「ストイックな信仰」の方を擁護した。
信仰とは「自堕落に自己陶酔的なものであってはならない」という考え方から、私はここでブレッソンを擁護したわけだが、しかし、言うまでもなく私自身は「無神論者」であり「無信仰者」であり「宗教批判者」であり、キリスト教信仰をも批判し、徹底的に攻撃してもいる人間である。
だから、『ジャンヌ・ダルク裁判』のレビューでの、「ブレッソンの信仰」擁護は、あくまでも「信仰の中では、よりマシ」だという議論でしかなく、このブレッソン擁護は、「そんなキリスト教信仰もまた、そもそも幻想にすぎないとしても」という「条件付き」のものだったのだ。
したがって、ドライヤーとブレッソンのどちらが、より「ジャンヌ・ダルクの現実」を描いているかといえば、それは無論、ドライヤーの方なのである。
ドライヤーの演出には、批判的な意図による誇張があるとはいえ、その誇張は「現実」をわかりやすく提示するための「演出」であって、現実を「糊塗する」ためのものではない。
現実には、ジャンヌ・ダルクは「幻覚を見て、自分を神の申し子だと思い込んだ、政治的に利用された、頭のおかしい少女」でしかないし、彼女を異端審問に付した「カトリックの神学者」である異端審問官たちは、所詮「宗教狂いの人殺し」にすぎないのである。
ドライヤーは、そうした、信仰に狂った「彼女」や「彼ら」の本質を、身も蓋もなく「アップ」にして見せつけたからこそ、「これでもか」というくらいに濃厚な、「攻め」の映画になったのである。
そして、それに比べれば、ブレッソンの『ジャンヌ・ダルク裁判』は、そんな「無神論者的なドライヤー作品」に対する「敬虔なカトリック信者」として示した、「護教的な怒り」であり「護教的な抵抗」でしかなかった。
ブレッソンが自作でやったのは、「カトリック信仰」そのものを延命させるために、「カトリック信仰の中に、正しい信仰者と誤った信仰者の2種類をでっち上げ」た上で、「トカゲの尻尾切り」をしたにすぎないのである。
だが、神が実在しているのなら、そんなケチな「差別」などせずに、みんな丸ごと救ってやればよかっただけの話なのだ。
そんなわけで、たしかに「映画としては」、ブレッソン作品の方が「品格を感じさせるもの」になってはいるだろう。
しかしそれは、カトリック教会や正教会における「荘厳なミサ」のように、「いもしない神を、いるかのように錯覚させるための、大掛かりな演出的虚偽」と同様のものでしかない、とも言えよう。
現実とは、ドライヤーが描いたように「うんざりさせられるもの」でしかなく、その意味で、ドライヤーは、極めて正直な「リアリズム」で、ジャンヌ・ダルク裁判を描いてみせたのである。
本作『裁かるるジャンヌ』における、ルネ・ファルコネッティ演ずるところのジャンヌが、どこか「シャブ中(覚醒剤中毒者)」を思わせるという(多くの人が持つであろう)印象は、決して間違いではなく、むしろ、ドライヤーその人にも増して、この映画の本質を捉えた得たためのものなのだ。
(2024年8月9日)
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