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セルゲイ・ロズニツァ監督 『 《戦争と正義》 破壊の自然史 / キエフ裁判』 : 眠れる〈天使〉

映画評:セルゲイ・ロズニツァ監督『《戦争と正義》破壊の自然史/キエフ裁判』(2022年)

《戦争と正義》という総合タイトルを付して日本で公開された、セルゲイ・ロズニツァ監督の昨年の2作品は、まさに「戦争の実態とその正義(大義)の胡散くささ」を描いている。

ロズニツァ監督の「アーカイヴァル・ドキュメンタリー」については、これまでにも何度か書いていることなのだが、ここでも、その要点だけを繰り返しておこう。

「アーカイヴァル・ドキュメンタリー」とは、要は、撮り下ろし映像なし、本編映像はすべて、これまで別のキャメラマンたちによって撮られたまま保存されてきた「アーカイブ映像」であり、それを編集し、それに後から音声や若干の説明文、効果音、BGMなどを加えた作品のことである。
もちろん、音声の残っているものは、基本的にはそれを使っているが、音声の残っていないものは、文書記録などに沿って、アフレコなどで音声がつけられている。

したがって、「アーカイヴァル・ドキュメンタリー」は、「現実そのもの」という意味での「ドキュメンタリー」ではない。

そもそも、使用されたアーカイブ映像自体が、カメラマンの意図によって「現実から恣意的に切り取られた事実」だと言えるし、そうした多くのフィルムから、ロズニツァは、その一部分を恣意的に切り出し、それを自身の意図をそって編集しているのだから、これが「意識的な創作物」だというのは、もはや論をまたない事実である。
さらに、可能なかぎりリアルなものであろうとしたとしても、そうした映像に、後から音声や効果音、BGMを付け足すことで「演出」を加えているのだから、これらの「アーカイヴァル・ドキュメンタリー」は、「現実の一部」というよりも、「現実から作られた作品」だと考えるべきなのだ。

しかしながら、こう言ったからといって、私は「アーカイヴァル・ドキュメンタリー」を、あるいはロズニツァの作品を、批判しているわけでもなければ否定しているわけでもない。

「ドキュメンタリー映画もまた、一種のフィクションだ(編集が入る以上、現実そのものであろうはずがない)」という「ドキュメンタリー作品」理解は、これを森達也監督などがしばしば強調して語ってきたことなどから、今や「映画の常識」に類することでしかないだろう。

つまり、「ドキュメンタリー映画」で問題とすべきなのは、そこに描き出されているものが「現実そのものなのか否か?」なのではなく、監督(作家)の「編集意図」が「どのようなものであるのか?」という「作品理解」であり、その上での、そんな「監督の意図」に対する、鑑賞者の「個々の評価」ということになるのである。

私たちはしばしば、「ドキュメンタリー」というと「現実そのまま」、「フィクション」というと「作り事(あるいは、捏造された絵空事)」だと考えるけれども、「フィクション」だって、「現実」を素材にして「新たな世界」を構築しているという意味では「アーカイヴァル・ドキュメンタリー」と、何ら変りはしない。言い換えれば「この世に、フィクションではない作品など、存在しない」のだ。

だが、ここまで言ってしまうと混乱する読者もあろうから、少し平たくいうならば、「アーカイヴァル・ドキュメンタリー」とは「現実を素材にした、批評作品」だとでも言えば良いだろうか。

「批評(作品)」というのは、それが事物であろうと観念であろうと、ある「現実」を対象として、批評家の視点からの「解釈」を提示した作品、だと言えるだろう。
「解釈」なのだから、無論それは「現実そのもの」ではないのだが、そもそも私たちは「解釈」無くして「現実」を知ることはできない。
例えば、「これは空だな」と解釈するから、それは「空」だと認識できるのであり、何らかの理由で「認知能力が低下した人」や、あるいは「宇宙人(認知形式が人類とは違う人)」が見るならば、それは「空」にはならないのである。

そんなわけで、今回の「アーカイヴァル・ドキュメンタリー」2作も、ロズニツァ監督の「事実解釈」「歴史解釈」を示したものだと言えるだろう。
要は「私はこう見るが、あなたはどう考えるか?」という「問い」を発する作品なのである。

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『破壊の自然史』は、「空爆(都市部への絨毯爆撃)」という行為の現実を描いている。
「なぜ空爆がなされたのか?」ではなく「空爆とはどういうものか?」を描いた作品だと言えるだろう。

破壊の自然史
あらゆる人々を焼け焦がした大量破壊
第二次世界大戦末期、連合軍はイギリス空爆の報復として敵国ナチ・ドイツへ「絨毯爆撃」を行った。連合軍の「戦略爆撃調査報告書」によるとイギリス空軍だけで40万の爆撃機がドイツの131都市に100万トンの爆弾を投下し、350万軒の住居が破壊され、60万人近くの一般市民が犠牲となったとされる。技術革新と生産力の向上によって増強された軍事力で罪のない一般市民を襲った人類史上最大規模の大量破壊を描く。人間の想像を遥かに超えた圧倒的な破壊を前に想起する心をへし折られた当時のドイツ文学者たちと、ナチ・ドイツの犯罪と敗戦国としての贖罪意識によってこの空襲の罪と責任について戦後長い間公の場で議論することが出来なかった社会について考察するドイツ人作家W.G.ゼーバルトの「空襲と文学」へのアンサー的作品。
2022|ドイツ=オランダ=リトアニア製作|105分|1.33 カラー・モノクロ|5.1ch|英語/日本語字幕 渋谷哲也』

第七藝術劇場HP・『《戦争と正義》破壊の自然史 / キエフ裁判』紹介ページより)

この映画は、予備知識なしに観ると、少し混乱させられるような編集がなされている。

まず最初に、戦前のドイツの素晴らしい街並みと、そこに暮らす人々の楽しそうな生活が映し出される。そののち、ドイツ諸都市への連合軍による「空爆」の様子が描かれるのだが、ここではもっぱら爆撃をする側の「上空から夜の街を見下ろす視点」で、その様子が延々と描かれる。つまり、暗闇の中で次々と発せられる爆弾の閃光や焼夷弾によって燃え上がる炎ばかりが、まるで夜空の「花火」のように浮かび上がるだけで、街並みそのものや、まして、そこで死んでいく人々の姿は、夜の闇の奥に隠されて、まったく見えないのだ。
そして、その次に描かれるのは、イギリスへのドイツ軍の「空爆」であり、その後に、やっと、ドイツとイギリス双方の、空爆による惨禍が、具体的な被害状況の映像をもって示される。

これは時系列的に言えば、実のところ逆である。
実際には、ドイツがイギリスの軍需工場のある諸都市を「空爆」して、イギリスに被害を与えたので、イギリスは、その「報復」として、アメリカ軍と共に、ドイツの諸都市に対して「倍返し」などというレベルではない規模の「大空爆」を加えたのである。

このあと、ドイツ、イギリス双方での、爆弾や爆撃機の製造の様子、名将と謳われたイギリス軍のモントゴメリー将軍の軍需工場での演説や、チャーチル首相の演説、あるいは反対に、ナチスドイツの宣伝相であったゲッベルスによる演説などが紹介されるが、彼らが口にする言葉は、要は「我々は正しく、敵は悪だから、叩き潰さなくてはならない。だから、国民よ頑張れ、共に戦おう」というような内容である。

さて、ここで、なぜこの映画が、「イギリスがドイツから空爆を受けたので、イギリスはドイツに対し報復的な空爆を行った」という、「時系列」に沿った(当たり前の)編集がなされなかったのか、という疑問に答えよう。

それは、インタビューでロズニツァが語っているとおりで、「空爆」という圧倒的な惨禍の前には、「どっちが先に手を出したか」などというようなことは、もはや本質的な問題ではない、と考えられたからである。

『Q一一あなたの映画は、すべて記録映像に基づいていますが、その映像を時系列に沿って編集しているわけではありませんね。また、ドイツとイギリス、時には、アメリカの映像を意図的にミックスしていますね。

一一『破壊の自然史』を編集する際、私は年表に基づいた物語を作らないことにしました。もちろん、実際の出来事の年表は把握していますし、歴史的調査も行いましたが、年表は私の指針にはなりませんでした。「年表」という方法を採用し、誰が最初に爆撃を受け、誰が2番目、3番目だったかを示し始めた途端、「事象に因む」概念が働き意味がなくなってしまうのです。

私は、この映画からイデオロギーをできる限り排除したかったのです。もちろん、映画の中には政治的なシンボルがいくつか登場しますし、政治家や将軍の話も何度か見聞きすることになります。 同時に、両陣営が「絨毯爆撃」という方法を採用し、紛争の両側で民間人に苦痛と破壊がもたらされたことも知っています。私が注目したのは、まさにこの爆撃という行為と、その悲惨な結果であります。民間人を恐怖に陥れ、その生活環境を破壊するために、技術の進歩を利用するという考えは、ドイツ軍と連合軍の双方が持っていました。技術的な能力があれば、人間は戦争と破壊の目的のために喜んで、それを利用したのです。』

(「《戦争と正義》破壊の自然史 / キエフ裁判」パンフレット P15〜16、「セルゲイ・ロズニツァ公式インタビュー」より)

要は、「お前が先に手を出したから、俺は、倍返しでやり返しただけだ」という理屈が、「戦争」では「正当性」を持ってしまう(「正義の根拠」になってしまう)のだが、それは認め難いということである。

私たちの日常生活でも、こんな幼稚な理屈は通らない。
つまり「殴られたから殴り返した」というのでは、それは単なる「喧嘩」であり、刑法的には、両者が「暴行罪の被疑者」として裁かれる(喧嘩両成敗)。

「殴られた方」に許されるのは、「身を守る(自衛の)ための、最低限の反撃」である「正当防衛」であって、やりすぎればそれは「過剰防衛の暴行(あるいは、傷害・殺人)」ということになって、その人物も罰せられる。一一これが、理性的な「法秩序」というものなのだ。

ところが、私たちは普通、「やられたらやり返すのは当然」だと考えるし、「最低でも、同程度の報復をする権利がある」と考えるだろう。しかも、これがドラマともなると「倍返しだ!」となるのは、私たちが「本音」では、「同程度」以上の「報復」を求める、強い「応報感情」を持っているという証拠なのだ。
そして、戦争ではそうした感情が、「空爆による(敵国)民間人の虐殺」をも「正当化する理屈」になるのである。

だから、ロズニツァは、この映画ではあえて、「時系列」を組み替え、「敵味方」の境界線を曖昧にした。
結局、ドイツ軍だ連合軍だと言ったところで、虐殺される民間人の現実レベルからすれば、それは「人間同士の殺し合い(共食い)」でしかないからである。

「そっちが先に手を出したんだ」という「自己正当化の理由」は、それほどまでに「幼稚」で「原始的」なものなのだ。

本作が『破壊の自然史』と題されているのも、ノーム・チョムスキーがよく口にする「宇宙人から見れば」というのと、同じことだ。
宇宙人から見れば、人間のこうした「戦争」とは、「人間という野蛮な生物の、自然な姿そのもの」であり、本作は「その客観描写」だということになるのである。

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『キエフ裁判』は、戦後まもなくの「ウクライナ・ソビエト社会主義共和国」の首都キエフ(現・キーウ)で開かれた、同国内で犯されたナチスの戦争犯罪を裁くための、軍事法廷である。

「東京裁判」では、連合国が「日本」の最高指導者層の戦争犯罪人を裁き、「ニュルンベルク裁判」では、連合国がドイツの最高指導者層を裁いたわけだが、この「キエフ裁判」では「ソビエト連邦」のひとつであった「ウクライナ」で行われた、いわば「地方」的な裁判であったため、「ソ連」がこの裁判を主導し、ソ連の法律に基づいて、ドイツの戦争犯罪人15名が裁かれた。
「ソビエト連邦」内でのこうした「戦争犯罪裁判」は、これだけではなかったのである。

(被告席のドイツ軍被告たち)

キエフ裁判
戦禍の蛮行を裁く戦勝国による軍事裁判
1946年1月、キエフ。ナチ関係者15名が人道に対する罪で裁判にかけられる。この「キエフ裁判」は、第二次世界大戦の独ソ戦で、ナチ・ドイツとその協力者によるユダヤ人虐殺など戦争犯罪の首謀者を断罪した国際軍事裁判である。身代わりを申し出る母から無理やり幼子を奪いその場で射殺し、生きたまま子供たちの血を抜き焼き殺すという数々の残虐行為が明るみになる。被告人弁論ではありがちな自己弁明に終始する者、仲間に罪を擦りつける者、やらなければ自らも殺されたと同情を得ようとする者と、その姿にハンナ・アーレントの<凡庸な悪>が露わになる。アウシュヴィッツバビ・ヤールの生存者による未公開の証言も含み、「ニュルンベルク裁判」「東京裁判」に並ぶ戦後最も重要な軍事裁判が現代に蘇る。』

第七藝術劇場HP・前同ページより)

この映画で印象的なのは、(階級が低かったために懲役刑(15~20年)で済んだ3人を除く)12人の「公開絞首刑」のシーンだろう。
このシーンは、前に紹介した、同監督の『バビ・ヤール』にも収められていたから二度目となるのだが、やはり、公衆の面前で、12人もの人間が一気に絞首刑にされる図のインパクトは、あまりにも大きい。

12人の中には、吊るされて激しく痙攣をする者もいて、その残酷さは目に余るものがある。
だが、私がこの「公開処刑」のシーンで、何とも言えず不快な気分にさせられるのは、この「公開処刑」を「見物」に来た、20万人とも言われる大群衆の存在である。

たしかに、公開処刑を見に行くようにという「お達し」もあったのだろうが、しかし、ほとんどの人は強いられて見物に来たわけではなく、憎むべきドイツ軍の将軍や上級将校たちが吊るされるのを、喜んで「見物」に行ったのであろう。

その気持ちもわからないわけではないけれど、そうした反応は、あまりにも「動物的」というほかない。あまりにも「人間としての品格」に欠ける「あさましさ」なのだ。

私は、この生々しい絞首刑も、痙攣する受刑者も、眉を顰めはしても、気持ちが悪いとか、目を背けずにはいられない、ということはなかった。
『破壊の自然史』の方で描かれた、空爆による市民の夥しい死体の列も、痛ましいなと眉を顰めはしても、気持ちが悪いとか、目を背けずにはいられない、ということはない。
なぜなら、私は、長らく警察官をやっていたので、死体を見慣れていたためである。

だが、「公開処刑」のシーンでの「見物の群衆」たちには、目を背けたくなるような嫌悪感を禁じ得なかった。
それは、「これが人間なのだ」と見せつけられているような、そんな苦痛を感じたからだ。

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私が、この2本の映画に描かれた多くの「遺体」の中で、ゆいいつ目を背けたくなった遺体とは、空爆によって亡くなった、赤ん坊のそれだった。

その赤ん坊は、あまりにも綺麗だった。
外傷や衣服の汚れなどはなく、たぶん、死後に綺麗にしてもらい、綺麗な服を着せられて、他の大人の遺体と共に並べられていたのだろう。
数が多すぎて、大人の遺体に対してはそこまでできないにしても、赤ん坊だからこそ、せめて綺麗にしてやりたいと思った、その誰かの気持ちはよくわかる。

それにしても、その赤ん坊の遺体は綺麗だった。
どこにも傷みも汚れもなく、ただ両手を胸の上で組み、少し横を向いて、文字どおり、眠っているかのようなその安らかな表情は、まるで「空爆」とは無関係な、白い天使像のようでさえあった。

一一だからこそ尚更、痛ましかったのである。



(2023年8月28日)

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