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佐藤彰一 『歴史探究のヨーロッパ 修道制を駆逐する 啓蒙主義』 : 〈信仰と知性のアリーナ〉と化した、 修道院の悲劇

書評:佐藤彰一『歴史探究のヨーロッパ 修道制を駆逐する啓蒙主義』(中公新書)

本書は、同著者による『禁欲のヨーロッパ』『贖罪のヨーロッパ』『剣と清貧のヨーロッパ』『宣教のヨーロッパ』につづく、「修道院のヨーロッパ」5部作の完結編である。
本書では主に、17世紀以降の、人文主義の台頭が「修道院における歴史探究」を活性化させていった様子と、その後の「歴史探究」の衰退というという流れを追っている。

このシリーズでは、ひとつのテーマを(哲学的に)掘り下げるのではなく、その時代の修道院の傾向的特徴をテーマとし、それを時間軸にそって総体的に紹介することを目的としている。もちろん、単なる事実の羅列ではなく、その変遷の必然性への考察はなされており、十分に興味深いものとなっていて、基礎的な歴史理解のための資料となり得ている。

私が、本書の中でいちばん興味深く思ったのは、修道院における「人文主義」の台頭とその没落という、「知の悲劇」の部分である。

近年、キリスト教関係の学者が「中世は暗黒ではなかった」というようなことを書いているのを、よく見かける。これはたぶん、中世ヨーロッパというと、キリスト教が政治権力と結びついて「人間らしい自由を抑圧していた」という暗いイメージが強いからだろう。
そうした禍々しい「闇」を、「ルネッサンス(文芸復興)」の「光」が照らし祓った、人々はやっと「教会」による信仰的断罪を怖れることなく「近代的な人間中心の価値観」を追及することができるようになった、人間は「宗教の桎梏」からようやく解放されて「自由」を勝ち得たのだ。一一というのが、「ルネッサンス」を賛美する場合の、一般的な理解なのではないだろうか。

しかし、こういう言われ方が、キリスト教関係者にとって不本意なのは、言うまでもない。「いやいや、中世は暗黒などではなかったですよ。中世は、近代を準備した時代であり、中世あってこその近代なのです。例えば、今で言う科学も哲学も、神学の中から生まれてきたものなのです。そこを勘違いしてはいけない。当然のことながら、中世にも、影もあれば光もあったのです」というようなことだろう。そのようなわけで、彼らが強調するのは、中世の、特にキリスト教関係部分での「光」の側面ということになる。

もちろん、こうした意見も間違いではないのだけれど、だからと言って「目新しい意見や解釈」が正しいという保証など、どこにもない。特に政治や宗教が絡んでいるところでは、「ものは言いよう」で、自分たちの「党派」に都合のよい理屈をこね上げるのを仕事としている「党派イデオローグ」のような「ひも付きの学者」もいるから、そこは用心してかからなければならない。
実際、キリスト教関連の学者には、当然のことながら、キリスト教徒(信者)もいて、そういう信徒学者たちは(本音はどうあれ)「神は実在する」「イエスは復活した」「キリストは再臨する」とかいったことを「信じている」と、「教会」においては「告白」している人たちなのだ。当然「学問よりも信仰が大事」という学者もいるのだから、「神の実在」を信じていない読者は、そうした学者の書くものを、眉に唾して読むべきなのである。

ところが、そうした信徒学者は、自著の「著者紹介」で、自身がクリスチャンだと明示することが、めったにない。
「学問の世界」では、自身の「信仰」に左右されない、「学者の良心」に基づく研究・発表を行うという「タテマエ」になっているから、わざわざ自身の信仰的帰属を明示しないのが「習慣」となっているのかもしれないが、人というのは「匿名」になると、しばしば人が変わるように、自身のアイデンティティたる「信仰」を明示している場合とそうではない場合とでは、おのずと態度も変わりがち。つまり、「正体」がバレていなければ、自身の信仰的「党派」に都合の良いことを、かなり手前味噌に語ったりもしがちなのである。
なにしろ、信仰者も「人間」なのだから、それはまあ仕方のないところでもあるのだけれど、少なくとも読者の方は、そのあたりに注意を払い、特に政治や宗教がらみの本については、著者の言い分を「鵜呑みにしない慎重さ」が重要なのである。

で、私は、ここで本書の著者が、そのような信徒学者だと言いたいのではない。
信徒なのかどうなのか、書かれていないのでわからないし、私が読んだかぎりでは、著者はクリスチャンではないと思うので、仮にクリスチャンであったとしても、十分に研究対象への客観性の担保ができているのだから、問題はないと評価している。
つまり、ここで私が言いたいのは「現代ですら、学者だからといって公正中立だとは限らないのだから、教会の絶対権威が傾き始めた時期とは言え、近代にさしかかった時代には、まだまだ学者の宗教的非党派性は担保されてなどいなかった」ということなのである。本書が扱っているのは、そういう時代だということなのだ。

前述のとおり「中世にも、光はあった」。これは当然である。同時に「闇」もあったし、そっちの方が問題視されるというのも当然である。だからこそ「ルネッサンスの光」が長らく強調されてきたのであり、それは決して故なきことではなかったのだ。
そして本書で主に扱われる「人文主義」とは、まさに「中世の闇」への反発として出てきたものであり、だからこそ「人文主義」は、ルネッサンスの先駆ともなったのだ。

「人文主義者」あるいは、渡辺一夫に即して言えば「ユマニスト(ヒューマニスト)」が、キリスト教以前の「非キリスト教文学」を重視したのは、中世の「スコラ学(スコラ神学)」が、あまりにも「人間の現実」を置去りにして、「信仰的思弁」に偏したからである。

キリスト教とは「唯一神信仰」であり、人は「神のために」生きるのが、正しいとされる。神に「仕える」のである。
したがって、信仰によって「人が救われる」のは、「正しい信仰」の「結果」ではあっても「目的」ではない。つまり、自分が「救われるために」信仰をし神を信じるという態度は、厳密に言えば「信仰」ではなく、「信仰の道具化(神の道具化)」でしかない。
正しいキリスト教徒は「神のために」生きなければならないのだから、それは「神中心主義」であって、「人間中心主義」ではない。「人間中心主義」であってはならない。「人間第一」という考え方は、ある意味では、キリスト教が禁じた「偶像崇拝」の一種だとさえ言い得るものだからだ。

したがって、キリスト教信仰の世界においては、「ヒューマニズム(人間主義)」は、決して当たり前ではない。人間は「神」への信仰を第一とすべきなのだから、「人間」のために「神」を脇に置くとか後回しにするなどということは間違いなのだ。
たとえ「人間」を脇に置き、後回しにしてでも、人は「神のため」に生きなければならない。それが「キリスト教信仰」なのだ。
そして、このような考え方が根底にあるからこそ、「十字軍、異端審問、魔女狩り」などの歴史に見られる「信仰のためならば、異教徒や異端者を殲滅することも正しい」などという理屈も出てき得たのであり、そしてそうした理屈は、今もなお生き続けているのである。

キリスト教信者がよく口にする言葉で、私たち非信仰者にはなかなか呑み込みがたいものとして「神における自由」あるいは「信仰による自由」というのがある。要は「神を信じ、信仰を持っているからこそ、キリスト教信者は、真に自由なのだ」という主張である。
私たち「非信仰者」からすれば、信仰を持ち、それに本気で取り組むと、あれこれの「戒律」があって「不自由」なのではないかと思える。
例えば、信仰も持っていなければ、神社であろうがお寺であろうが山であろうが川であろうが、ありがたそうなものは何でも「無責任」に拝んで、願い事をしたりすることができるから「自由」きわまりないのだが、特定の宗教の信者になると、その教義や戒律に縛られて、非信仰者のようには「好き勝手」ができなくなる。だから「不自由だ」と思うのだが、これはキリスト教徒に言わせると「逆」だということになるのだ。

キリスト教徒によると、つまり「キリスト教の教義」によれば、人間とは生まれながらにして「原罪」を抱えており、それゆえの「苦しみ(アダムとエバが課せられた、生きるための苦しみや労役)」に縛られている。
つまらない世俗的な地位や名声への欲望に縛られたり、お金(キリスト教で言うところの「マモンの神」。つまり貪欲)に縛られたりして、自ら窮屈でつまらない生き方に縛られており、これが即ち「不自由」な生であり、人はそれを生きるしかないのだ。
だが、「神」信仰を持ち、「神こそがすべて」だということを知れば、何ものにも縛られることが無くなるので、根源的な「自由」が得られる。一一と、こういう理屈なのである。

中には、説得されそうになった人もいるかも知れない。だが、非信仰者の大半は、このキリスト教の正統教義による「自由」論を、倒錯的な「屁理屈」だとしか思わないだろう。
事ほど左様に、いまでも「信仰者と非信仰者との、現実認識のギャップ」は小さくはないのである。そして、繰り返しになるが、まして近代初期においておや、ということなのだ。

前述のとおり、中世ヨーロッパは「神中心主義」の世界だった。だから「人文主義者」が、「スコラ学」的な「人間不在の学問」に疑義を呈したとしても、それは「神より人間」ということではなく、「神は人間を作り、人間を愛されたもうたのだから、人間を大切にしなければならない(人間不在ではいけない)」という理屈であった。
なにしろ「人文主義者」もまたキリスト教徒であったのだから、こういうふうに考えるのは当然だし、まだこの頃には「異端」排斥がなされていたのであるから、「神より人間」などとは、口が裂けても公言できなかったのである。

しかし、印刷術の発明にともなう「書籍」の流通にともなって、それまでは「教会」に独占されていた「聖書」も、広く一般信者にまで届きうるものとなり、「知識の独占」が不可能になった。つまり、「知識的権威を嵩に着た、言いたい放題」が不可能になってきたからこそ、「人文主義者」たちは「信仰もまた、歴史的事実に即したものでなければならない」と主張した。なにしろ、神は万能の絶対正義なのだから、「歴史的事実」を研究したら「神に不都合な事実が出てきた」などということは「あり得ない」。むしろ「歴史的事実に即した研究」によって得られる「知識」は、必然的に「神の正義と栄光を裏づけるものである」はずなのだ。だから、内向きな「抽象的思弁」に淫するのではなく、「神の勝利の歴史」を研究しようではないか、というのが「人文主義者」の理屈だったのである。

しかしまた、そこまで手放しに「神を信じられない」キリスト教徒は、「歴史的事実の探求」とやらは、何かと「まずい」と考えた。
「キリスト教の歴史」とは、すこし勉強した人なら知ってのとおり、まさに「血に塗れた歴史」だったのだから、そうしたものが山ほど埋められたままになっている歴史を掘りかえすのは「まずい」と、そう考えた「キリスト教の権力者」や、これまでどおりの「教会の権威」を守りたいという「保守派」がいたのも、当然のことであった。
そして、こうした「反・人文主義」の「保守派」が、「歴史探究」を始めた「人文学者」たる修道士たちに向けた攻撃とは「修道士とは、信仰のために生きる者のことで、学問的欲望に淫する者のことではない」といった理屈だった。
つまり「祈りと労働」の時間を削ってまで「学問」をやるような修道士は、根本的なところで信仰を誤っているのだという批判を、「神中心主義・信仰中心主義者」は唱えだした。「本ばかり読んでないで、他にやるべきことがあるだろう。例えば、祈ることであり、弱者に手を差し伸べる活動だ」というのが、「信仰を、非学問的なものに止めておきたい保守派」の、耳ざわりのいい「人文主義者批判」の言葉となったのである。

さらには、「人文主義者」的な「古典主義」が「ウザい」と感じる、「未来と進歩発展」に惹かれた新しい人たち、つまり「啓蒙主義者」「進歩主義者」も台頭してきた。デカルトやモンテスキューなどに代表される「近代的」な人たちであり、彼らからすれば、「人文主義」という「歴史的事実(過去)」にこだわる態度は、きわめて「不自由」かつ「後ろ向き」なものに感じられたのである。

このようにして「人文主義者」は、「教会の守旧派」と「啓蒙主義者」という真逆の党派から、いわば挟み撃ちにされることとなり、それが「学問をする修道院」というものを、時代遅れにし、その象徴であるイエズス会の解体にもつながっていった。もはや、学問は修道院の中だけで、内向きでやるものではなく、広く開かれたものとして行われるものと考えられるようになっていったのである。

この結果自体は、決して間違いではないだろう。「キリスト教会が、知を独占利用する」などということが、「フェア(公正)」なことだとは、少なくとも今の我々には考えることはできない。
しかし、キリスト教会から「人文主義的学知」が放擲された、という事実を忘れてはいけない。「信仰者は信仰に励んであればいいのだ」というのは、いちおうの「正論」には見えようが、しかし、そうした考え方がもたらす信仰とは、要は「妄信」であり、「妄信を求める信仰」ということになってしまうからである。

「さすがに今のキリスト教会は、そんなことないだろう」と考える人も、日本では少なくないだろう。だが、現実はそうではない。
カトリック教会には今でも「悪魔祓い師(祓魔師)」が、正式な役職として生きている。ということは「悪魔は実在する」というのが、カトリックの立場なのだ。悪魔祓い師は、精神的な病いを癒すための「方便」として「悪魔払いごっこ」をやっているのではない。そうではなく、逆に「悪魔」が人に入って「精神的な病い」をひき起す(場合がある)から、それを「祓う」という考えによって、存在しているのである。
では、プロテスタントはどうかと言えば、政治方面で何かと話題になっている、アメリカの「福音派」というのは、プロテスタントが中心であり、その信仰態度は、下手をするとカトリック以上に「前近代的」で、だからこそ「聖書に書いてあることは、一字一句そのまま信じる」といった「聖書原理主義者」が、「地球は6000年前にできた」とか「人間は、単細胞動物から猿を経て人間に進化したのではなない。人間は、最初から人間として、神に作られたのだ」といったことを「歴史的事実」だと本気で主張し、時に裁判で争ったりもするのである。

事ほど左様に「宗教とは、危険なもの」だということを、私たちは決して忘れてはならない。
もちろん、キリスト教徒にも立派な人は大勢いるし、真っ当な知恵と人間的良識を備えた人も大勢いる。
しかしだ、「人文学者」たちが「守旧派」たちの「修道士は、祈ることが本業で、学問にかまけてなどいてはいけない」といった理屈によって、苦境に追いやられたという歴史を、私たちは忘れてはならないのだ。
信仰は、いつの時代にも容易に「知的先祖返り」を起こすものだし、それでいて「われわれの態度こそが、真の信仰である」などと「信仰の純粋さ」を装って、「権威付けられた妄信」を振りかざすことも珍しくないのだという「歴史的事実」を、深く銘記すべきなのである。

「敬虔な祈りに満たされた修道院」と言えば、多くの人はその「静かな荘厳さ」に好印象を持つだろうが、それは容易に「理性の放棄」を正当化するものにもなりうるのだということを、私たちは忘れるべきではない。

世俗の言葉でいえば、「信仰とは、一種のイデオロギー」であり、イデオロギーは良くも悪くも、多くの人たちを「狂気」に追いやって、多くの人々を虐殺した「悪魔」にもなりうるのである。もちろん、「日本教」とて、その例外ではなかったのだから。

初出:2019年12月19日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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