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内山雄人監督 『妖怪の孫』 : 妖怪は、 殺されても死なない。 必要なのは 「日本の除霊」。

映画評:内山雄人監督『妖怪の孫』

簡単に言うと「首相・安倍晋三の功罪を総括する」という内容の、ドキュメンタリー映画だ。

監督の内山雄人は、映画監督としては、前首相・菅義偉を扱ったドキュメンタリー映画『パンケーキを毒見する』に続く2作目ということになるが、テレビディレクターとしての長い実績がある人なので、非常に手がたく観やすくまとめており、「安倍晋三を復習する」のには、もってこいの作品になっている。

安倍晋三関係の活字情報にまで触れてきた者には、特に目新しい話は無いものの、「耳タコ」になるほど繰り返されてきたがゆえに、かえって今となっては「それもあったな。これもあったな」と、いまだに決着のついていない「安倍晋三の負の遺産」のあれこれを再認識させられ、「安倍晋三問題の今後」を考えるための、頭の整理になり、その意味で大変ありがたい映画だった。

「新聞記者」などを手がけた映画製作会社スターサンズと「パンケーキを毒見する」の内山雄人監督がタッグを組み、“日本の真の影”に切り込んだ政治ドキュメンタリー。

連続在任日数2822日を誇り歴代最長在任総理大臣となった故・安倍晋三。タカ派的な外交政策と「アベノミクス」に代表される経済政策で支持を集めた反面、物議を醸す言動やスキャンダルでも世間から注目された。そんな安倍元総理の母方の祖父である政治家・岸信介は、社会の表と裏を渡り歩いて政財界を操る実力者としての姿から「昭和の妖怪」と呼ばれた。

「祖父の教え」として幼心に刷り込まれた野望を実現しようと極端に「前のめり」な政治姿勢となった背景にある血縁と生い立ちの秘密に迫り、安倍元総理とは何者だったのか、そして彼がこの国に遺したものは何だったのかを、ブラックユーモアや風刺絵本を交えながらひも解いていく。』

「映画.com」の「解説」より)

この「紹介文」と同様、映画の予告編もそうなのだが、総論的な紹介に終始して、映画の具体的な中身や面白い部分への言及を控えているために、この作品の良さを伝えられていないうらみがある。

前記のとおり、私が思うに、本作の魅力とは「それもあった。これもあった」と、うんざりするほどあったがために、ほとんど忘れかけていた「いまだ解決されざる、安倍晋三の負の遺産」のあれこれを、再認識させてくれる点にある。
そしてそうした点では、映画.comに寄せられていた、「北枕寝二」氏の次のレビューが、本作の内容を、非常によく伝えているので、こちらをこそ紹介しておきたい。

『 ☆☆☆☆★4.0 高度かつ巧妙な悪知恵
 北枕寝二さん 2023年3月26日

(前略)
アベガ―のオラの期待した通りの内容で
安倍を嫌いな部分 評価できない部分を整理してくれた感じ
こういう人物だったら納得できると思っていたことが裏付けられてよかった
・バカ息子
・大学構内をアルファロメオで走っていた
・自分は立法府の長だとか憲法が権力を縛るのは絶対王政の時代の考え方だとの発言
・吉本新喜劇とか桜を見る会で持ち上げられて悦に入っている
映画には出てこなかったが 女性が輝くとか3年間抱っこし放題というのもあったな
気持ちが悪い 見ているこっちが恥ずかしいがしっくりくる

・火炎瓶事件
・自衛隊員のパパは憲法違反なの
なんか逆切れしてうやむやにする
負けている将棋をぐちゃぐちゃにしてなかったことにする
これもしっくりくる

一方で
官僚の人事やメディアをコントロールするとか
内閣法制局長官を交代させて安保法制に手を付けるとか
高度かつ巧妙な悪知恵を感じる
彼にはそういう知性とか頭の良さは感じない
そんな画を描ける人物とは到底思えない
そこがなんだかスッキリしないままだ

誰かが後ろで操っていたとするのが自然か
四季の会とか日本会議とかなのかなぁ
統一協会だったらショボいな アメリカなのか

あと安倍をマンセーする側の動機もよくわからないのだが
自分の仲間にはいいひとだったという至極単純なものだったのかもしれない 』

北枕氏の指摘どおり、政治家になる前の安倍晋三や、プライベートな発言などを知ると、「こんなのが日本の首相だったのかと、あらためてウンザリさせられる」その一方、

『官僚の人事やメディアをコントロールするとか
内閣法制局長官を交代させて安保法制に手を付けるとか
高度かつ巧妙な悪知恵を感じる
彼にはそういう知性とか頭の良さは感じない
そんな画を描ける人物とは到底思えない』

というのも、まったく同感。

しかし、北枕氏が、下手をすると「陰謀論」的だと取られかねない、組織的な「背後関係」を考えるのに対し、私は「そんな悪知恵をつけるような人なら、いくらでもいるだろう」と考える

つまり、「組織」ではなく、安倍晋三を利用して、自分も利得を得ようという「頭は良いが、汚い人間」などというのは、政治界隈にはウヨウヨいるのだから、安倍晋三のように、「自分を押し通す」というよりも、「お友達」の意見には耳を傾ける人というのは、そういう手合いには、取り入りやすくて、とてもありがたい存在だったのではなかったか。

そして、そんな「頭は良いが、汚い人間」が案出した「あれこれの手管」とは、『高度かつ巧妙な悪知恵』と言うよりも、単に「何でもありの(アンフェアな)ゴリ押し」でしかないと、私は考えるのだ。

普通に「常識」や「良識」がある、恥を知る人間だと、その「常識」や「良識」が枷となるために思いも寄らないような「身も蓋もないこと」を、サイコパス掛かって「頭は良いが、汚い人間」というのは、平気で思いつくし、それを臆面もなく口にできてしまう。

例えば、「内閣法制局の、歴史的な見解を変えるには、どうすれば良いか?」という問題があった時に、まともな人間なら、そうした「従来の見解」を否定する「ロジック」をひねり出しての「歴史的見解の修正変更」を目指すだろう。

ところが、そうした「常識的発想」に縛られないサイコパス的な人なら、あっさりと「内閣法制局長官を、こっちの人間にすげ替えれば良いだけ」だと思いつく。

「いやいや、それはいくらなんでも、露骨すぎるでしょう」と、「常識」や「良識」のある人間なら言うかもしれないが、サイコパス的な人なら「意図が露骨でも何でも、別にかまわないでしょう。必要なのは結果を出すことだし、国民大衆に対し、事後的に黒を白だと言いくるめることなんて、簡単なことじゃないですか」と言うのではないだろうか。一一いやまったく、おっしゃる通り、なのだ。

つまり、「ネオリベラリズム(新自由主義)」という「やった者勝ち(勝てば官軍)」という思想が、世界的に広まって以降は、「そこまで露骨にやるのは、いくら何でも」という「良識(的な自制心)」が、多くの場所で失効してしまっているのである。それは「政治」の場だけではなく、世間一般においてもだ。

安倍晋三の「嘘もつき通せば、本当になる」「やっているかどうかではなく、やっている感の方が大事」とかいった発想も、結局のところは、「ネオリベラリズム(新自由主義)」的な「身も蓋もなさ」であると考えれば、わかりやすいのではないか。

昔の悪党には、悪党なりの「美学」があった。
例えば「素人衆には手を出さない」「飛び道具は使わない」「ヤクをしのぎにはしない」といったものだが、そうした「美学」は、恥も外聞もプライドもない「チンピラ」の、「何でもあり」の前に敗れてしまったというのが、今の現実である。

だから、政治の世界が、こうなってしまったのも、同じ「流れ」の中での現象と見て良いだろう。
要は、「重厚だが不器用な美学」が「軽薄な何でもあり」の前に敗れ去った後の世界に、私たちは生きているということだ。

こうした「世界的な(悪しき)変化」というのは、否定しがたい事実だと、私は思う。
しかし、一見、普遍的で不変的なものに見えていた「常識」や「良識」といったものが、あっさりと「変更可能なもの」であったのと同じように、今の「流れ」も、決して絶対不変のものではなく、「変えられるもの」であるはずだ。

だから、私たちは、私たちの「常識」や「良識」、あるいは「美学」において、「安倍晋三的なもの」を測って「それはいくら何でも」と呆れているだけであってはならない。

そうではなく、彼らの「何でもあり」という「サイコパス的な感性」をよく理解した上で、慎重かつ詳細に彼らへの対抗策を考えなければならない。彼らには「さすがにそんなことは、恥ずかしくてできない」といった「ルールは無い」からだ。

たしかに、「安倍晋三的なもの」について、それでも「同じ人間なのだから」と考えることも必要なのだが、「同じ人間」の中にも、ピンからキリまであるという事実の方も直視して、そこへ配慮しなくてはならないという現実もまた、否定してはならない。
私たちもまた、プライドにとらわれた結果として「あんな人たち」に負ける、というわけにはいかないのだ。

この映画を観て、「安倍晋三的なもの」の「薄っぺらさ」を再確認してほしい。
そして、その上で、その「薄っぺらさ」とは、見かけほど「ヤワなもの」ではなく、「薄っぺらい(無節操だ)からこそ、如何様にでもなれる強かさを持っている」という事実を、深く銘記すべきなのではないだろうか。


(2023年3月30日)

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