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青木理 ・ 安田浩一 『この国を覆う 憎悪と嘲笑の濁流の正体』 : 良識的「第三者」たちの 〈傍観者的感想〉

書評:青木理・安田浩一『この国を覆う憎悪と嘲笑の濁流の正体』(講談社+α新書)

青木と安田の著作については、これまでに何冊も読んできているので、語られている事柄としては、それほど目新しいものがあるわけではない。けれども、少しタイプの違う両者が語り合う中で響き合ってくる共通部分とは、結局のところ「拱手傍観などできない」という「情の厚さ(熱さ)」なのではないだろうか。

安全圏に身を置きながら、世間受けの良い「ご立派な意見」を口にするだけなら、素人評論家たちにだってできるだろう。しかし、顔を出し、名前も出して、同じことが言えるのか。
権力に抗い、ネット右翼などのような面倒くさい有象無象につまらない悪口を書きたてられ、不愉快な思いをさせられるのがわかっていながら、それでも弱者のために、一貫してその声を発し続けることができるのか。

私が、本書で特に大切な部分だと思ったのは、この「当事者意識の重要性」という部分である

『安田  僕はその場にいたんです。いわゆる建白書デモがおこなわれた日(※ 2013年1月)です。オスプレイ配備反対の建白書を官邸にもっていくために、沖縄選出の国会議員をはじめ沖縄から陳情団が来て、日比谷公園で集会をし、そして銀座をデモ行進して、沖縄へのオスプレイ配備反対を呼びかけました。
 先頭に立っていたのが当時那覇市長だった翁長さん。沖縄の市議と県議がそこに続いた。要するに党派を超えた沖縄の人たちが集まってデモをやったんだけど、ちょうど銀座四丁目の交差点にさしかかったときに、沿道に在特会や関係団体のレイシストが集まって、「国に帰れ」とか、どこに帰ればいいんだよって話だけど、「中国の工作員」「ゴキブリ」「ウジムシ」「売国奴」、そうした言葉を投げつけた。
 僕はこれはひでえなと思って、記事を一回書いているんです。「あの風景を見て翁長さんが腹を固めた」と。沖縄県の地方紙も、そういうニュアンスで伝えていたので、あの体験から翁長さんは辺野古新基地に関しても反対の姿勢を明確にしたと書いた。しかし、結果的にそれは正確ではなかった。
 青木さんがくわしく知っておられるとおり、翁長さんはあの風景に憤って腹を固めたわけではなかった。後になって彼が会見で言ったんだけど、腹が立ったのは事実だ、と。でも「沿道で帰れとかゴキブリとかウジムシとか言ってる連中に腹が立ったわけではなくて、私が本当に腹が立ったのは、あの日あの場所で何事もなかったかのように通り過ぎていく東京の人びとを見たときだ」と言ったわけです。同じ日本人という枠組みでありながら、死ね、ゴキブリと言われた。でも東京の人びとは無関心でしたよね、と。
 あの夕方の時間帯、買い物に行ったり、お茶を飲みに行ったり、お酒を飲みに行ったり、食事をしたりデートをしていたり、会社の帰りだったり、たくさんの人がいたわけだけど、みんな知らんぷりだった。だれも沖縄県民の訴えに関心を示さない。そのことに猛烈に腹が立ったということを後に話していて、そうか、僕が書いた記事は誤りだったんだなと痛切に思った記憶があります。あの風景はたぶん翁長さんにとって大きな出来事だったんじゃないかという気がします。』(P108~110)

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安田  琉球新報の東京駐在記者が沖縄に戻るというので飯食って話を聞きました。彼は菅(※ 菅義偉 現首相)の官房長官時代の会見に出て沖縄についての質問を何度もしてるんだけど、見事なまでに何も答えてくれず、典型的な官僚答弁だったと話していました。気になったのは、彼の質問に菅がまともに答えないだけではなく、他紙の記者も同様に何の反応もないということです。菅への質問を引き継いだり、拾ったりする記者はほとんどいなかった。「やっぱり(※ 本土においては)アウェーですわな、沖縄紙は」みたいな話を彼はしていました。』(P112~113)

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銀座でレイシストたちの悪罵を浴びる沖縄の人たちを見ても、足を止めることさえしなかった東京の人たち。沖縄紙の記者の質問を無視する菅官房長官の官僚答弁を目の前にしながら、それを何事もなかったかのように平然と受け入れていた本土の記者たち。一一これは、本質的には、まったく同じ態度なのではないか。
つまり「沖縄のことなんか、私には関係ない」という。

レイシストたちに悪罵されるデモを横目に眉ひとつ動かさすに通り過ぎていった人たちも、記者会見において沖縄紙の記者が無視される状況を眼の前にしても平然としていられた記者たちも、個々にコメントを求められれば、いかにも御説ごもっともで立派な意見を、むしろ誇らしげに開陳したことであろう。
だが、彼らの現実とは、そのコメントや論評にはないのである。それが、現実なのだ。

同様に、本書で語られている問題や、本書著者である青木や安田の意見を、安全な高みの見物桟敷から論評するだけなら、誰にでもできるだろう。
だが、そうした賢しらな論評には、本当の意味での「心」がこもってはいないのだ。ただ、世間受けの良い、人から褒めてもらえそうなことを、人の口真似をして、オウムのように語って見せているだけなのである。

だから、私たちが本書を読んで、真に考えなければならないのは、「あれについては、こうだ」「この意見については、こう評価する」といった評論家ごっこの論評ではなく、いざという時にリスクを取ってでも「自分は、そうした意見を口にできるのか」と、自身に問うことであろう。
他人がどうとか言う前に、まず問うべきは、自分自身の「現実」なのではないだろうか。

初出:2021年6月25日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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