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春日武彦・ 平山夢明 『「狂い」の調教 違和感を捨てない勇気が 正気を保つ』 : 狂気は「思考停止」に忍びよる。

書評:春日武彦・平山夢明『「狂い」の調教 違和感を捨てない勇気が正気を保つ』(扶桑社新書)

精神科医・春日武彦と、ホラー作家・平山夢明による、「狂気」をめぐる、ぶっちゃけ放談の第三弾である。

前著の『無力感は狂いの始まり 「狂い」の構造2』から、じつに13年ぶりとなる本書は、前二著とは、その成立事情を異にしている。
前二著が、普通の対談本だったのに対し、本書は、版元である扶桑社で行われた、二人による「講演対談」をベースにしたものなのだ。

扶桑社が、お馴染みの二人に対し、メンタルヘルスについての社員研修」のための対談を依頼し、その対談をベースとして、三部構成にまとめたものが本書で、第1章は「集団としての狂気」、第2章は「個人の狂気」、第3章は扶桑社社員から寄せられた質問に対する応答というかたちになっている。

したがって、前二著が、編集者の立ち会いはあっても、基本二人だけの対談だったのに対し、本書では「聴衆」の前で行われたという違いがあるわけだ。

で、それによって、どういう変化が生じたのかというと、前二著が「マニアックな対談」だったのに対し、本書では「雑談度」が高くなっていると言えるだろう。
では、それでつまらなくなったのかといえば、さにあらず。むしろ、良い感じに力が抜けていて、むしろ面白くなっている。

これはたぶん、前著あたりは2冊目とあって、シリーズ1冊目と同じような話題を避けようと肩に力が入る一方、いささか「煮詰まり気味」だったからではないだろうか。
あくまでも「狂気」の話にこだわりつつ、マニアックな視点を保持しようとすると、どうしたって無理が生じることになったようで、その点で今回の第三弾はどうなることかと、若干心配でもあったのだが、本書は、講演対談ということで、聞いて楽しんでもらえる、ざっくばらんな対談を意識したせいか、いわゆる「狂気」に直接関わるわけではない、社会的な問題や事件などに関する率直な意見が披露されており、そのせいで、二人の「素の顔」が出たところが良かったのであろう。

そして、そんな本書で特に注目すべきは、この「露悪趣味」のある二人が、じつは「非常に真っ当なリベラルであり、私と同様、安倍晋三政権の8年間には、相当イライラを募らせていたというのが、よくわかる点だ。

安倍晋三が「平気で嘘をつく、臆面もない権力者」だったのに対し、この二人は「露悪気味の本音主義的な庶民派」という「正反対」であったことが、本書では、比較的率直に語られていて、その点で、前二著にはなかった、痛快さがあった

しかしながら、だからこそ、そこらへんに不満をいだく読者もいる。
つまり、「マニアックな話」を期待する向きには、当然のことながら本書は「まとも(普通)過ぎる」ということになるし、まして「ネット右翼」などにとっては、許しがたい本だということになるわけなのだ。

事実、Amazonのカスタマーレビューを見ると、本書の平均点はこれまでで最も高いにもかかわらず、寄せられた5本のレビューの中には、ネトウヨさんによる、次のようなものもある。

『 パトリオット(5つ星のうち1.0)

政治的に偏った言い放ちには辟易
2023年3月26日

反安倍路線に踏襲している。
政治家を批判するなら、日本共産党や立憲民主党の幹部についてもコメントすべきであろう。

でたらめな野党が日本をダメにしているという認識が全くない。

また、コロナに言及していいるなら、あの100兆円を超える補助金のことに触れるべきであろう。

それとも、医学界にいる立場を守りたいのだろうか。 』

 3人のお客様がこれが役に立ったと考えています

ご自分でも「パトリオット(愛国者)」と名乗るくらいで、これまでずっと「ネット右翼」として頑張ってきたのに、肝心の「教祖」が殺されてしまい、すっかり勢いを失ってしまったというのが、はっきりと窺える、興味ぶかいレビューである。

そのあたりで、ちょっと詳しく、このレビューを分析してみよう。

まず、冒頭の『反安倍路線に踏襲している。』というのが、わからない。

日本語になっていないのは別にして、これは、春日・平山コンビのこれまでの対談が『反安倍路線』であり、本書でもそれを『踏襲している』という意味なのだろうか?

しかしながら、シリーズ1冊目が刊行されたのは「2007年8月30日」で、これは「第1次安倍政権」が1年ほどであっけなく潰えた年であるし、シリーズ2冊目の刊行は「2010年9月1日」で、これは「2012年」に始まる「第2次安倍政権」の「悪夢の8年間」以前だから、当然のことながら、この2冊目が『反安倍路線』ということはない。
したがって、「パトリオット」氏がここで言っている『反安倍路線』というのは、たぶん「世間一般」におけるそれのことなのであろう。

だとすれば、氏には、今の世間が「反安倍路線」に満ち溢れていて、この二人もそれに乗っかっている、と言いたいのではないだろうか。
しかし、これははっきり言って、典型的な「被害妄想」である。

本書でも、アメリカの「トランプ支持の陰謀論カルトであるQアノン」のことが採り上げられているが、こうした陰謀論者」に共通するのは、「実態のない(対象を持たない)被害者意識」であり、この「パトリオット」氏も、同様の心理状態にある、ということになろう。

(アメリカ連邦議会に乱入した、トランプ支持者の「Qアノン」のメンバー)

『政治家を批判するなら、日本共産党や立憲民主党の幹部についてもコメントすべきであろう。』

この日本語も、奇妙に歪んでいる。
というのも、「政権与党の政治家を批判するなら、野党である日本共産党や立憲民主党の幹部についてもコメントすべきであろう。」というのなら、まだ日本語として成立するのだが、「パトリオット」氏の文章は見てのとおり『政治家を批判するなら』と、その「政治家」の属性が書かれていないのだ。

これはどういうことなのかというと、彼ら「ネトウヨ」のものの見方が「自己中」だということである。
みずからが信奉する「安倍晋三」は、「公正中立」であり「右でも左でもない」と思っているから、形容詞抜きの『政治家』ということになってしまい、それを批判するのは「反対派」だから、「どっちも平等に批判しろ」と言いたいのである。

当然、「パトリオット」氏は、自身の「安倍晋三支持」が「偏っている」とは思わないし、「自分は、どっちについても語っている」と言いたいのだろうが、自分の「好み」を無条件に肯定して絶賛し、それに敵対するものに対してはこれを無条件に否定するなんてものなど、「批判」の名に値しないというのは、いうまでもないことだろう。

別に、誰かを批判したなら、それとは反対の立場のものも(公平に)批判しなければならない謂れなどどこにもないのだが、小学生並みの知能しかないと、意味もわからず、そうしたことが「公平」であり「正しい」と思い込んでしまう。
だが、無論それは、彼らが嫌っている「マスゴミ」とやらの「両論併記」と同じ、「幼稚な形式主義(的平等)」でしかないのだ。

『でたらめな野党が日本をダメにしているという認識が全くない。』

そう書いている「パトリオット」氏には「でたらめな安倍晋三が日本をダメにしたという認識が全くない」
あのプーチンと「夢むかって、手を携えていこうではありませんか」みたいなことを、彼らの安倍晋三総理が言っていたのを、きっと覚えていないのだろう。

(プーチンの掌の上で踊った外交オンチの安倍晋三により、北方領土は遠のいた)

『また、コロナに言及していいるなら、あの100兆円を超える補助金のことに触れるべきであろう。』

『あの100兆円を超える補助金のこと』の説明をせず、それを「自明のこと」と思っているのは、「パトリオット」氏には「他者」が存在せず、自分のイメージするセカイで「脳内自己完結」している何よりの証拠だろう。

『それとも、医学界にいる立場を守りたいのだろうか。』

たぶんこれは、安倍政権が自由診療制度を推進しようとしたのに対し、日本医師会などが抵抗したことについて言っているのであろう。

要は、安倍政権に逆らう日本医師会は「反日国賊」集団であり、春日武彦は、その国賊集団の中での『立場を守りたいのだろう』と言いたいのだろうが、その場合、自営業者である「小説家の平山夢明」の存在をすっかり忘れているところが、いかにも「視野狭窄な被害者意識の持ち主」らしい物言いだと言えるだろう。

本書では、むしろ平山の方が、積極的に「安倍晋三の悪口」を口にしているというのに、レビューを書いているうちに、「パトリオット」氏は、そんな事実は忘れてしまったに違いない。なにしろ「ネトウヨ」というのは、「対話」ができず、自分の知っていることを「一方的にまくしたてる」ことしかできない人たちなので、「いつもの癖」が出てしまったのではないだろうか。

しかしながら、このレビューに関して最も興味ぶかいのは、末尾に付録した「反響」の部分で、本書刊行後4ヶ月も経っているのに、

『3人のお客様がこれが役に立ったと考えています』

と、このレビューには、たったの3人しか、支持者がいないという事実である。

これが、安倍政権まっ盛りの頃ならば、「ネトウヨ」のお仲間が、こぞって「役に立った」ボタンを押して、応援したはずなのだが、そういう有給無給の「バックアップ部隊」が、今では機能しなくなっているというのが、ここでわかるのである。

 レビュー「捨てられて〈人間〉教育」の方は、「追記」をご参照ください)

「ネトウヨ」だとわかりやすいハンドルネームの「パトリオット」氏が、せっかく「反日の国賊」たちに「天誅」を加えているのに、これまでなら、楽に数十はつくはずだった「役に立った」がつかない。

これは、氏にとってもショックな現実であろうが、だからこそ、私は氏を「元ネトウヨ」と呼んだのである。
つまり、もはや「ネトウヨ」なんてものは、逃げ遅れた「化石」でしかないということなのだ。

平山 (※ カルトは)シングルマザーとか、お子さんを亡くした人に「何かあったら言ってください(※ いつでも気軽に相談してください)」つって(※ 優しげな言葉で)ガーッと懐に入ってくる。そんなのはカルトだよね。(※ 人の弱みにつけ込むという)やり方が(※ 人として)まともじゃないし。カルトの一番悪いところは考えさせなくすること。貧乏人や不幸な人の最大の武器って「考えること」なんだよね。考えるって、自分の最大の武器じゃない?
春日 うん。
平山 (※ だから、優しげな言葉をかけてくる人に)相談する前にまず、「自分で考える」(※ ことが大切)。(※ カルトは)その最大の武器を取り上げてしまう。そういうの(※ 思考放棄)が今、世の中が狂っている背景にもあるんじゃない?
春日 ただ、陰謀の渦中にいると現実から分断されるのと同時に、当事者の側ではどんどん絆が深まっていく。その安心感というか、喜びも強いわけじゃん。
平山 そんな状況を生む原資になるエネルギーとして、もともとのところに社会と自分に対する不満があるんだよね。「俺はもっと偉いはずだ」「こんな人生じゃなかった」っていう思いがずっとある。(※ Qアノンみたいに)「俺の人生が現状、不満なのは自分の努力不足じゃなくて、ディープステートのせいなんだ」ってこと(※ 現実逃避)になる。
春日 だから原因をはっきりと教えてくれて、しかもその原因が(※ 自分個人では)どうしようもないもんだと都合が良いわけでしょ。(※ 当人の)矛盾をつくようなことは(※ 事実であっても)自分が困るんだもの。』(P14~15)

まるで「ネトウヨ」についての話のようだ。

だが、ここは、「安倍晋三暗殺」から「統一教会問題」へと話が移り、そして「カルトとは、どういうものであり、何が問題か」ということが論じられている部分なのだ。
つまり、「統一教会問題(カルト問題)」と「ネトウヨ問題」とは、根っこは同じということである。

(「売国奴」安倍晋三は、旧「統一教会」の広告塔だった)

例えば、先の「パトリオット」氏の場合、私が「あなたは頭が悪いね。少なくとも、私よりはずっと悪い」と、明らかな事実を指摘しても、その事実は決して認めないで、私が傲慢だとかなんとか、そっちの方へ話をズラして誤魔化そうとするだろう。これが「ネトウヨ」の思考形式であり「カルトの思考形式」でもある。つまり、

『政治家を批判するなら、日本共産党や立憲民主党の幹部についてもコメントすべきであろう。』

というのは、そういうことなのだ。

「自分のことは考えたくない」ということであり、現状が好ましくないのは、ひとまず「あいつらが悪い」という話にして、自分自身の問題点からは、目を逸らしてしまうのである。

そして、こうした「現実逃避」を悪化させるのは、春日が言うところの『陰謀の渦中にいると現実から分断されるのと、同時に、当事者の側ではどんどん絆が深まっていく。その安心感というか、喜びも強い』ということなのだ。

つまり、これまでは、「安倍晋三、サイコー!」とか「反安倍は、反日の国賊!」とか、何にも「考えない」で、バカでも書ける「決まり文句」さえ書いていれば、ネトウヨの「お仲間」が、たくさん「役に立った(いいね)」ボタンを押してくれたから、その「数字」で、変に自信を持ってしまっていたのである。「俺、本当は凄かったんだ」と。一一だから、やめられなくなってしまう。

しかし、もともとが「劣等感と被害者意識のかたまり」みたいな人たちなので、依存対象がなくなり、仲間が散開していくと、急速に自信を失ってしまう。
「パトリオット」氏に、どこか「悲痛」な感じがあるのは、彼の信仰対象が失われ、そのことによって「幻想の共同体」が失われつつあることを、氏自身が感じているからなのではないだろうか。

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そんなわけで、私も以前に指摘したことだが、「ネトウヨもカルト」であり、当然、アメリカの「Qアノン」なんかとも、体質的な共通性を持つわけだが、これら「狂気」の背景にあるのは、たぶん「国力の低下」であろう。
自分個人は大したことなくても、国力があった時代には、そこにアイデンティティを委ねて、「日本サイコー!」とか「星条旗よ、永遠なれ!」などと言っていられたが、そこが傾いてくると、不安に駆られ恐れおののいて、外に「敵」を探すことになる。

こうした心理は、「宗教」が、不幸の原因を「前世の悪行」や「原罪」などに求めて、現実そのものから距離をおいたり、「カルト」が、「敵」を作って、不幸の原因と自分自身を完全に切断して見せたのと同じことである。

「オウム真理教」が、「創価学会CIAなどから毒ガス攻撃を受けているから、われわれもやり返さなければ」といった「被害妄想」にとり憑かれていたのと、これはまったく同じことなのだ。

わたしたちは、「考えること」をやめた時に、このようにして「狂う」のである。


(2023年8月6日)

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