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映画 『バビ・ヤール』 : セルゲイ・ロズニツァが呼び戻した 〈歴史の闇〉

映画評:セルゲイ・ロズニツァ監督『バビ・ヤール』


私が今、最も「面白い」と思い、新作への期待に「ワクワクさせられる」のが、ウクライナ人映画監督セルゲイ・ロズニツァドキュメンタリー映画だ。

ロズニツァには、現在のウクライナ戦争によって日本でもその名が知られるようになったウクライナ東部ドンバス地方の、戦前の様子に取材した、劇映画である『ドンバス』もあるけれども、私が面白いと思うのは、やはりドキュメンタリー映画の方だ。

ロズニツァのドキュメンタリー映画には、独特の作法があって、それは、基本的に映画のための撮影をせず、既存の「記録映像」を編集してフィルムを作るということ。さらに、状況を小さく切り取ってテーマを語るのではなく、全体の流れを見せ、説明的なナレーションを排する、といったことだ。

つまり、観客に対し「ひととおり見せてあげるから、あとはあなたがこの事実をどう受け止めるかだけだ」という姿勢なのである。
言い換えれば、ロズニツァのドキュメンタリーには、監督自身の直截的なメッセージや思想は語られておらず、彼の言いたいこととは、ただひとつ「現実を直視せよ。そして、あなたの頭に刻み込んだのち、その現実の意味を考えよ」ということなのである。

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無論、ロズニツァが直截的なメッセージや思想を語らないのは、直接語らなくても、この現実を見たら、誰だって「何をどう考えなければならないか」は明白であり、分かりきった話だ、という確信があるからだ。

だが、多くの人は「自分たちに不都合な現実」から目をそらし、それに気づいていながら「気づかなかったふり」をし、さらに可能なかぎり「忘却に努める」ものなのだが、それが「まっすぐな性格」のロズニツァにとっては我慢ならない。

だから彼は、人々が「目をそらしたい現実」を、わざわざ見やすいようにパッケージングして、人々の前に突きつけ、さらには目を瞑ろうとする人たちの瞼をこじ開けてでも、それを見せようとする。
当然、人々は、自分たちが「見殺し(見て見ぬ振り)」にしてきた、その「卑怯さ」「弱さ」「後ろめたさ」を突きつけられることになるから、そうした自分の「本当の姿」から目をそらせるためにも、ロズニツァ個人に対して、敵意を向け、憎悪を向ける。彼を憎むことで、「忘れたい現実」の方を忘れようとする。

しかし、それに対してロズニツァは、臆することなく、不敵な笑みまで浮かべるようにして、さらに追撃を加える。
「なぜ、あなたはそんなに怒るんですか? これはあなただって、うすうす知っていたことじゃありませんか。ならば、知らないままに、いい加減な判断をするのではなく、十分に知った上で、あなたなりの判断をしたらいい。『自分はこの現実を直視できないから、目を瞑ることにする、無かったことにする、どうぞ卑怯者とでもなんとでも呼んでくれ』と、あなたがそう正直におっしゃるのであれば、私は、あなたのその勇気ある選択を認めます。あなたはそういうかたちで、あなた自身の責任を引き受けようとしているのですからね。私が我慢ならないのは、知っているのに知らんぷりをする、本当の意味での卑怯者なんですよ。自分自身、決して無縁ではあり得ない祖国の歴史について、知っていながら知らんぷりをし、そのまま素知らぬ顔で通り過ぎて、何も知らなかった善人のような顔をしようとする。そういう無責任でしらじらしい態度が、私は我慢ならないのです。あなただって、そういう輩は嫌いなんじゃないですか? 少なくとも、あなたが日頃楽しんでおられる娯楽映画やテレビドラマでは、そういう人物というのは、悪の親玉以上に最低な、チンケな下衆野郎ですよね。いつでも風向きを見ながら、あっちにつき、こっちにつきして、常に優勢な方の子分であろうする。卑怯であってもいいから無難に生き延びようとする、そんなチンピラのことですよ。」

ロズニツァの「本質的な怒り」は、このようにシンプルなものだ。
要は「汚いものは汚い。そして私は、汚いものが嫌いだ。だから、汚いものは、せめて自分が汚いのだという自覚くらいは持って、身の程を知れ」という怒りなのだ。

そして彼はすでに、そうした「卑怯者」たちが、「現実を知って、改心する」とまでは、期待していない。
人間とは、そこまで可塑的なものだとは思っていない。人間とは、じつに救いがたく「ずるい」ものだと知っていて、仮に反省したようなことを言っている人が100人いたとしても、その内、本当に反省した者など10人にも満たず、残りの90人のうちの、10人は「自覚的に、反省した人を演じる無反省な人」であり、残りの80人は「反省したつもりになっているだけで、じつはまったく反省などできておらず、『私は反省している、立派な人間だ』という誤った自己像に酔っているだけの、度し難く無反省な人」でしかないと、ロズニツァはそう、なかば絶望的に考えている。

だが、その絶望に押しつぶされて沈黙してしまうことは「敵の思う壺」だとも感じているから、彼は「どうせ人々は変わらない」と感じながらも、黙らない。黙ってそうした「情けない現実」を容認することなどできないから、ほとんど「嫌がらせ」にしかならないと思いながらも、そこに無理にでも「一縷の光」見出して、「現実を直視せよ、君たちは卑怯者だ!」という「告発」をやめないのである。

そして、本作『バビ・ヤール』は、そんなロズニツァの本質が、最も端的に出ているドキュメンタリー映画だと言えるだろう。彼が、本作でやっているのは、「今のウクライナ人への告発」である。だからこそ、彼は現代ウクライナを代表する映画監督でありながら、祖国政府と「愛国者」たちからの不興を買っている。

無論、それは当然の結果であり、ロズニツァにすれば、望むところですらあるだろう。
彼の告発にとって、最も望ましくないのは(「不都合な歴史的事実」と同様)「無かったかのようにスルーされる」ことだ。初めから、怒らせることは織り込み済みであり、それをきっかけにして、100人のうち1人でも目を覚ます者が出てくれば「もっけの幸い」というつもりでの、告発映画なのだ。
100人中90人が「腹をたてる」というのは「想定のうち」であり、できれば派手に「激怒」して大騒ぎをしてほしい。その姿こそが「今のウクライナ」の「欺瞞・偽善」を暴くことにもなるからである。

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本作『バビ・ヤール』で描かれるのは、第二次世界大戦中のウクライナでの「ユダヤ人虐殺」であり、それに対する「ウクライナ人の態度」である。

第二次世界大戦前のウクライナは、ソビエト連邦に含まれる「ウクライナ共和国」であり、多くのユダヤ人が住んでいて、ユダヤ人に対する伝統的な差別意識が、そのまま生きていた。

そんなところに、第二次世界大戦が勃発して、ナチスドイツによる東方侵攻が始まる。当然のことながら、当初ウクライナは、ソ連の一部として徹底抗戦を口にしていたが、ドイツ軍の電撃戦の前に、隣国ポーランドに続いて、あっけなく侵略されてしまう。

ドイツ軍は「共産主義」からの「解放軍」として首都キエフ(キーウ)にも入ってきて、人々に「自由」を保証すると言い、人々は、なかば止むを得ず、また多少の期待を込めて、ドイツ軍を「歓迎」する。
中でも、ウクライナの中で差別され抑圧されていたユダヤ人の中には、心からドイツ軍を「解放軍」だと信じて、その占領政策に協力する者もいた。彼らはまだ、ナチスドイツが「最終解決としてのユダヤ人絶滅」を目指していたこと知らなかったからである。

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ドイツは、当初の勢いで、軍をどんどんと東へと進め、ロシア本体の制圧を目指すが、ここでその行方を阻んだのは、有名な「冬将軍」であった。
あまりにも急激な侵攻によって、延びきった補給路により、最新鋭の装備を誇ったドイツ軍でも物資の不足が目につき始め、冬装備を欠いたまま、慣れない東方の「雪と泥」の中での膠着した戦いにのめりこむ。地の利を得たソ連軍は、ついに状況を覆して、反転攻勢に出る。
そして、ウクライナは、「連合国軍」の一角であるソ連軍によって、ドイツ軍の「占領」から、またもや「解放」されるのだ。
キエフの人々は、ドイツ軍の「解放」を歓迎したのと、まったく瓜二つの様子で、ソ連軍による再解放を大歓迎したのである。

ここで、話を少し巻き戻して、ドイツ軍がウクライナを「共産主義」から解放した時点に戻ろう。

ドイツ軍は、あくまでも「解放軍」としてウクライナに入ってきた。つまり、ウクライナは「敵」そのものではなく、「共産主義」に抑圧されていた不幸な国であり、戦中の日本に喩えると「イギリスに蹂躙されていた中国」みたいなものだ。

日本の中国への進出は、植民地獲得目的の「侵略」ではなく、あくまでも「アジアの解放者」としての歴史的使命を果たすためであるという「タテマエ」においてなされた。
だからこそ、日本は中国に設立した傀儡国家「満州国」において、実際の現場はともかく、少なくとも「タテマエ」としては五族協和(和(日)・韓・満・蒙・漢(支)の五民族の協和)」を唱えて、彼らを「アジアの同胞」であり「兄弟」と呼んで見せたのである。

つまり、ドイツ軍が、ポーランドやウクライナなどへ行った侵攻も、「共産主義からの解放」であり、人々をその全体主義独裁体制から「救う」という「タテマエ」だった。
したがって、ドイツも、『実際の現場はともかく、少なくとも「タテマエ」としては』ウクライナの人々に対して「保護者」的に振る舞っていた。ドイツ軍は「解放の英雄」であったのだ。

しかし、そんなとき、キエフの街を大規模な爆破テロが襲う。歴史ある建物の数々が、仕掛けられていた爆発物により爆破炎上させられ、多くの死傷者が出た。

これは、ドイツの侵攻に備えて駐屯していたソ連の秘密警察である「NKVD」による「置き土産」であった。
要は、ドイツ軍に占領されるくらいなら、価値あるものを残しておくべきではないし、色々と隠滅したいものもあったのであろう。
中国方面に展開した関東軍の高官が、敗戦時に「金目のものをネコババして、日本に持ち帰った」とか、日本国内では、戦犯裁判まで見越して「証拠隠滅のために、各種資料を焼却した」というのと、大筋で同じことであり、要は、ウクライナをドイツ軍に明け渡さねばならなくなったソ連の、巨大な「最後っ屁」だったと言えるだろう。無論、ウクライナ人には、迷惑甚だしい、ソ連の身勝手なやり口であった。

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しかし、話は、それで済まなかった。ドイツ軍は、この大規模な爆破テロにユダヤ人が関与したとして、ウクライナ居住のユダヤ人の絶滅計画を進める口実にしたのである。

最初にも書いたとおり、ロズニツァは「映像」に「説明的なナレーション」をつけない。だから、私はこの爆破テロを見た時、最初はドイツ軍による、ユダヤ人をはめるための自作自演の謀略ではないかと思った。
それにしては規模が大きいとは思ったものの、所詮は占領地なのだから、それくらいはやるだろうと思ったのだが、映像でも示されているとおり、爆破テロの現場に遺留された証拠物件は、このテロがはっきりとソ連によるものだということを示していたのである(爆発物に書かれた文字は、日本語ではないから、映像では、どこのものかがわからなかった)。

だが、ドイツ軍は、ユダヤ人虐殺作戦のための口実として、これを利用した。
ユダヤ人たちは、食料と衣服と貴重品を持って、町外れに全員出頭をかけられ、そこに出てこなかった者は見つけ次第「射殺」すると告知されたのだ。

この時、もちろん、ユダヤ人たちは身の危険を感じてはいただろうが、まさか全員が殺されるとまでは考えられなかった。何しろ、彼らはまだ、ドイツの「ユダヤ人絶滅計画」の存在を知らなかったのだし、彼らは武器を取って戦ったわけでもない。つまり、戦争捕虜ですら国際法によって身の安全が保障されていたのだから、まさか「何もしていない自分たち」が殺されるとは考えられないし、食料と衣服と貴重品を持参せよと言うからには、どこかへ「移住」させられるのだろう、ひとまずは「収容所」に入れられるのではないか、くらいの考えだったはずだ。

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住み慣れた家を離れなければならないのは辛いことだが、家族そろっての移住ということであれば、それがどんな僻地での苦しい生活であろうと、なんとかなるだろうと、彼らはそう信じたかった。なぜなら、彼らに選択肢はなかったからである。

そしてそれは、単に、占領軍たるドイツ軍の命令というに止まらず、その命令を歓迎した、多くのウクライナ人の望むところでもあったから、ユダヤ人に逃げ場はなかった。
ドイツ軍が、ユダヤ人に家を捨てて出てくるように命じた時、その命令に抵抗しようとしたユダヤ人に対し、少なからぬウクライナ人が、ユダヤ人たちへの強制退去命令に協力した。
もともと、気に入らなかった「ユダヤ人」たちを、ドイツ軍が厄介払いしてくれるのなら、これはもっけの幸いだとばかりに「法律にした従え、不法占拠は許さん」とばかりに占領軍の権威をかさに着て、ユダヤ人たちを、その家から放り出すことに協力したのである。そして、時には「放棄させられたユダヤ人の家屋敷や家財」について、ウクライナ人どおしで、その「所有権」が争われさえしたのである。まるで、屍肉を漁るハイエナのように。

一方、集合させられたユダヤ人たちは、郊外の荒れ地である「バビ・ヤール」渓谷へと徒歩移動させられ、そこで衣類を含めて全ての持ち物を引き剥れ、すでに掘られていた溝の前に並ばされて、女、子供、年寄りなどを問うこともなく、順次、銃殺されていったのである。
「バビ・ヤール」では、3日間の「作業」で、じつに「33,771名」ものユダヤ人の命が奪われたのであった。

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したがって、この映画の主役は、「被害者であるユダヤ人」でもなければ「虐殺者であるドイツ軍」でもない。ましてや、今や敵となった「ソ連軍」でもない。
この映画の主人公は「非ユダヤ人のウクライナ人」なのである。ユダヤ人を「喜んで見殺しにした、多くのウクライナ人」なのだ。

ウクライナは、第二次世界大戦において、いったんはドイツに占領されたものの、結局は「連合国軍」であるソ連軍によって「解放」され、おのずと「元の鞘に収まった」。つまり、戦後の東欧共産圏の一角に収まったのである。
しかし、その後、2014年のウクライナ騒乱(尊厳の革命、ユーロ・マイダン革命)によって、自由主義国の仲間入りを果たして、それが今日に続いている。

そして、今のロシアが、ウクライナ人を「ファシスト」だとか「ネオナチ」呼ばわりするのは、第二次世界大戦において、ソ連がウクライナを「ナチスドイツから解放した」のに、それをまたひっくり返したのが「今のウクライナ政府」だと考えているからだ。

だが、ウクライナにすれば、「ナチスドイツ」であろうと「ロシア共産主義」であろうと、人々の「自由と尊厳」を制限する「独裁国家」であることに変わりはないので、「自由主義」国家を目指すことは、当然のことであって、なんらやましいことではない。まさに、「自由と正義は、我にあり」と、今のウクライナは、そう訴えているのである。

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しかし、そんなウクライナにとって触れてほしくないのが、ドイツ占領下において行われた「ユダヤ人虐殺」であった。

ウクライナ人は、よく言って「ユダヤ人虐殺」を「黙認」し、ユダヤ人を「見殺し」にした。厳しくいうなら「ユダヤ人虐殺」に「協力」しさえした。
したがって、いずれにしろそこに、その行動を正当化する「大義」はない。「ユダヤ人虐殺」への加担に、大義など立てようもないから、ウクライナ人は、そこには触れてほしくないのである。

それなのに、ロズニツァは「ダメだ。現実を直視して、とるべき責任を取った上で、真に誇りあるウクライナであるべきだ」と、故意に埋もれさせておいた「歴史」をわざわざ掘り起こしてきて、ユダヤ人たちの無残な腐乱死体を、人々の前に突きつけるのである。
「さあ、あなた方が見殺しにした、この哀れな人たちの遺体を、あなた方の手で、心を込めて埋葬するのだ。その時初めて、ウクライナは真の自由と正義を取り戻すだろう。私が、ここまで運んできたのだから、誇り高きウクライナ人の一人として、私もこのように協力しているのだから、ここからは私と一緒に、心を込めて、彼らを埋葬し直そうではないか。」

本作『バビ・ヤール』とは、そんな映画なのである。


(2022年10月12日)

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