奥山篤信『キリスト教を世に問う!』 : たまにダメな本を読むのも勉強のうち
書評:奥山篤信『キリスト教を世に問う!』(展転社)
私の前に3人の方がレビューを書かれているが、いずれも評価としては妥当だと思う。
ただし、期待をもって本書を読みはじめたらしい点については、いささかいただけない。
そもそも『キリスト教を世に問う!』という「!(感嘆符)」付きのタイトルだという点で、批評書としては「B級感」がプンプンするではないか。
無論、保守派の著作には「!(感嘆符)」付いたタイトルが多いので、そういうのばかり読んでいる人は気づかないのかもしれないが、「!(感嘆符)」が、「理性」ではなく「感情」優先の表現として使われるといった事実や、俗な目を惹きやすい表現だということくらいは理解しておいてほしい。
つまり、このタイトルから、なにやら熱狂的な「告発本」であることは容易に推測できるのだが、その一方、装丁の方は意外にスッキリしていて、保守系の著作によくある「著名人でもないのに、帯にデカデカと著者の顔」なんてことをやっていないのは救いではあったし、帯文の『これでもキリスト教を信じますか?』という惹句も、抑制がきいていて良かった。外見だけなら、案外まともな本かもしれないと思わせる、おちついた造りにはなっていたと言えるだろう。
しかしまた、推薦者が、あの西村真悟先生という段階で、決定的にお里も知れよう。
西村先生について、特に詳しいわけではないが、なにしろ、テレビニュースに登場するときはいつも、その素っ頓狂な言動のためだし、「新銀行東京」問題や「築地市場」移転問題などの「口だけ政治家」石原慎太郎や、『宇宙戦艦ヤマト』のプロデューサーとして悪名を轟かし、銃刀法違反で捕まったりして晩年まで話題の絶えなかった西崎義展なんかと仲が良かったようなイロモノ政治家だった人なのだ。
それでも、他のレビュアーも指摘されているとおり、著者は立派は経歴のお持ちだし、なにより神学を学んだことがあり、留学までしているというのであるから、キリスト教にどんな怨みがあるにしろ、それなりに聞くべき意見もあるかもしれないと、本書を読んでみることにした。
ただし、かくも見るからに「地雷本」なんだから、1800円も払ってまで読む気はなく、ブックオフ・オンラインの198円で購入した。半分は「恐いもの見たさ」で読むのだから、無駄な出費は抑えたかったのだ。ご勘弁願いたい。
で、やっと本書の内容だが、最初に書いたとおり、先行の3レビュアーの評価に尽きよう。
とにかく、文章が下手である。どう下手なのかというと、要は「論理的な文章が書けない」人なのだ。書いているうちに気持ちが先走っていき文章がぐだぐだになるタイプだ。つまり、学力はあったのかも知れないが、いわゆる「地頭」の方は、あまり良くない人なのである。
それでも、マトモな出版社からの刊行であれば、校閲がこのどうしようもない文章を、原形をとどめないくらいに真っ赤にしただろうが、どうやらこの展転社という出版社には、校閲係がいないだけではなく、文章を添削できる編集者すらいなかったようだ。
著者校正を怠った著者自身にまず責があるとしても、少しはマトモな編集サイドの人間がいれば、著者がここまで言われることもなかったはずなのだ。
例えば、安倍晋三首相をヨイショすることで世に出た三流著述家の小川榮太郞のせいで廃刊に追い込まれた『新潮45』だったら、内容は直しようもないが、すくなくとも読むのに苦痛のない文章には直してくれたはずだ。しかしまた、言い変えれば、あの雑誌に載っていた保守系著述家の文章は、じつはそうとう手直しされていた、なんてことも十分ありえる話なのである。
ともあれ、本書の版元で、聞いたこともない出版社である「展転社」について調べてみると、Wikipediaには次のようにあった。
ま、あの西村真悟先生が出版の口利きをしてくれた出版社らしいので、こういう感じだろうなと、じゅうぶん納得できた。
さて、やっと本書の内容に関しての私の意見だが、著者のキリスト教批判はいたってマトモである(特に事実関係の報告は参考になる)。
ただし、その批判の水準は高校生並みであるというだけだ。
高校生並みなのが悪いわけではない。例えば「イエスが死後三日目に復活したなんて、今どき誰が信じられるか」とか「神父の性的暴行を隠蔽していた、ローマ法王は許せない」といった具合の批判は、極めて真っ当なものなのだ。だが、そんなことなら、わざわざ本を1冊読まされるまでもないことだし、言っていることは極めてシンプルなのに、無駄に「学者の論文を真似たような書き方」をするものだから、読む方は「イタいなあ」としか思えなくなるのだ。
この人の「キリスト教の欺瞞」に対する怒りは損得抜きの本物だと思うし、よく勉強もしてるし、人柄も決して悪くはないのだろうと思う。
ただ、著者は「よくいる、自信過剰の頑固オヤジ」でしかないのだ。自身の狭い了見の内に止まって、どんどん凝り固まっていき、無駄に正義感を募らせる。だから、自分のことが、まったく見えていない。
しかし、批評能力を測るうえで、最も重要なポイントとは「自己相対化(自己批評)能力」なのだ。だが、この人には、それが致命的に欠けているのである。
「奥山さん、お説ごもっともですが、貴方がそれを言いますか?」ということである。
人がここを読んで、こうに思うとは、著者はすこしも考えていない。それは、自分が他人の目どう映っているのかが、まるで分かっていない証拠であり、要は自身を「客観視」する能力が無く、批評家としては致命的な欠陥の持ち主だ、ということなのである。そもそも、自分の文章をろくに推敲しないというのは、思い込みによる決めつけが激しく、自身を顧みる謙虚な姿勢の欠如を示しているとも言えるのだ。
くりかえすが、悪い人ではないと思う。しかし、著述家としては三流で、こんな人に原稿を書かせる『WiLL』や『月刊 日本』は三流誌としか評価のしようがないし、こんな著者の本を誉めることができる人というのは、マトモな本を読んだことのない、ものの見方が偏頗で、あまり頭の良くない人たちに違いなかろうと、私には結論されるのである。
ともあれ、「人の振り見て、我が振り直せ」ではないが、いろいろ考えさせられもしたので、198円の価値なら十分にあったと思う。
初出:2019年3月7日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除)
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