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ヴィタリー・マンスキー監督 『プーチンより愛を込めて』 : 生きた「安全パイ」の 危険性

映画評:ヴィタリー・マンスキー監督『プーチンより愛を込めて』

本作は、現ロシア連邦大統領ウラジミール・プーチンの、2000年から2001年の1年間を撮ったドキュメンタリー映画である。ウクライナ戦争の前の、2018年の作品だ。

「内容紹介」等については、「公式ホームページ」からの引用でご容赦願おう。

『ロシア連邦初代大統領ボリス・エリツィンの後を継ぎ、2000年に第2代大統領に就任したウラジーミル・プーチン。当時の憲法上の制限から2期で退いたものの、2012年の大統領選で復帰。実質的に、プーチン政権は20年以上にわたり続いている。プーチンはいかにして権力を握り、現在の統治国家を築き上げたのか。

ヴィタリー・マンスキー監督は、引退を宣言したエリツィンの指名を受け1999年12月31日、プーチンが大統領代行に就任してからの1年間を追った貴重な映像を編集して、1本のドキュメンタリー『プーチンより愛を込めて』を完成させた。本作に使用されている映像は、すべて、ウクライナ出身のマンスキー監督が国立テレビチャンネルのドキュメンタリー映画部の部長だった時に監督自身が撮った素材で、ほとんどが未公開だったもの。2014年3月にロシアによるクリミア併合のプロセスが始まった時に、監督はロシアを捨て、ラトビアに移住し、本作の素材の権利処理や編集を始めた。現在ロシアでは監督に逮捕令状が出されていて、ロシアに一歩足を踏み入れたら逮捕されるという状況の中、日本での公開が決まった。

大統領選挙活動では控えめな印象のプーチンだが、徐々にベールの奥に隠されていた本性が見えてくる。その過程はまさに心理スリラーの様相。自身の後継者としてプーチンを20人の候補者から選んだエリツィンだが、やがて自分が利用されていることに気が付き、丸1年後の自宅でのインタビューでは、プーチンについて「赤」と断言するまでに……。

大統領就任後、第二次チェチェン紛争、五輪のドーピング、ウクライナ侵攻が始まったほか、プーチンに逆らった人々の亡命、投獄、死もあった。今だからこそ新たに気づくことがある、若き日のプーチンを映した、カルロヴィ・ヴァリ国際映画祭 最優秀ドキュメンタリー賞受賞作。』

公式ホームページ・「イントロダクション」より)

『1999年12月31日、この日、ロシア連邦初代大統領ボリス・エリツィンが辞任した。彼は自身の後継者としてウラジーミル・プーチンを指名、3ヶ月後に行われる大統領選挙までの間、ロシアの新しい憲法、国旗は若き指導者に引き継がれた。ヴィタリー・マンスキー監督は、大統領選挙への出馬表明をせず、公約を発表しないまま、名目は違えど“選挙運動”を展開するプーチンの姿を記録していく。ロシア各地へ足を運び、諸問題の解決、第一次チェチェン紛争の"英雄"たちへの慰問や恩師との再会を"演出"したプーチンのPRチームは、国民が抱く彼のイメージを「強硬」から「親身」へと変化させる。
マンスキー監督は、ソ連時代の旗や国歌が使用されていることに不安を覚え、プーチンに直接斬り込んでいく。2000年3月26日の開票日当日と2000年の大晦日の、エリツィン元大統領の自宅での貴重映像を辿ることで、プーチンの本当の姿が炙り出されていく。』

同上・「ストーリー」より)

すでに多くの人から指摘されていることだが、この映画を観て、まず最初に感じるのは、20数年前の若いプーチンが「普通の人」に見える、という点であろう。

つまり、今のような貫禄もなければ、威圧感もない。
ただし、決して「陽気な人でない」というのはハッキリと窺えるし、その意味では「真面目」という印象を受ける。

また、あまり自分からは主張しない人のようで、何を考えているのか、今ひとつ把みどころのない人であり、その意味での「不気味」さがないでもないのだが、これは、今だからこそ「そう見える」といった類いのことで、この当時にテレビででもプーチンを視ていれば、むしろ印象そのものが、薄かったのではないだろうか。

そんなわけで、プーチンが、いわゆる「有能な人(仕事ができる人)」であったというのは当然として、しかし、当時としては、それ以上の強い印象を、周囲に与える人ではなかったのではないかと思われる。

また、そうした意味で、「俺が俺が」という権力志向を持つ個性派たちにとっては、プーチンというのは「側近」として実務に当たらせると「便利な男」という程度の印象だったのではないだろうか。「有能だけれど、意外に控えめな、使える男」という印象だ。

だからこそ、エリツィンも彼を「側近」に取り立て、「後継者」に選んだのであろうし、プーチンなら、それを恩に着て、いつまでも自分を「恩人」として立て、大切にしてくれるだろう、しないはずがないと、そう「甘く見ていた」のであろう。

(良くも悪くも、人間くさかったエリツィン)

ところが、プーチンは、そんな男ではなかった。
「恩義」などという「他者に対する、熱い感情」を持っている男ではなかったのだ。

たぶん、彼が、他人を厚遇したり攻撃排除したりするのは、相手の「人間性」に対する評価や感情からではなく、単純に、自分にとって「得な存在か、損な存在か」ということなのではないだろうか。

だから、「こいつに付いていけば得だ」と思えば、イデオロギーに関係なく付いていく。そして、評価されるべく一生懸命に仕事をする。
また、「こいつは、私にとって邪魔な存在だ(障害となる存在だ)」と判断すれば、個人的な「好悪」の感情は別にして、それを「障害物」として排除するのに躊躇しない。

だからこそ、エリツィンが、プーチンから献身的に支えられたというのも事実なら、あっさりと捨てられたというのも事実なのであろう。

つまり、プーチンの「強み」というのは、「他人(の人柄)には興味がない」ということなのではないだろうか。
言い換えれば、ただ「自分(のやりたいこと)だけがある」とも言えるだろう。

普通の人間であれば「やりたいこと」があっても、目の前に「嫌いな上司」がいれば、「こいつの言いなりにはなりたくない」と、つい損を承知で、ささやかながらも「反抗」をしないではいられない。
また、自身の「美意識」に反することをやれと言われた場合にも、やはり、損を承知の上で、その指示に対して、ささやかながらも「抵抗」を試みたりしないではいられないだろう。

つまり「大きな目的」や「最終的な望み」あるいは「野望」といったものがあったとしても、しかし、やはり「目先の事実」に対する「感情」は、抑え難いものなのだ。
「こんな奴にゴマをするくらいなら、嫌われた方がマシだ」「こんなことを嫌々やるくらいなら、こんな仕事、辞めてやる」などと、つい考えてしまう。
要は、「先のこと」より、やはり「今が大切」なのである。

例えば、「休みの日まで、上司先輩につきあわなければならないのなら、出世などできなくてもいい」とか「こんな、くだらない小説まで誉めなければならないのだとしたら、プロの評論家になんてなりたくない」なんて考え、それを多かれ少なかれ実行してしまう。一一それが、私が言うところの「快楽主義」ということなのだ。

だが、こんなことをしていては、当然「権力の座」に就くことなどできない。「権力の座」に就くには、とにかく「自身の好悪感情」を抑えなければならない。
「あなたは好きだ。お前は嫌いだ」などとあからさまに表明し、さらには、そうした「好悪」にしたがって行動したりしていれば、損をすることが多いというのは当然のことだし、また「それでもかまわない」なんて思ってしまうところが、こういう「人間的な人間」、言い換えれば「血の通った人間」の、強みでもあれば、弱点でもあるということなのであろう。

だとすれば、プーチンが「サイボーグ(たぶん、人造人間・人型ロボットほどの意味だろうが)」めいているという評価は、意外に本質を突いているのではないだろうか。

この指摘において重要なのは、「外見的」のことではなく、プーチンが「感情的な人間ではない=打算に徹しうる冷徹さを持っている」ということだ。

つまり、権力者に気に入られるためなら、靴を舐めることだって、尻を掘らせることだって、彼らなら、ちょっと困ったなくらいの表情を浮かべることはあっても、すぐに切り替えて「結構です。仰せのままに」なんて態度になるのではないだろうか。

そして、こうした「コワモテではない、冷徹さ」にこそ、プーチンの本当の「非人間性」であり「強さ」があったのではないか。

私たちは、ややもすると「見かけ」で人を判断してしまう。
「見かけで人を判断してはいけない」なんてことは重々承知していながらでも、やはり、それを完全に避けることはできないのかもしれない。

(恩師のもとを訪問するプーチン)

よく「権力をとると、人が変る」などというけれども、それは「変る」のではなく、もともと持っていたものの「表面化を抑えていた」ということであり、権力をとることで、もはやそうした抑制の必要がなくなったから、ハッキリとそれが表面化してきた、ということなのではないだろうか。

だとすれば、私たちの周囲には、意外に、プーチンのような、一見「普通の人=クセの強くない人」が少なくないのではないだろうか。
「彼は、仕事はできるけれども、それを鼻にかけることも、威張ったりもしない、物静かで遠慮深い、いいやつ」だなんて、多くの人から、けっこう好意的な評価を受けていたりする。
だからこそ、そんなに際立ったリーダーシップがあるとも思えないのに、いつの間にか出世していく、のである。

だから、私たちがここで注意しなければならないのは、意外にも「有能だけれども、毒に薬にもならなさそうな、個性に薄い人」なのではないだろうか。

そんな人が「毒にも薬にもならない」のは、まだ「その時期」ではないからであって、「猛毒性の潜在能力」を持っていない、ということを意味するわけではない。
「個性が薄い」というのも、まだ「個性」を発揮する時期ではないから、ということなのかもしれないのだ。

私たちはしばしば「彼は、たしかに有能だけれども、個性がなくて、面白みに欠けるね」などと、結局のところ、そうした人に対し「見下した」評価を与えてしまいがちである。
要は「だから、あいつは安全パイだ」と、そう甘く見てしまうのだが、しかし、そんな彼は、実のところ「悪魔の卵」なのかもしれないのである。

ゴルバチョフやエリツィン(あるいは、私)のような、ハッキリとした個性を持ち、それを隠せないようなタイプなら、好悪は別にして、評価はしやすい。
しかし、一見したところ「可もなく不可もないような安全パイ」というのは、実のところ、本質的な評価が困難な、難物なのであろう。

(大統領選挙の投票所へむかうゴルバチョフ)

だから、私たちは、こういう「有能だけれども、無難そう」な人物に「権力」を与えてはならないのだと思う。「有能」であるということは、すでに「非凡」なのだから、そんな人物を決して「甘く見てはならない」のだ。

どんなに「無難そう」に見えても、「有能な人間」を使おうとする時には、その人物の深いところまで探っておかないと、自覚のないままに、危ない「博打」をうつことになりかねない、ということである。

そしてこれは、あなたの友人や部下の中にもいるだろう、どちらかと言えば地味なほうに属する「彼」についても言えることであって、決して「遠い」場所での、特殊な話などではない。

せっかく目に掛け、バックアップしてやったのに、しれっと裏切られてから腹を立てても、もう遅い。
あなたが思っていたほどには、相手はあなたのことを何とも思っていなかった、なんてことは、十分にあり得る話なのだ。

(プーチンからの当選の一報を待つエリツィン。だが、待てど暮らせど…)


(2023年6月14日)

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