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和泉悠 『悪口ってなんだろう』 : 「悪口」の正しい使用法とは?

書評:和泉悠『悪口ってなんだろう』(ちくまプリマー新書)

叢書「ちくまプリマー新書」は「若い人向けの教養書」なので、本書も、文体は平易で親しみやすく、内容的にも「基本的なところ」を押さえることに重きをおいている。言い換えれば、突っ込んだ議論は、あえて避けている。
「後註」を除く「本文」は150ページほどの本なので、多くを期待しすぎるのはお門違い。そのつもりで読む必要がある。

本書のテーマは、タイトルにもあるとおりで『悪口ってなんだろう』ということだ。
わかっていそうでわかっていない、この「悪口」というものを、言語哲学的な観点から分析して、それを平易に語ったのが本書である。

「○○さんは悩みがなくていいね」「冗談で言っただけだよ」「アホと言う方がアホだ」
「ほんま私頭悪いから」「どうして一生懸命やらないの」「人として下だよね」
「いじってあげてるだけじゃん」「事実を述べて何が悪いんですか」

これらは悪口だろうか? どこが悪いか説明できるだろうか?

悪口はなぜ悪いのかを問われたとき、シンプルに「人を傷つけるから」といった理由が思い浮かぶかもしれない。たしかに子どものころに「そんなこと言われたら傷つくでしょ」といって、悪口をたしなめられたことがあるだろう。ただしそれでは悪口の悪さをうまく説明できていない。たとえば、恋人からの別れのことばで傷ついてしまうかもしれないが、それはもちろん悪口ではない。』

Amazon・本書紹介ページより)

上の紹介文の後半部は、本書本文からの引用だが、たしかに「悪口はなぜ悪いのかを問われたとき」に、その「悪さ」の意味をきちんと答えられる人は意外に少なく、「人を傷つけるから」とか「悪意ある攻撃だから」といったレベルに止まることが多いようだ。

無論、そうした理解とて必ずしも間違いではないのだが、それは「悪口の否定性」を構成するための「十分条件」ではない。つまり、説明としては不十分。
なぜなら、「人を傷つけない悪口」としての「陰口」があるし、「悪意のない悪口」としての「お前、ほんまにアホやなあ」といった「好意的な反語表現」といったものもあるからだ。

そこで、本書著者は「悪口」の「本質」とは何かというのを、さまざまな「悪口」の事例を分析することで、次のような結論に達する。

『 この本は悪口についての本で、「悪口とは一体何か?」という問いに答えていきます。
 後で詳しく説明しますが、あらかじめその答えを出しておくと、悪口とは「誰かと比較して人を劣った存在だと言うこと」です。ぱっと見て、単純な答えですので、ふーん、あっそ、と思われるかもしれませんが、「人を傷つけることば」とか「悪意を持ってことばで攻撃すること」といった常識的なことを言っていない、とも気づいてください。』
(P7「はじめに」より)

『常識的なことを言っていない、とも気づいてください。』と書いているとおりで、著者が、このように最初から結論を書いてしまったのは、それほど「世間一般」の「悪口」理解が、「本質を外している」からに他ならない。

本書著者の考えでは、「悪口の本質」は、「誰かと比較して人を劣った存在だと言うこと」であり、のちに説明されるとおり、その対象である人の「社会的なランキングを下げる」ことにある。
言い換えれば「社会的なランキングを下げる」という「意図」がなければ、それはいかに外見上は「悪口」であっても、本質的には「悪口ではない」ということになる。その典型的な例が先に示した「お前、ほんまにアホやなあ」といった「好意的な反語表現」だと言えるだろう。

だが、この言葉も、表面上はほとんど同じでも、否定的な意図を持って「お前はアホや。身の程を知って、黙っとれ」となると「悪口」になる。要は「お前は、一人前に意見表明をできるような、一人前の人間ではない」と言っているのであり、相手の「社会的ランキング」を、当たり前に認められているよりも下げることを意図しているからである。

そして、ついでに解説しておけば、「お前、ほんまにアホやなあ」が、その「意図と言い方」によって「悪口」にならないのは、この言葉の意味が「お前はアホやけど、でも、その不器用な生き方が、人間として貴重なものなんや」といった「肯定的評価」こそが、その発話目的であり、言い換えれば、対象の「社会的なランキングを上げる」ことを「意図」しているからだ。

では、「社会的なランキングを下げる」という「意図」を持って発せられる「悪口」が、すべて「悪いもの=悪」なのかというと、そう単純な話ではない。
このあたりの議論が本書の後半になされるのは、それだけ「悪口は、必ずしも悪いものではない」という考え方が、未熟な若者(読者)には理解されにくい(誤解されやすい)ところだからである。

平たく言えば、「悪口の効用」というのも色々とあるのだが、それを「誤解」され「濫用」されると困るので、本書著者によるそのあたりについての説明は、かなり慎重なものとなっていて、悪く言えば「奥歯にものの挟まったような」書き方になっている。

『 「非難」や「批判」ということばは、世間的にはあまり評判が良くないようです。しかし、それは適切な非難と、誹謗や難癖といったことばによる攻撃とをはっきり区別することに失敗しているからだと私は思います。ここでは、その区別をつけてみましょう。
(中略)
 非態をするとき、誰かに非がある、良くないところがあると指摘することになるため、悪口のように優劣を示してしまう。と思われるかもしれません。しかし、適切な非難は単に人の劣ったところを指摘するものではないのです。
 適切な非難は、「後ろ向き」(backward looking)であると同時に「前向き」(forward looking)である、と言われます。まず、後ろ向きであるのは、過去に行った悪いことを指摘するからです。あなたはこういう良くないことをしました、しています、とできれば理由も言いつつ示します。
 非難が前向き、つまり未来志向であるのは、今後どうしたらよいのか、どうすべきなのかの指針も提示して、非難の対象に、これまでのふるまいを反省して、これから変わっていく機会をも与えるからです。一種の教育の可能性を持っているため、非難は前向きであると言えます。
 単なる罵倒や悪口なら、前向きな面を持つ必要がありません。標的をコミュニティの中で下位に置いて、自分の道具として利用したり、あるいはそもそも同じコミュニティから排除することが目的だからです。その人が反省しようと反省しまいと、まったく問題ではありません。出て行ってもらうだけだからです。』
(P82〜83)

ここを読んで、私が多少の「違和感」を覚えるのは、『とできれば理由も言いつつ示します。』と、慎重に書き添えているところだ。
この言葉が意味するのは、「非難」や「批判」では、「理由の提示が、必須条件ではない」けれども「提示した方が良い。オススメですよ。その方が誤解されなくて無難です」ということである。

本書著者は、後の方で「対象の社会的ランキングを下げる」目的で発せられる「悪口」の、「正しい使用例」を、次のように「具体的」に示している。

『 では、そんな悪口とどうつき合っていけばよいでしょうか。最初に、悪口を言う側の観点から考えてみます。本書で提案された悪口の使い方は、まるでサン(※ オーストラリアの狩猟採集民サン族)の人々が若者をたしなめる(※ 大きな獲物を狩ってきても「大したことないな」と言って貶し、褒めない。狩ってきた方も、大した獲物じゃないよと謙遜するのが習慣となっている)ように、大物ぶって支配者になろうとする(※ 「俺は、大物を狩ることのできる、大物なんだ」と思い上がる)人物に向けて、その(※ 誤った)権力(※ 的ポジョニングの効果)を削ぐ(※ 低める)ために使うというものです。ですので、(※ 社会的に高位のポジションを与えられている)政治家がある程度の揶揄を引き受けることは仕方がないと言えるでしょう(もちろん、揶揄だけでなく、適切な非難と批判も数多く向けられるべきです)。
 大学の先生なども、学生に対しては大きな権力を持っているわけですので、学生から多少馬鹿にされても文句は言えないと思います(ほどほどにお願いしたいところですが)。
 ここで「ある程度」「多少」と度合いを区切っているのは、可能性として、立場関係がひっくり返る一種の革命的状況もありえるからです。「下の立場だからこそ言える」というそれだけ見ればもっともな点をゲーム的に利用して、子どもがたいした権力もない学校の先生をいじめ抜く、といったことはおそらく現実にあることでしょう。もはや、下からも支配者を牽制する、というものではなく、自分より弱いものを攻撃する、という結果になっているのです。
 結局、弱いものいじめをするな、という当たり前の真理にたどり着いたとも言えます。私たちは、弱者を踏みつけるために悪口を使うのではなく、強者に抵抗するために悪口を言うべきなのです。
 一番大事なことは、細かいことば尻がどうとかではなく、誰かのランクを下げ、平等さを危うくするような発言をすべきではない、ということです。』
(P140〜141)

つまり、著者が言いたいのは、「人間は平等である」というのを大前提とした上で、それでも「社会的な役割分担」に伴って、実際には「社会的ランクの上下は存在する」という事実を認めており、しかしながらその一方で「社会的な役割分担」を果たすために与えられた「高い(上位の)社会的ランク」に見合う仕事をしていなかったり、その「高い立場(に与えられた権力)を濫用」したりしているのなら、その「認識違いによる、過度に高かまった社会的ランキング意識」を引き下ろすためのものとして、「悪口」が、「非難」や「批判」として正しく発せられ、機能するべきである、ということだ。

ただし、この場合でも、言葉の上っ面だけを見て「社会的に地位の高い人に対しては、悪口も必要(向けられるべき)なのだな」と短絡的に考えてしまう人が少なくなく、そのために「社会的に地位の高い人」に対する「誹謗中傷」までが許されるなどと「勘違い」されては困るので、著者の物言いも、おのずと慎重なものになっている。
実際、ネットでもよく見られるように、「自分は社会的弱者に属する人間だから、社会的強者である政治家や有名人や金持ちを、誹謗中傷しても構わないんだ」と思い違いするような人が少なくない、という現実があるからだ。

著者がここで注意を促すように、「社会的弱者」が「エセ強者」に変わってしまう場合が、たしかにある。
それは、「弱者による多数派共同体」の「権威」濫用であったり、弱者による「匿名」の「優位性」の濫用であったりする。

「弱者による多数派集団」の「権威」利用というのは、自分自身(個々)は平凡な人間にすぎないのに、ある「多数派属性」を持つことから、もっぱらそれを誇示して、あたかも自分個人が「特別な力を持っているかのように振る舞う」態度のことである。
これが、問題なのは、ただのおじさんが「議員」になった途端に「威張り」だすのと同じようなことだと言えよう。「肩書抜きのお前個人は、そんなに威張れるほど、ご立派なものなのか?」ということである。

一方、よりタチの悪くなりがちなのが、「匿名権力」の濫用である。
前述の、「弱者による多数派集団」の「権威」濫用というのは、言うなれば「自分個人の負うべき責任を、所属集団の権威において免除されようとする態度」だとでも言えるのだけれど、「匿名」の場合は、そもそも、その「責任」意識そのものが欠如しており、初めから自分の責任を引き受けようという意思のない態度だと言えるのである。

そんなわけで、当人としては「自分は弱者(不当に社会的ランキングが低い)」から、その「弱者集団」の「多数派属性」に頼ってもいいのだ、とか、「弱者として、自身の身を守るため」の「弱者特権」としての「匿名」も許されるのだとかいった「大義名分」において、言いたい放題の(不適切な)「悪口」が為されてしまう危険性が否定できない。それは、いわゆる「炎上」(バッシング)として、社会問題化してもいる。

だから、本書著者の場合も、読解力において「未熟」であろう若者読者に対する物言いが、どうしても慎重になってしまう。「権力者はぶっ叩いても良いんだよ」などと、歯切れよくは言えなくなる。
「何を言っても良いんだよ」と言っているわけではなく、「言うべきことなら、遠慮なく言っても良いんだよ」という意味で言っているのに、「何を言っても良いんだ」と勘違いする人が、必ず出てくるからだ。

だから、そんな著者の気持ちも十分理解はできるのだけれども、だからと言って、「悪口なんか気にするな(対抗するな)」で済む問題でもないはずだ。
だが、本書の最終章は、そういうところに、「無難」に落とし込まれてしまっている。

『 次に、悪口を言われる側の観点に立ってみます。ここでは、独裁者に対する風刺などではなく、クラスメートからの陰口といった、平凡ですが、身近な例を考えましょう。
 悪口を言ってしまう人の心理は複雑でしょうが、本書の提案を踏まえると、むしろ同情を誘う、かわいそうな状況にある人だとも言えます。悪口を言う人は、優劣のランキングや存在のランキングにとらわれています。誰かを下げずにはいられないから悪口を言うわけです。はっきりと言語化できなくても、自分が下位にいるという意識を持ち、それに耐えられなくなっているのかもしれません。誰かのランクを下げることにより、何とか自尊心を保ちたいのでしょうか。痛々しいものがあります。
 悪口には悪口で返さないといけないのでしょうか。そんなことはありません。それでは、「バカって言う方がバカ」の世界、決闘で名誉を維持していた時代へのさかのぼりです。むしろすべきことは、同じ土俵/決闘の舞台に上がらないで、人にランク差があることを否定することです。悪口はヴァーチャルです。ランキングは幻に過ぎません。誰も誰よりも劣っていないし(違いがあっても)、優れてもいません(違いがあっても)。
 自分で書いていても思いますが、「そうは言っても優劣を感じる」のは否定できません。しかし、感じることと実際にそうかどうかは別物です。容姿がどうだ、能力がどうだ、年齢がどうだ、収入がどうだと人を値踏みして、ランキングをつけて、上げたり下げたりする人々に合わせる必要はありません。何度でも繰り返しますが、悪口はヴァーチャルなものに過ぎません。
 最後に、悪口を耳にする(目にする)第三者の観点から考えます。悪口を言われる側の精神的負担を考えると、言われる側は軽くいなした方がよいわけですが、第三者としては、「しょせんヴァーチャルだ」と軽くいなすだけではなく、「そんなこと言ったらダメ」と批判することも必要になります。悪口は社会的な存在であり、周りが止めれば悪口は止まるからです。
 私たちは、人間のランキングのような、仮想的フィクションにどっぷり浸かって生きています。それと違う生き方をなかなか想像できません。ですので、お互いの悪口AR(※ 拡張された現実的な仮想)レンズを外してあげて、人間同士上も下もないんだということを、あらためて、確認し合うべきなのです。』(P143〜144)

ここで、著者が言っていることは「原則として正しい」。つまり「正論」である。

「悪口を言われたって気にするな。そんなものは事実ではないのだから、相手にする必要はないし、相手にして言い返せば泥試合になるだけで、決して問題は解決しない。だから、そんなものは、カラスが鳴いているくらいに思って、スルーするのが賢明なのだ」ということなのだが、しかしこんなことは、現に「社会的地位の認められている人(大学教授の著者)」だから言えるのであって、何の地位もない者(無名の庶民)が「お前などゴミだ」とか「うんこでも食ってろ」などと言われたら、普通は「すべてはヴァーチャルだ。気にしなければいいだけ(心頭滅却すればら火もまた涼し)」というわけには、ちょっといかないのではないだろうか。

そんなことが可能なのなら、その人はすでに、一種の「悟り」の境地を開いた「覚者(ブッダ)」と言っても過言ではない。
「そこにそれが存在しているかどうかは、究極的には確認手段などない。したがって、すべては私の中に生まれる(認識される)、私の生んだ虚像だと考えるべきだ」という「独我論」であるとか、「すべては空である。空から生起する、一時的な現象なのだから、気にすることはない。そんなものは本質を欠いて虚しいものなのだ」といった、仏教的な「空論」みたいな境地を、本書著者は、「悪口を言われている人」たちに、求めているも同然だからである。

もちろん、それができれば苦労はないが、そんな人は1000人に1人もいないだろう。
たしかにその場では、無視してスルーしても、そのあと、ずっと悔しさに苛まれ「ダメ元でも、ひとこと言い返してやればよかった」と後悔することになる場合だって、決して珍しくはないはずなのだ。

そして、そのことは、本書著者自身も重々承知しているから、「当人が言い返すのではなく、周囲の者が、悪口を言う者を嗜めてやるべきだ」とフォローしているわけなのだが、これも、言うほど簡単なことではないだろう。
ぶっちゃけて言えば「自分のことでもないのに、わざわざトラブルに巻き込まれるのはごめんだ」となって、傍観者に止まることの方が多いからである。
たぶん、著者自身だってそうだろう。

しかし、そうなると、悪口を言われた人は「言われっぱなし」であり、悪口を言う方は「言いたい放題の野放し」になってしまう。一一では、どうすれば良いのか?

その答が、本書には書かれていない。なぜなら、「理想的かつ高度な対応」を求めたところで、多くの人には「実行不可能」だろうと、著者が考えているからであり、著者自身でさえ、それが十全には実行できないと思っているからである。
つまり、「勇気ある、適切な非難・批判」が行いえず、多くの場合は、保身的に「傍観者」になるだろうと思っているから、読者に対しても強くは要求できず、無難なところでまとめてしまうのである。

したがって、あるいは、しかしながら、本書は、多くの読者向けの「基本的教養書」としては、これはこれで良いのではある。「ここから先の上級編は、本書の任ではない」ということだ。

だが、私としては、もちろんこんなことで満足はできない。結局のところ、これでは「泣き寝入りのススメ」にしかなっていないからだ。

では、どうすれば良いのか?

私の結論は「自分を磨いて強くなれ。そして、堂々と正義をなせ」と言うことになる。
「力が正義ではない」というのは当然の前提なのだが、しかし「力がなければ、正義が為せない」というのも否定し難い「現実」である。一一ならば「強くなって、その力で正義をなす」しかない、ではないか。

もちろん、人は「力」を持ってしまうと、それを「正義」のために使うのではなく、つい「私利私欲」のために使ってしまいがちである。
たとえば「汚職政治家」だって、全員が全員、最初から「汚れた人間」だったわけではなく、最初は「理想に燃えた人」だったのかもしれない。
だが、「権力」を与えられることによって「悪魔の甘い囁き」に晒され、堕落してしまうといったことは、決して少なくないないのだ。
しかしまたそれは、その人が、本質的には「弱い」からでもある。

だから、「正義」をなすためには、「力」と同時に、その「重荷」を堪え切る「強い心」が必要となる。当たり前の「権勢欲」になど流されない、「強靭な精神」が必要なのだ。

だが、あなたは、そんな「強靭な精神」を持って、あえて「損」を取ることができるだろうか?


(2923年12月14日)

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