自己批評としての〈史学史〉
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自己批評としての〈史学史〉

書評:成田龍一『歴史論集1 方法としての史学史』(岩波現代文庫)

「史学史」とは聞き慣れない言葉だが、その意味するところは、見てのとおり「史学の史学=歴史学の歴史学=メタ歴史学」あるいは「歴史学批評」と理解していいだろう。
歴史学者である著者による「歴史学批評」論文を、全3巻にまとめた「成田龍一歴史論集」の第1巻が、本書『方法としての史学史』である。

著者は、歴史学者として(当たり前に「自身の視点」からの)「歴史」を語るだけではなく、「歴史を語るとは、どういうことなのか」「歴史を語る私とは、歴史に対してどういう立ち位置に立つ存在なのか」なのかといった「学問ジャンルとしての歴史学」や「歴史学者」という存在を「対象化」して検討し、「語られる歴史」「歴史を語る」といったものやことが、「想定されたもの」としての「自然物としての歴史」にそのままかかわるものではなく、人間によって「方法的」に、つまり「人為的」に生み出されるものであることを意識し、常にその「作為」の部分に対し批評的な目を向けて、自己点検としての自己批評を行なっている。
こうしたことは、当たり前に行うべきことだ言えば、たしかに当たり前であるべき所作なのだが、じつのところ誰にでもできることではない。

まず、私たち素人は、「歴史」というものを「客観的存在者」であるかのように感じがちだけれども、それは、「誰か」によって「編集的」に語られて、初めて存在するものであるし、それでいて、決して「フィクション」ではない。
さまざまなかたち(文書や記憶)で残された「過去の断片」を編集して、ひとつの「過去像」として示したものが「歴史」であると言えるだろう。

当然、どういった「過去の断片」を「素材」として採用するか、その素材をどう「評価」して、どういう「視点」から「編集・再構成」するのかによって、「個々の歴史(像)」は大きくその姿を変える。
だからこそ、「人間の過去の営み」に対し、不誠実に、そして自堕落に、自身の「欲望」だけに従って、それを「恣意的」に編集したり、故意に「改変」して恥じない「歴史修正主義」といったものまで登場して、「歴史」あるいは「歴史学」は、「過去」の所有をめぐるアリーナと化してしまう。

だからこそ、私たちは「無自覚に歴史を語る」のではなく、「歴史とは何か」「歴史を語る私は、どういう立ち位置に立っているのか」ということを意識し対象化して、「歴史」に対して「誠実たらん」としなければならないし、誠実であるための方法論を意識化しなければならない。そうした視点から「不誠実な歴史家」の「不誠実な歴史作法」を批判し否定していかなくてはならない。

また、「歴史を語る者自身が、歴史を語る者を検証する」という「歴史学における自己批評」は、どんなジャンルであれ持っている「自己批評の困難性あるいは不可能性」への自覚でもあらねばならない。
「歴史」に対して、「誠実」であろう「客観的」であろうとしても、人は完全には「自分の外」に立つことはできないから、自分の感情や視点から、完全に自由になることはできない。だからこそ「史学史」は必要なのだ。

過去の歴史家たちが、精一杯誠実に「歴史」に向き合おうとしてきた、その「苦闘の歴史」をあえて検証し、その「客観性の限界」を、今の私たちの教訓とする。「見えていない限界」を持つ私たち自身の似姿として検証し、「主観や恣意の罠」への備えとするのである。

だから、こうしたことは何も「歴史学」に限ったことではなく、人間の活動のすべてに関わる問題だろう。
「歴史」を持たず「今」だけを生きている他の生物には、こうした「客観視」は不可能だし、だからこそ、その「困難」に苦しむこともない。だが、曲がりなりにも「過去」を思考し、「自身」という立場の特異性を意識する「知能」を持った生き物としての人間であるかぎり、私たちは「人間としての尊厳」を持って、「人々の過去の営み」に対して誠実に向き合わなければならない。自らの「欲望」を相対視し、「私」個人の欲望の呪縛から自由であろうとするところに、人間の人間たる尊厳がある。

「史学史」とは、そうした「人間としての尊厳」を具現した、方法論的学問なのである。

初出:2021年5月10日「Amazonレビュー」



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ありがとうございます。お返しもできない不器用な奴ですみません。
その名のとおり、読書が趣味で、守備範囲はかなり広範ですが、主に「文学(全般)」「宗教」「社会問題」に関連するところ。昔から論争家で、書く文章は、いまどき流行らない、忌憚のない批評文が多い。要は、本音主義でおべんちゃらが大嫌い。ただし論理的です。だからタチが悪いとも言われる。