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将基面貴巳 『従順さのどこがいけないのか』 : 〈服従〉の 自覚的自己正当化という〈積極的服従〉

書評:将基面貴巳『従順さのどこがいけないのか』(ちくまプリマー新書)

本書で語られているのは「若い読者向けの、基本的な考え方」であるというのを、大前提として、まず理解しておかなければならない。でないと「現実には、そうはいかないよ」と、あれこれ「言い訳」をつらねて、自己正当化を図ることにしかならないだろう。

じっさい、本書で著者も指摘いるとおり、日本人には自立心が欠けており、右向け右に安住していられる体質なのであれば、そうならない方がおかしいのだ。
無論これは、本書の「大人の読者」においても例外ではないし、むしろ変に「知恵のついた大人」ほど、「言い訳」も巧みになりがちである。

本書は、徹底的に「正義の原理」を「論理的」に説いた本である。当然「知恵のついた大人」の読者に最初の思い浮かぶ「言い訳」とは「正義は一義的ではない=何が正義かは誰にもわからない」といったことだろう。

たしかに、そのとおりである。そのとおりではあるが、しかし私たちは、日常生活において、常にこの「正・不正」判断をしながら生きている。できないできないと言いながら、実際にはそれをやっているのだから、事実としてやれないことではないし、やっていないわけでもないのだ。ただ、その判断が「必ずしも正しい」とは限らない、というだけの話である。
しかし、これも当たり前の話で、人間は「神様」ではないのだから、最善を尽くしても「間違う」存在であり、ならば、できることとは、できる限り最善を尽くすことだけだというのは、理の当然なのである。

そして、完全にはできないけれど、目指すべき「最善」を示したのが、本書だと言えるだろう。
なぜ、著者はこんな、当たり前の「理想」を語らねばならないと考えたのか。それは、こうした「理想」というものが、わが国においては、「当たり前」でもなければ「理想」でもないものとして、子供たちに「教育」されているからである。

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「教育」問題に、少しでも興味のある人なら、日本の教科書が「自立心」を養う方向から「協調主義」へと変わってきていることくらいは知っているだろう。
これは「もともと自立心のあった国民が、協調主義に変わってきている」ということではなく、もともと「和をもって尊しとなす」ばかりで、およそ「自立心に欠ける国民性」を是正するために、自立心を養う教育のなされてきたのが、近年は「保守」勢力の台頭によってそれが翻され、「皆に従え」という悪しき民族的習慣としての「協調主義」へと反動的に歪められてきている、ということなのだ。
だからこそ著者は、もう一度「自立心」を説かなければならないという、危機意識を持ったのである。

本書で、特に注目すべき論点は、著者が「時には、そして最終的には、暴力も肯定される」と論じている点であろう。これは「日本人的タテマエ論」の世界では、タブーに類する議論である。

そもそも、国家というものは「暴力」を独占的に行使している、という明白な現実がある。また、だからこそ個人の「暴力」行使を認めないだけなのだ。

個人の「暴力」行使を認めてしまうと、腕力の強い者が利益を独占する社会になってしまう公算が大だから、「国家」が独占的かつ公正適切に「暴力」を行使する一一という前提(タテマエ)で、国家は「主権者である国民」から「暴力」の独占を許されているだけなのだが、実際には、その「暴力」によって「暴力管理者たる政府」の側に属する「エリート」たちだけが「個人的な利益」を得ている、というのは周知の事実である。

ならば、すでにそうした、不正な「国家」や「政府」には、「暴力を独占する」資格はない。
つまり、そういう「国家」や「政府」からは、「暴力の独占」という「権力」を取り上げて、主権者たる「国民」が、その本来的に所有する権利である「暴力」を、「無権者」である「不正な国家・政府」に対して行使しても、なんら問題ではないし「不正」でもないのである。一一これが、著者の言う「最終手段としての暴力」の肯定だ。

ところが、我が国においては「暴力はいけません」という、国家・政府に都合のいい、ナイーブで子供向けの「教説」による洗脳がなされており、現に、個人的な「暴力」を日常的に振るっている大人たちにさえ、それが信奉されている。
自身が「親」として「子」に対し、「上司」として「部下」に対し、合法的な「暴力=強制力」を振るっているということに、まったく無自覚で、ナイーブかつ愚かにも、自分が「暴力否定の平和主義者」だなどと思い込んでいるのである。だが、言うまでもなくこんなものは、知的「盲目」としての「無知」であるとしか言えないだろう。

例えば「日本共産党は、いまだに暴力革命論を捨てていない」などという「保守派の言説」に惑わされて、「やっぱり、共産党は怖いし、信用できない」などと、ナイーブに考えてしまう人が少なくない。テレビのアナウンサーやコメンテーターですらそうなのだから、ましてや一般国民においておや、である。

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(※ 上は「日本共産党」を騙る謀略ビラ)

しかし、日本共産党が今も「革命」の達成を本気で考え、多くの弱者が救われる社会の実現を本気で目指しているのであれば、「最終的な暴力行使」を否定することなどできる道理がない。
昔あったような「左翼小児病」的な「冒険主義」的「暴力」行使は論外だが、革命を本気で考えているのなら「最終的な暴力行使」は考えていて然るべきであり、考えていないのなら、それは「口だけの役立たず」だということにしかならない。

だが、多くの日本人は「日本共産党は、いまだに暴力革命論を捨てていない」と言われると「共産党は怖い」「暴力は絶対にいけない」と考えて、現在の国家が「暴力を独占的に行使している」という事実には、てんで思い至らない。これが、平均的な日本人の現実なのである。

事ほど左様に、私たちは「当たり前」に洗脳されて、根源的現実から思考できなくなっている。
だから「子供に教えるように、基本から教えなければならない」のであり、その結果、必要にかられて書かれたのが、本書なのだ。

「暴力は絶対にいけない」という「現実を無視した思考停止」は、しかし意外にも「現実は、そう理想どおりにはいかない」という、本書に対する「大人の言い訳」と、軌を一にしている。

と言うのも、「現実は、そう理想どおりにはいかない」なんてことは、著者だって百も承知で、それでも多くの日本人には、認識を改めてもらわなければならないから、あえてこのような「人間として原理原則」を語った本を書いた、というのは自明な「事実=現実」だからだ。
したがって、こんな「わかりきった現実」を無視して、自身に都合よく「現実は、そう理想どおりにはいかないよ」などと、したり顔で「言い訳」できるというのは、現実無視の「幼稚な思考停止」があるからに他ならない。

「わかっちゃいるけど、止められない」などという「わかっていないが故の言い訳」を、利口ぶって語る者ほど「悪しき存在」はいない。
現実を変えていくことが困難だというのは誰もが承知している事実だが、それでも変えなければならない悲惨な現実があるからこそ、原点に立ち返って「原理原則」や「理想」が語られなければならないのだ。

だから、「言い訳」としての「わかっている(けど止められない)」は、「わかっていない」証拠だと、少なくとも本書を読むほどの人ならば、「メタ的視点」に立って、覚悟すべきである。
誇りある者ならば、自身の利口ぶった「負け犬の言い訳」に、他人まで巻き込んで、自己を正当化するような「徒党」を望むべきではない。

「できない」ではなく「やれていないだけなのだから、やれるところからやる」のだ。
小指の先からでも、今の現実への抵抗を始めるべきだ。小指の先から、「覚醒」を目指すべきなのである。

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初出:2021年9月23日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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