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宮本顕治著 『日本革命の展望』における 〈暴力革命〉の位置付け

書評:宮本顕治『日本革命の展望 綱領問題報告論文集』(新日本新書)

志位和夫委員長がひきいる現在の「日本共産党」は、「暴力革命論」を明確に否定している。しかし、多くの論者はそれを「嘘」だと指摘して「日本共産党は、今も暴力革命論を捨てていない」と言う。
一一いったい、どちらが真実なのだろうか?

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これは、日本の政治に興味のある多くの人が、多かれ少なかれ抱えている「疑問」なのだが、それを日本共産党の文献にあたって確認した人は、そう多くないはずだ。
テレビなどで「共産党は、今も暴力革命論を捨てていない」と明言して、共産党を批判している人でさえ、そういう人も少なくなさそうである。

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(※  八代英輝弁護士は、日本共産党の「綱領」は無論、『日本革命の展望』も読んではいなかったのだろう。伝聞情報による「知ったかぶり」だったわけだ)

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しかし、今回、この問題について論じた、宮本顕治『日本革命の展望 綱領問題報告論文集』を読んだところ、この疑問は、意外にもあっさりと解消した。
この本は、日本共産党の「暴力革命論」保持の事実を示す根拠文献だと、警察さえ認めている「権威ある本」である。

戦後長らく日本共産党委員長だった宮本は、本書で明確に「平和路線一本に限定して、自らの手を縛るのは、非現実的であり愚かな選択だ。可能なかぎり平和的な方法での民主的な自由主義革命を行うべきだが、しかし、現体制が、体制の本質的転換を迫られれば、手段を選ばず革命潰しの挙に出るというのは、すでに歴史の証明した事実なのだから、私たちは平和路線を推す進めながらも、いざ、現体制が暴力的な革命潰しに出てくれば、それに力を持って抵抗することを怖れてはならない」という趣旨のことを語っているのだ。

つまり「平和路線」を推し進めていくが、「敵の出方」に寄れば、それへの実力行使による抵抗反撃も辞さない、ということである。これが、世に言う「敵の出方論」である。

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(歴代の日本共産党委員長。
左から、志位和夫、宮本顕治、不破哲三)

見てのとおり、宮本の意見は、しごく「常識的なリアリズム」に立脚した意見だと言えるだろう。
ここでの宮本の意見は、1961年に制定された所謂「61年綱領」の意義を説明するものであり、「暴力革命しかあり得ない」とした「51年綱領」との違いを明確にする一方、「51年綱領」における失敗の反動から、共産党内部にさえ湧き上がっていた「平和革命(一本槍)路線」の楽観主義を批判するものでもあったと言えよう。要は、日本の自民党政府を完全に牛耳ている「アメリカ帝国主義」を甘く見てはいけない、という趣旨のものであった。

したがって、この「61年綱領」が現在も生きている状態をして「共産党は、暴力革命を捨てていない。すなわち、日本共産党の真の狙いは暴力革命であって、平和革命論はお為ごかしの建前だ」とする批判は、共産党側の見解に接するの労を惜しむだろう多くの人たちに対する、意図的な欺瞞であり、政治的なプロパガンダでしかない。

先般の、ミャンマーでの軍隊による民主政治潰しを見ても明らかなとおり、「軍隊や警察」といった「統治のための暴力装置」を握っている権力者は、自分たちの立場が危うくならない範囲でなら「民主化」も認めるけれど、自分たちの権益が犯されたり、現体制そのものが本質的に転換されるような「革命」に対しては、手段をえらばずに潰しにかかるというのが、古今東西を問わない現実なのである。
たとえば、私は無論、読者であるあなたが「権力者の側」であったなら、きっとそうするはずだが、いかがだろうか?

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(クーデターにより民主政府をつぶしたミャンマー軍)

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(香港の民主デモを弾圧する香港警察)

つまり、いざとなれば「暴力をつかってでも、民主的な社会主義革命を潰しにかかる現体制」に対して「暴力的な抵抗」を捨てないというのは、ごく当たり前の話でしかない。

あなたが「平和主義=非暴力主義」者であったとしても、刃物を持った狂人が、あなたの恋人や子供にいきなり襲いかかってきたら、あなたはそれを「力づく」でも止めようとはしないだろうか?
それともあなたは「平和主義者=非暴力主義者」として、まさに襲いかかってきている暴漢に対して、「口だけ」の説得を試みて、恋人や子供などと共に、むざむざ殺される覚悟なのだろうか?
仮に、あなたの掌の中に拳銃があり、それを使えば目の前の凶行を止めることができたとして、それでも「平和主義者=非暴力主義者」であるあなたは、暴力は絶対にいけないことだからと、その拳銃を使わずに、「口だけ」の説得を試みるのだろうか? 

だとすれば、あなたは確かに「言行一致」で立派な人だと言えるのかもしれないが、その一方、あなたは「刃物を持った狂人」以上に「狂っている」ということにも、なるのではないだろうか。

したがって、民主主義革命を行い、次に社会主義革命を行なって、平等な民主社会の実現を目指す共産党としては、民主主義革命の段階から「平和主義一本槍」でいく、などという「眠たい議論」を選べないのは、当然であろう。

しかし、戦後の「東西冷戦」下で、アメリカ帝国主義の側に組み込まれた日本は、西側(資本主義=帝国主義・側)に与する国家として、アメリカのバックアップの下、急激な経済発展を遂げて、いわば「このままでも悪くないよなあ」という雰囲気が強く支配し始めていたのであり、それは共産党内部においてすら同様だった。
つまり「資本主義体制もそんなに悪くはないじゃない。実際、我々は裕福で幸せな生活を取り戻したわけだし」と感じている共産党員からは「世界的な平和運動を進めるべきではあるけれども、もはや日本はアメリカから、なかば独り立ちしたも同然で、そこまでアメリカを目の敵にして恐れる必要などないんじゃないか。アメリカだって、もう同盟国である日本に一目置いているはずだから、我々は、対アメリカ帝国主義よりも、反核反軍縮などの国際的な平和運動と、国内的な独占資本との戦いを優先すべきではないか」という意見が出てきていたのである。

共産党の「61年綱領」は、「51年綱領」の「暴力革命あるのみ」路線を否定しつつも、しかし、こうした「(アメリカ帝国主義の怖さをなめた)平和路線」の「平和ボケ」を牽制するものであった。「平和路線でいくが、敵の出方のよっては、暴力的な抵抗反撃も辞さない」というのは、そういう意味なのである。

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(※  他国の政治体制の転覆は、軍隊だけの仕事ではない)

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(※  世界的な言語学者にして平和運動家のチョムスキーは、公開された公文書から、外国政府への、アメリカ政府の政治的謀略の数々を立証している)

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(※  エドワード・スノーデン。アメリカ国家安全保障局 (NSA) および中央情報局 (CIA) の元局員。それまで陰謀論やフィクションで語られてきたNSAによる国際的監視網(PRISM)の実在を告発した)

したがって、現在の志位委員長が「平和路線でいく。暴力革命は捨てた」と主張しているのは、まったく正しいし、どこにも「嘘」はない。
志位委員長は「積極的暴力主義など採らないが、敵が暴力行為に出れば、正当防衛としての暴力を選ぶことは、当然、辞さない」と考えているのであり、これは私たちが「正当防衛は、悪しき暴力ではない(正当な暴力行使である)」と考えているのと、何ら変わらない「常識的」議論に過ぎないのである。

したがって「共産党は、暴力革命を捨てていない。すなわち、日本共産党の真の狙いは暴力革命であって、平和革命論はお為ごかしの建前だ」とする批判は、現体制から多くの受益のある「現体制派」による意図的な欺瞞であり、政治的なプロパガンダでしかない。あるいは、そのプロパガンダを真に受けて、その口真似をしているだけの「無知な人」でしかないのである。

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このように、共産党が、今も維持している「61年綱領」の語るところは、決して「恐るべき暴力革命論」などではない。それは、「現体制側」による「印象操作」でしかないのだ。

現在の私たちは「アメリカ帝国主義と、それと結んだ日本の独占資本」などというと「時代錯誤で極端な考え方」だという印象を受けるだろう。
しかし、「61年綱領」が制定された当時、日本共産党の内部にすらあった「世界的な平和運動を進めるべきではあるけれども、もはや日本はアメリカから、なかば独り立ちも同然で、そこまでアメリカを目の敵にして恐れる必要などないんじゃないか。アメリカだって、もう日本に一目置いているはずだから、我々は、対アメリカ帝国主義よりも、国際的な平和運動と、国内的な独占資本との戦いを優先すべきではないか」といった「楽観論」が、大きな間違いであったことを、「その後の歴史」に学んだ、今の日本人なら、たしかに知っているはずで、その主な事例は、次の二つである。

(1)バブル経済の崩壊
(2)民主党政権の崩壊

(1)について。
世界的な経済不況が吹き荒れる中で、日本だけは好景気を謳歌していた。それは「バブル経済期」であり、当時、日本の経済力は、アメリカを抜いて世界一となり、日本人は「世界一豊かな国」の国民として、いわば「天狗」になっていた。
近年では、中国人が日本の不動産などを買い占めたりすることを苦々しく思っている日本人だが、バブルの頃の日本人は、アメリカの有名企業を買収するなど、カネにあかして、その『ジャパン・アズ・ナンバーワン』(社会学者エズラ・ヴォーゲルによる1979年の著書)ぶりを臆することなく、傍若無人なまでに繰り広げていたのであり、アメリカ国内では、日本車に圧されて売れなくなったアメリカ自動車会社の労働者が、日本車をハンマーで叩き壊すといったパフォーマンスを繰り広げて、日本への憎悪を、目に見える形で示していた。

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当然、アメリカ政府は、日本に対して「経済摩擦」の改善を求めていたが、儲かって儲かって、すっかり天狗になっていた「金満日本」の政府が、そうした好ましい状況に歯止めをかけることはできなかった。
その結果、アメリカ政府はついに「プラザ合意」を発動させて、日本の経済活動に介入し、ついにバブルを崩壊させたのである。

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一一つまり、アメリカが本気になれば、日本の経済的優位など、いつでも転覆できるということであり、しょせん日本は、アメリカには逆らえない「属国」に過ぎなかった、ということなのだ。まさに日本は、戦後ずっと「アメリカ帝国主義」に組み込まれたまま、だったのである。
そして、そうした事実は、今も「世界水準」に遠く及ばない、不平等な「日米地位協定」の現実にも明らかであり、だからこそ「検疫を経ずに、自由に入国できる米軍」基地から、コロナウィルスのオミクロン株が急拡大したりもしているのだ。

「アメリカ帝国主義」下に組み込まれた「属国」。一一それが日本であり、1961年当時、「アメリカ帝国主義を甘く見てはいけない。それは少しも弱体化してなどいない」という警鐘を鳴らし続けた「61年綱領」の主張は、完全に正しかったのである。

(2)について。
長年続いた自民党政権が転覆して「民主党」政権が誕生したのは、自民党政権が、国民をおき去りにして「身内の派閥政治」に明け暮れたからであり、それにうんざりした国民は、「民主党」の清新な政治に期待を寄せた。

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(※  市街地のど真ん中にある、米軍普天間基地)

しかし、沖縄の「辺野古基地移設問題」で、沖縄県民の民意を受けた鳩山由紀夫首相が「最低でも県外」と発言し、「できれば国外」への移設を目指したものの、自民党政権下で構築された官僚システムの抵抗と、何より「アメリカ政府」の無視と反撃にあって、その無力をさらけ出し、あえなく方針転換した、というのは記憶に新しいところだろう。
これが意味するのは、無論「今も日本は、アメリカ帝国主義下に組み込まれている属国であり、国民の意思よりもアメリカ政府の意向が優先される」という現実である。

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(※  なすすべもなく崩壊した、鳩山由紀夫民主党政権)

結局のところ「民主党政権」は、「61年綱領」の頃に「平和主義革命路線」を主張した共産党員と同様の「現実を知らない、甘ちゃん」だったからこそ、アメリカの「虎の尾」を踏んで、あえなく崩壊させられたのである。
言うまでもないことだが、「民主党政権の崩壊」は、アメリカ政府の介入に対し、物理的に抵抗する「力」を何も持たず、ただ「民主主義的平和主義」という「理想」しか持たなかったせいである。「刃物を持った暴漢を、口だけで説得しようとして、あえなく刺し殺された」のが、「民主党政権」だったのだ。

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このようなわけで、日本共産党に今も生きている「61年綱領」の「敵の出方論」は、まったく正しい。
「暴力を保持する現体制」を本質的に否定して、まったく新しい政治体制を築こうとする「政治革命」においては、「平和主義一本槍」などというものは、まさに「自殺行為」でしかないのだから、「対抗暴力」を担保しておくというのは、私たち「正常人」の「常識」に沿った考え方であり、異論の出るところではないのである。

だから「共産党は、暴力革命を捨てていない。すなわち、日本共産党の真の狙いは暴力革命であって、平和革命論はお為ごかしの建前だ」などという、ためにする批判を真に受けている人は、是非とも本書『日本革命の展望』を読んでほしい。

共産党批判者である、元外交官の佐藤優が「共産党にとっては、読まれたくない本だから、現在は絶版になっている」と主張する本書は、古本ならば、いくらでも出回っており、Amazonなどでの購入も容易に可能だし、いろんな版型で刊行され何度も増刷された、共産党の「基本的理論書」であるため、古本価格も決して高くはなく、今の新刊本程度の価格でしかない。

私が読んだ新書版も、上下巻合わせて450ページほどの本なので、京極夏彦の「妖怪シリーズ」などよりはよほど薄く、硬い文章ではあれ、内容的にも決して難しいわけではないから、「知的怠惰」に犯されていない、「日本共産党」批判者および懐疑者を自認する人なら、是非とも本書を読むべきであり、読む義務があるとさえ言っても良いだろう。
ともあれ、私のこの解説文を読んでからなら、本書『日本革命の展望』など、容易に理解できると保証しておこう。

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さて、以上は、日本共産党が、今も「暴力革命を、拒絶否定しているわけではない」という事実についての説明であり、それは当然の選択でしかない、という趣旨の解説であった。
しかし、だからと言って、私は、日本共産党が掲げる「社会主義革命」に「問題がない」とか「完全に正しい」などと言っているのではない。
そうではなく、むしろそれは「絵に描いた餅でしかない」と考えている。
どういうことなのか、説明しておこう。

前記の「61年綱領」が制定された当時、すでにソ連共産党第一書記フリシチョフによる「スターリン批判」なされていたとは言え、まさにそうだからこそ日本共産党は、自浄能力のある「ソ連共産党」が語るところの「理想」を、きわめてナイーブに信じ、それに基づいて「アメリカ帝国主義と、それにつき従う日本の独占資本(とその政府)」と戦うことで、理想社会の実現が可能だと信じ、「社会主義国家」の樹立を目指していた。

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(ソ連中央委員会第一書記、ニキータ・フルシチョフ)

たしかに、「アメリカ帝国主義」とそれにつき従う「日本の独占資本(とその政府)」が、非難され、転覆なり改善なりされるべきものだというのは、事実である。だが、そうした悪しき体制を転覆した後の「理想的政治形態」とは、果たして「ソビエト共産党」の示したようなもので良かったのであろうか?

のちに日本共産党は、「そうではなかった」という「不都合な現実」の数々を知らされ、見せつけられることになり、否応なく、方針転換せざるを得なくなる。

本書の中でも「同志」と呼ばれているフリシチョフが、1956年に行った、独裁政治批判としての「スターリン批判」によって示された「ソ連共産党」の健全性は、しかし、フリシチョフの失脚と、その後を襲ったブレジネフによって、再び独裁政治へとねじまげられ、もはやソ連は「赤い帝国主義国家」としか呼びようのないものとなってしまい、日本共産党は「国際共産主義運動」路線を、捨てざるを得なくなった。
つまり「61年綱領」当時は、まだ実例として存在していた「理想の共産主義国家」は、今やどこにも存在せず、「理想は理想でしかなくなってしまった」のだ。

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(ソ連中央委員会書記長、レオニード・ブレジネフ)

だから、現在の日本共産党が保持している「61年綱領」の理想に従って、「アメリカ帝国主義」と「日本の独占資本」の支配から日本を解放し、さらに「社会主義」革命を成功させたとしても、そこで実現した「平等な共産主義社会」が、額面どおりのものとして機能しうるという「現実的保証」など、どこにもないのである。

たしかにうまく言えば、そうなるかも知れないけれど、そのように万事うまくいった先例など、実際のところ、ないに等しい。
まして日本は、今でも経済大国だから、アメリカは無論、ロシアや中国だって、放っておいてなどくれない。「自分たちはこれで満足している」というだけでは済まされず、おのずと強国からの政治的介入を受けざるを得ない。そんな状況下において、仮に、日本で共産主義社会が成立したとしても、それが「国内的理想どおりに存続運営される可能性」など、ほとんど無いに等しいのではないだろうか。

つまり、私は、日本における「理想主義的な社会主義革命」の実現などということは、現実的ではないと考えている。
したがって、共産党の「61年綱領」の正しさも、「アメリカ帝国主義と日本の独占資本による支配は、改められべきだ」という主張においては「完全に正しい」と考えはしても、だからこそ「社会主義革命に進むべきだ」とは考えない。

私にとっての「社会主義」や「共産主義」の「理想」は、「人間の度し難い現実」を「牽制する」ためのものではあり得ても、「人間の度し難い現実」を、根本的に「改革」できるものだとは思わないからである。

したがって、「社会主義」や「共産主義」の「理想」には、基本的に賛同するし、「共産党の暴力革命論」などといったことをあげつらう「現体制(権力)の走狗」を批判しはするけれども、「社会主義や共産主義の理想」を「完全無欠なもの」あるいは「実現し得るもの」として「信仰する」つもりはない。

私は、どこまでも「無神論者」なのである。


(2022年1月11日)

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