ヴィクトール・フランクル、ピンハス・ラピーデ『人生の意味と神 信仰をめぐる対話』 : 無神論者の〈祈り〉
書評:ヴィクトール・フランクル、ピンハス・ラピーデ『人生の意味と神 信仰をめぐる対話』(新教出版社)
『自らはユダヤ教的な環境に育ちキリスト教と向き合いつつも特定の宗教を信条としない。』と「ひげねこ」(※ 現在は「ひげねこ親父」)氏が紹介しているとおり、フランクルは特定宗教への信仰は持たないものの、擬人的な「神」という概念によって語られる「超越的なもの」に対する「信仰」は避けられないもの(その意味で「宗教」を積極的に肯定する)という立場の人であり、その意味では「神信仰」肯定者であると言って良いだろう。
一方、対談相手のラピーデは、エキュメニカルな時代の中で、キリスト教神学者や思想家と積極的に対話をおこなった、リベラルなユダヤ教思想家・神学者である。
つまり、両者は「神信仰」の肯定という一点においては完全に一致しており、その考え方は基本的にリベラルであり越境的なものであるという点でも一致しているので、この対話において大きな齟齬が無いのは、当然なのかも知れない。
ただ、ラピーデには「確たる(特定)信仰があり」、フランクルはそうした「決定論的な信仰は持たない」という点で、本書の前半では特に、フランクルの言葉は、自らのアウシュビッツ体験も含めた「リアルな体験」を通しての思索を「口ごもりながら(=断定できないという迷いをともないつつ)語る」体のものであり、一方、ラピーデのそれはどうしても「ユダヤの叡智を通しての解説」というパターンになっているようだ。
だが、ラピーデのユダヤ教的世界理解を取り込みつつ、フランクルのリアリズムに立脚した「神」理解「信仰」理解は、後半で、より一層、その確信を強めていくような印象が強い。
そしてそれは、特定信仰の「権威」に安住できない多くの読者にとって、フランクルのリアリズムにこそ、一定の説得力を加味するものとなっているようだ。
さて、私は自身を「無神論者」と規定している人間なのだが、「信仰」が「無力」だとは思っていない。
私の「信仰」の定義は「実益のあるフィクション(物語)」というものだ。つまり、それに「力」があるのは認めるが、「神」は実在しないし、「実益のあるフィクション(物語)」は、なにも「宗教」に限られるものではない、という考え方だ。
言い変えれば、「(特定)宗教」の代わりに、人が持つべきものは「理想」や「倫理」や「思想」であっていい。それらが十分に考え抜かれたものなのであれば、「力」においては「宗教」に一歩も二歩もゆずるとしても、そのぶん「弊害(の力)」の方も少なかろうと考える。
つまり「人は、信仰的な思考様式を、生存のための方便として、進化の途上で身につけてきたのであり、その意味で信仰的な思考は避けられないものではあるけれど、しかし、そうした信仰的思考様式を満たすものは、なにも宗教である必然性はない」という立場を採る「無神論者」なのである。
要は「本能としての信仰」に、易々と与したくないということなのだが、もしかするとこれは、カトリックが「禁欲」を美徳とするのに似ているのかも知れない。
そんな私にとっての本書は、共感できる部分もあれば、「(何らかの)信仰の必要性」を自明のものであるかのように語る部分において、物足りないところもあるのだが、印象に残った言葉を、あえて一カ所紹介するなら、それはフランクルの次の言葉となろう。
たとえば、無神論者の私にも「祈り」はある。しかしそれは、特定の宗教が語るような「神」や「仏」といった「超越的存在」に対してのものではなく、もっと力弱い「人間の理想」や「人としての美意識」といった、ほぼ『後ろ盾』にはなってくれない、むしろ自分の力で掲げ、支えなければならない「前盾」だとも言えるだろう。
そして、そうしたものを考えるのもまた、私たちの「日常言語」であって、「特定(宗教)言語」ではない。
そんな私の思考的営為が「宗教的」かどうかは、その評価者の立場によって変わるのだろうが、少なくともそれを「それこそが貴方の宗教性ですよ。神を求める心です」などと、勝手に決めつけられたくはない、というのが、私の「無神論」なのである。
初出:2019年5月28日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除)
○ ○ ○
○ ○ ○
○ ○ ○
・
○ ○ ○
・
○ ○ ○
・
・
○ ○ ○
・
・