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日本学術会議論 : 愚かな王と〈賢い道化〉

書評:小森田秋夫『日本学術会議会員の任命拒否 何が問題か』(花伝社)

菅義偉首相による「日本学術会議会員の任命拒否」の、なにが問題なのかは、前の安倍晋三政権で、日本が「戦争のできる国」へと舵が切られてしまったことを知っていれば、分かりきった話でしかない。

日米安保が強化され、日本が「専守防衛」を捨てて、自衛隊が米軍とともに「周辺事態」にまで対応しなければならなくなったとか、その際に、自衛隊は米軍の指揮下に入るとか、日本の武器輸出を基本的に禁じた「武器輸出三原則」が反故にされ、武器の輸出を推奨する「防衛装備移転三原則」に変えられてしまったとかいった、テレビを眺めておれば知ることのできる程度の知識があれば、そして「日本学術会議」がどのような目的を持った団体であるかを、大筋ででも知っていれば、「日本学術会議会員の任命拒否」問題の本質は、火を見るより明らかなのだ。

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要は、安倍政権の方向性を継承した菅義偉政権は、さらに進んで日本を「戦争のしやすい国」にするために、「平和主義を掲げる日本学術会議」という「抵抗勢力」の、「平和主義」を骨抜きにするつもりで、「平和主義の学者」の会員任命を拒んだのである。

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シェイクスピアの『リア王』にも描かれているとおり、中世英国の王権は、時にその身辺に「宮廷道化師」を抱え、彼らに「自由な発言(放言)」をさせていた。こうした道化に、いろいろな役割や意味を見いだすことは可能だが、彼らの一つの権能は「反権力的な批評家」という意味を帯びていたのは確実である。

「道化(fool=阿呆)」とは、王の側近たちのように「耳障りのいいことばかりを口にして、王のご機嫌とりをする」なんて「世間並み」のことはせず、要は「阿呆」だから「王の権力を恐れることなく、思ったことをズバズバと口にし、王をからかうことまでする、王のお抱え批評家」たり得ていたのである。
また言い換えるなら、わざわざ「道化」を雇って身辺に置き、彼らに言いたい放題を言わせていたのは、その王が極めて「謙虚かつ賢い王」であったからなのだ。自分の周囲を「イエスマン」ばかりにしてしまっては、いずれ自分も判断を誤るかもしれないと、賢明に自省したからこそ、王の権力から(仮想的に)「独立した存在」としての道化に「言いたい放題」を言わせて、その言葉(苦言)に耳を傾けていたのである。

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(君主に仕え批判する、宮廷道化師を描いた、ヤン・マテイコ作『スタンチク』)

つまり、わざわざ身辺に「言いたい放題の批評家=苦言者」を置ける権力者とは、並外れて賢明な権力者であり「王権」であると言えるし、逆に、「阿呆な王」は必ず「言いたい放題の道化」を排除したり殺したりしただろうということなのだ。
したがって、安倍晋三や菅義偉といった権力者は「阿呆な王」であるからこそ、権力を振りかざして「自由な批評家」としての「日本学術会議」を骨抜きにし、「お追従しか言わない道化(イエスマン)」集団に作り変えようとしているのである。

そもそも「権力者」を批評し批判するというのは、命がけの行為であり、普通はできるものではない。それをしてしまうのは、それこそ「阿呆」であり、そんな存在は滅多にいない。
しかし「王権=政治権力」を腐敗させないためには、どうしても「言いたい放題の批評家としての道化」が必要であるからこそ、「宮廷道化」というものが採用され、その「身分保障」がなされた。

つまり「日本学術会議」とは「本当は賢いけれども、あえて阿呆になって、学術的見地から政治権力を批評する存在」だと言えるだろう。言い換えれば、彼らは「内心は恐る恐るながらも、給料分の言いたい放題を言わなければならない、それを職務とする集団」なのである。(権力者に迎合するだけの「専門家」は、ナチスのそれのように、百害あって一利なし)

ところが、菅義偉首相は「金を出しているのだから、政府の意向に従ってもらわなくてはならない」(主旨)などと言うのだから、これはまさに「本末転倒した、阿呆の言葉」だと評さざるを得ないだろう。菅首相は、「賢明な道化」ではなく、「本物の阿呆」なのである。

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そんなわけで、私たち国民も「宮廷道化としての日本学術会議」というものの「本質」を正しく理解して、彼らに「言いたい放題」を言わせなければならない。
彼ら自身に「権力」は無いのだから、彼らが言いたい放題を言ったところで、権力者が賢明でありさえすれば、決してその「言いたい放題」が世間に害をなすことはないし、それどころか、むしろプラスになるのである。

しかし、「宮廷道化=本当は賢いけれど、阿呆のふりをして、言いたい放題を言っている人」の「役割意義」を知らなかったり、理解できなかったりするために、「あいつらは、国から金ともらって、偉そうなことばかり言ってるだけ」だなどと、「妬み」半分で浅薄な知ったかぶりを口にする「阿呆な国民」が増えたりすると、「宮廷道化」は、その存在価値を失うことになるだろう。そしてその結果、権力を持つ「阿呆な王」を、野放しにすることになるのである。「阿呆な国民」は、「賢い道化」を嫌って、「阿呆な王」を作り上げることになるのだ。

「日本学術会議」とは、先の戦争で「学界・科学者」が権力の意のままになって「軍事研究開発」に協力したことを反省し、(1)政治権力からの独立、(2)絶対平和主義、という理念の下に設立された団体である。
だから「軍事技術開発」に反対するのは、当然の「役目」であり、そうすることで、国家、国民と世界のために貢献する団体なのだ。
つまり、決して「現政権のため」でも「日本一国のため」の団体でもない。原爆と空爆による焼け野原に立った敗戦後の日本人は、そんな「平和主義の学術団体」を切実に必要とし、主権者である国民の意思として「日本学術会議」を設立したのである。

だが、長い戦後の「平和ボケ」によって、日本の戦争も敗戦も知らない「阿呆な国民」が増えていく中で、「阿呆だけれど、小狡い政治権力」者が、国民を騙して「小うるさい道化」を排除しようとしている、というのが今回の「日本学術会議会員の任命拒否」事件の本質だと言えるだろう。

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「学力の低下」が叫ばれて久しい日本だが、心配すべきは「子どもたち」ではなく、ろくに勉強もしない「大人」の方だと考えたほうがいい。
そんな「阿呆な大人」でも「選挙権」があれば、権力者は「騙して、意のままに操ってやろう」とするだろう。それで踊らされるような大人が減らないかぎり、オレオレ詐欺(特殊詐欺)や投資詐欺などで「うまい話」に引っかかる大人も減ることはないだろう。これらは決して無関係ではないし、こうした犯罪の被害者が、莫大な金を巻き上げられて、あとで泣いても救われないのと同じように、所詮は「一般国民」など「同じ人間」だと見てはいない「権力者」の口車に乗せられれば、一般国民は大切なものを奪われて、取り返しのつかないことになるというのを、肝に命ずるべきなのである。

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せめて、次に示した「日本学術会議憲章」と同会の「軍事的安全保障研究に関する声明」の持つ「重い意味」を理解できる程度の、基礎学力と知恵は、大人としてつけてもらわなければ、日本が困るし、子供たちの未来も危ういのである。

『 『日本学術会議憲章』(二〇〇八年四月)
科学は人類が共有する学術的な知識と技術の体系であり、科学者の研究活動はこの知的資産の外延的な拡張と内包的な充実・深化に関わっている。この活動を担う科学者は、人類遺産である公共的な知的資産を継承して、その基礎の上に新たな知識の発見や技術の開発によって公共の福祉の増進に寄与するとともに、地球環境と人類社会の調和ある平和的な発展に貢献することを、社会から負託されている存在である。日本学術会議は、日本の科学者コミュニティの代表機関としての法制上の位置づけを受け止め、責任ある研究活動と教育・普及活動の前進に貢献してこの負託に応えるために、以下の義務と責任を自律的に遵守する。(以下の七項は省略)』(P110)

『 軍事的安全保障研究に関する声明(二〇一七年三月)
 日本学術会議が1949年に創設され、1950年に「戦争を目的とする科学の研究は絶対にこれを行わない」旨の声明を、また1967年には同じ文言を含む「軍事目的のための科学研究を行わない声明」を発した背景には、科学者コミュニティの戦争協力への反省と、再び同様の事態が生じることへの懸念があった。近年、再び学術と軍事が接近しつつある中、われわれは、大学等の研究機関における軍事的安全保障研究、すなわち、軍事的な手段による国家の安全保障にかかわる研究が、学問の自由及び学術の健全な発展と緊張関係にあることをここに確認し、上記2つの声明を継承する。
 科学者コミュニティが追求すべきは、何よりも学術の健全な発展であり、それを通じて社会からの負託に応えることである。学術研究がとりわけ政治権力によって制約されたり動員されたりすることがあるという歴史的な経験をふまえて、研究の自主性・自律性、そして特に研究成果の公開性が担保されなければならない。しかるに、軍事的安全保障研究では、研究の期間内及び期間後に、研究の方向性や秘密性の保持をめぐって、政府による研究者の活動への介入が強まる懸念がある。
 防衛装備庁の「安全保障技術研究推進制度」(2015年度発足)では、将来の装備開発につなげるという明確な目的に沿って公募・審査が行われ、外部の専門家でなく同庁内部の職員が研究中の進捗管理を行うなど、政府による研究への介入が著しく、問題が多い。学術の健全な発展という見地から、むしろ必要なのは、科学者の研究の自主性・自律性、研究成果の公開性が尊重される民生分野の研究資金の一層の充実である。
 研究成果は、時に科学者の意図を離れて軍事目的に転用され、攻撃的な目的のためにも使用されうるため、まずは研究の入り口で研究資金の出所等に関する慎重な判断が求められる。大学等の各研究機関は、施設・情報・知的財産等の管理責任を有し、国内外に開かれた自由な研究・教育環境を維持する責任を負うことから、軍事的安全保障研究と見なされる可能性のある研究について、その適切性を目的、方法、応用の妥当性の観点から技術的・倫理的に審査する制度を設けるべきである。学協会等において、それぞれの学術分野の性格に応じて、ガイドライン等を設定することも求められる。
 研究の適切性をめぐっては、学術的な蓄積にもとづいて、科学者コミュニティにおいて一定の共通認識が形成される必要があり、個々の科学者はもとより、各研究機関、各分野の学協会、そして科学者コミュニティが社会と共に真摯な議論を続けて行かなければならない。科学者を代表する機関としての日本学術会議は、そうした議論に資する視点と知見を提供すべく、今後も率先して検討を進めて行く。』(P116~117)

初出:2021年5月4日「Amazonレビュー」
   (同年10月15日、管理者により削除)
再録:2021年5月14日「アレクセイの花園」
  (2022年8月1日、閉鎖により閲覧不能)

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