青木理 ・ 安田浩一 『この国を覆う 憎悪と嘲笑の濁流の正体』 : 良識的「第三者」たちの 〈傍観者的感想〉
書評:青木理・安田浩一『この国を覆う憎悪と嘲笑の濁流の正体』(講談社+α新書)
青木と安田の著作については、これまでに何冊も読んできているので、語られている事柄としては、それほど目新しいものがあるわけではない。けれども、少しタイプの違う両者が語り合う中で響き合ってくる共通部分とは、結局のところ「拱手傍観などできない」という「情の厚さ(熱さ)」なのではないだろうか。
安全圏に身を置きながら、世間受けの良い「ご立派な意見」を口にするだけなら、素人評論家たちにだってできるだろう。しかし、顔を出し、名前も出して、同じことが言えるのか。
権力に抗い、ネット右翼などのような面倒くさい有象無象につまらない悪口を書きたてられ、不愉快な思いをさせられるのがわかっていながら、それでも弱者のために、一貫してその声を発し続けることができるのか。
私が、本書で特に大切な部分だと思ったのは、この「当事者意識の重要性」という部分である
銀座でレイシストたちの悪罵を浴びる沖縄の人たちを見ても、足を止めることさえしなかった東京の人たち。沖縄紙の記者の質問を無視する菅官房長官の官僚答弁を目の前にしながら、それを何事もなかったかのように平然と受け入れていた本土の記者たち。一一これは、本質的には、まったく同じ態度なのではないか。
つまり「沖縄のことなんか、私には関係ない」という。
レイシストたちに悪罵されるデモを横目に眉ひとつ動かさすに通り過ぎていった人たちも、記者会見において沖縄紙の記者が無視される状況を眼の前にしても平然としていられた記者たちも、個々にコメントを求められれば、いかにも御説ごもっともで立派な意見を、むしろ誇らしげに開陳したことであろう。
だが、彼らの現実とは、そのコメントや論評にはないのである。それが、現実なのだ。
同様に、本書で語られている問題や、本書著者である青木や安田の意見を、安全な高みの見物桟敷から論評するだけなら、誰にでもできるだろう。
だが、そうした賢しらな論評には、本当の意味での「心」がこもってはいないのだ。ただ、世間受けの良い、人から褒めてもらえそうなことを、人の口真似をして、オウムのように語って見せているだけなのである。
だから、私たちが本書を読んで、真に考えなければならないのは、「あれについては、こうだ」「この意見については、こう評価する」といった評論家ごっこの論評ではなく、いざという時にリスクを取ってでも「自分は、そうした意見を口にできるのか」と、自身に問うことであろう。
他人がどうとか言う前に、まず問うべきは、自分自身の「現実」なのではないだろうか。
初出:2021年6月25日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除)
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