ウンベルト・エーコ 『薔薇の名前』 : 〈信仰と理性〉: 専門知識の有無でなく
書評:ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』(東京創元社)
本書『薔薇の名前』は、刊行当時に読んで、とても楽しめた作品でした。
今回このレビューを書くことになったのは、『薔薇の名前』のなかで言及される、アリストテレスの『詩学』を(『薔薇の名前』を読んでから、約30年を経て)読み、そちらのレビューを書こうと思ったのがきっかけでした。
その下準備として、こちらの「Guraddosuton ha-Hatol」(※ 現在は「pini
」)氏の懇切なレビュー(「必要な予備知識の概略です」)を再読したところ、『薔薇の名前』とキリスト教に関する予備知識の関係について、すこし解説しておいたほうが良いように思ったのです。
『薔薇の名前』を読んだ当時、私にはキリスト教についての知識は皆無でした。当時の私は、一介のミステリファンであり、その文脈で『薔薇の名前』を読んだのです。ですから、キリスト教に関する専門知識的な部分は、いわば「雰囲気」だけで読んだのですが、それでも十分楽しめました。
レビュアー「風よ雲よ」氏も書かれていますが、『薔薇の名前』を中世ヨーロッパ版『黒死館殺人事件』だと思えば、キリスト教に関する専門知識の部分が正確には理解できなくても、かえって想像を膨らませる要素(『黒死館殺人事件』の名探偵・法水驎太郎のペダントリと同様の要素)として十分に機能していたからだと思います。(ちなみに、P・K・ディックの「ヴァリス」三部作も、同様の楽しみ方をしました)
その後、もともと「宗教=宗教心」というものの不思議に興味があって、独学でキリスト教を研究するようになり、それなりに知識を蓄積してきて、今回「Guraddosuton ha-Hatol」氏のご文章を再読させていただきましたところ、たいへんわかりやすくて便利な解説だと思った反面、氏の解説文自体、キリスト教の歴史について、ある程度の知識が無くては、なにがなにやら分からないのではないか、という危惧も抱きました。それくらい、日本においては、キリスト教に興味のある人と、そうでない人の溝は大きいということなのだと思います。
そうした意味では、東京創元社の翻訳版『薔薇の名前』に、そうした点での詳しい註釈が付けられていなかったというのは、あるいは賢明な選択だったかも知れません。
なぜなら、そうした詳しい註釈が付いていようが付いていまいが、そうした部分については、分かる人は分かるし、分からない人は分からないであろうからですし、逆にほとんどわからない難解な註がたくさん付いていたら、それに怖れをなして『薔薇の名前』という一級のエンターティンメント小説を敬遠した読者も、少なからず出たかも知れないからです。
ですから、『薔薇の名前』は、二度楽しめる作品だと思います。
キリスト教の知識が無くても、ミステリ小説として楽しめますし、知識があればあったで、エーコの仕掛けたキリスト教そのものに対する問題提起といった側面を楽しむことが出来るからです。
ただし、本書は、ミステリファンなら誰でも楽しめる、とまでは言えないでしょう。
と言うのも、前記の小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』は極めて特異なミステリ作品ですから、これを読了できないミステリファンというのも結構いるからです。
読みにくさという点では、『薔薇の名前』は『黒死館殺人事件』ほどではないので、その点は安心してもらってかまわないのですが、『黒死館殺人事件』はもとより中井英夫の『虚無への供物』や夢野久作の『ドグラ・マグラ』、竹本健治の『匣の中の失楽』といった作品の面白さが分からないというタイプの読者には、『薔薇の名前』も楽しめない公算が高いように思います。
映画版『薔薇の名前』のパンフレットに中井英夫が寄稿していましたが、『薔薇の名前』という作品と、『黒死館殺人事件』『虚無への供物』『ドグラ・マグラ』『匣の中の失楽』といった日本の特異なミステリ作品との間には、たしかに、ある種の類縁性が認められると思います。
私の見るところ、それは「知と超越性幻想」と言っても良いかと思います。
「ミステリ=推理小説」というのは「科学的合理主義に基づく知」によって「謎(ミステリー)=理解(知解)できない状態」を解き明かす(解体する)小説だと言えますが、一方『黒死館殺人事件』『虚無への供物』『ドグラ・マグラ』『匣の中の失楽』といった作品は、「科学的合理主義」を超えた部分での「謎」へ踏み込んでいく作品だとも言えます(だからこそ、これらの推理小説は「アンチミステリ」と呼ばれたりもします)。そして、そうした性格は「キリスト教信仰と近代的知の相剋」を描く『薔薇の名前』も同じなのです。
つまり、これらの作品には「近代的知とそれを超えた部分の相剋」が描かれています。
ですから、そうした「哲学的問い」に興味がある読者には、無類に楽しい作品ということになる反面、哲学的なものを「面倒くさいだけ」と感じる読者には、これらの作品が楽しめないということにもなる。したがって、これらの作品は「読者を選ぶ」作品にならざるを得ないんですね。
このようなわけで、『薔薇の名前』という作品を読む上で、私たちが注目すべきは「人間は矛盾に満ちた存在である」ということでしょう。
ある面では、科学的合理的に物事を見、判断して生きているのに、その反面、宗教的な感情を捨てきれないで、それに依存してもいます。そして、こうした「矛盾」が『薔薇の名前』では「連続殺人」というかたちで顕在化してしまう。
「理性的なものと非理性的なもの」が、上手く共存できればそれに越したことはないのだけれども、真面目に考えれば考えるほど、それらは矛盾葛藤を生むものとならざるを得ません。そこを無視することもまた、非理性的な態度だからです。
こうした難問を、私たちの誰もが抱えています。
そして、こうした「矛盾葛藤」を描いたのが『薔薇の名前』という作品だと言えるでしょう。
映画版を観た人は、思い出していただきたいのですが、本編の主人公であるバスカヴィルのウイリアムは「修道士にして名探偵」という、「二律背反」を最も先鋭化した存在です。だから、彼がこの修道院連続殺人事件の謎を解いた後の表情は、決して晴れやかなものではあり得ません。
なぜなら、彼のそんな合理的知性は、いやでも自身の信仰の合理性を問い、やがて解体せずにはおかないものであることを、彼自身が自覚しているからです。
言い変えれば、修道院連続殺人事件の謎を、合理的に解こうとはせず、それもこれも「神の意志(思し召し)」ということで済ませられれば、彼の信仰は揺らぐことはありませんでした。しかし、彼には、そんなことは出来なかった。彼の近代的知性が、それを許さなかったのです。彼のモデルである、オッカムのウィリアムがそうであったように。
したがって『薔薇の名前』という小説は、単にキリスト教のお話でも、単なる推理小説でもありません。この「二律背反」する性格のものの接触面で、激しく暗い火花を散らす、極めて普遍的で人間的な問題を提起した作品だと言えるのです。
だから、誰にでも読めるし、読みたくない人には読めない作品になっている、とも言えるのではないでしょうか。
初出:2019年6月3日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除)
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