見出し画像

山崎行太郎 『ネット右翼亡国論 桜井誠と廣松渉と佐藤優の接点』 : 「右でも左でもなく下」でしかない、山崎行太郎の批評

書評:山崎行太郎『ネット右翼亡国論 桜井誠と廣松渉と佐藤優の接点』(メディア・パル)

あまりにも酷い内容なので、落胆を通り越して「これはきちんと批判しておかないといけない」と考えるに到った。
数年前に読んだ『保守論壇亡国論』は「イマドキの保守言論人(=ネトウヨ的言論人=非本来的保守言論人)」を事実に即して批判したものとしてとても参考になったので、今回の『ネット右翼亡国論』も大いに期待して読みはじめた。しかし「桜井誠と廣松渉と佐藤優の接点」というサブタイトルに感じた一抹の不安が、最悪の形で的中してしまった。
本書は、事実としてぜんぜん『ネット右翼亡国論』にはなっておらず、実質は著者の「文学的存在論重視の名を借りた、軽薄な自己存在アピール」本でしかなかったのである。

したがって本書に帯に記された、佐藤優の『存在論的に徹底的に掘り下げて現象を考える山崎哲学の真髄がここにある。「ネット右翼」の耐えられない軽さを暴いた傑作。現下日本社会を憂うるすべての人に読んで欲しい。排外主義、自己陶酔的な日本礼賛を愛国の立場から斬る。日本の現在を深く知るための必読書である。』という推薦文は、本書所収の論文を「読まずに書かれた、無責任な提灯持ち文」だと断じて良い。

そもそも、山崎は「ネット右翼には興味がない」と何度も明言していて、ネトウヨ言論をろくに読んでもいないのだから、それをまともに批判できる道理など無いのである。

推薦文に見られる佐藤優のこうした無責任な態度というのは、本書に対するレビューとして、本書をまともに読みもせず『ネット左翼の戯言でしかなかった。』などと書いている、ネトウヨレビュアーの党派的無責任さと、基本的に同質のものである。

たしかに佐藤は頭の良い人ではあるが、決してフェアで正直な言論人ではなく、まさに「外交官」的に狡猾な人である。
つまり、自分から敵をつくることはせず、利用できそうな相手は煽て上げて味方に付け、いずれは利用しようという魂胆を隠しもった策士なのだ。だからこそ、池田大作創価学会名誉会長や公明党を創価学会員の期待どおりに褒め上げる本(『「池田大作 大学講演」を読み解く』『佐藤優が教える、池田大作『人間革命』の読み方』『創価学会と平和主義』『いま、公明党が考えていること』等)を書くことを、なんら恥じない。
佐藤にとっては、故郷沖縄と日本を害する国家権力に対抗するために是非とも必要な「中間団体」として創価学会や公明党は、利用価値が極めて高い存在なので、それとの良好な関係を構築しようと、意図的にヨイショをして接近し、それを恥じもしないのだ。

当然、流行作家である佐藤に擦り寄ってきた、山崎のような三流の文筆家でも、わざわざ否定批判するような、無駄なことはしない。
だが、わざわざその著作を1冊読むのは「時間の無駄」なので、『ネット右翼亡国論』というタイトルへの当て書きで、上記のような推薦文を書いてみせたのである。もちろんベストセラーになるような本でないのは目に見えていたからであろう。

さて、本書の内容が『ネット右翼亡国論』でもなければ『「ネット右翼」の耐えられない軽さを暴いた』本でもないということをまず押さえた上で、では本書になにが書かれているのかというと、それは山崎が『世の中には情勢論的言説が蔓延している。(中略)しかし私は、彼らの言説には何かが足りないと思う。それは、原理論と存在論である。特に存在論である。』(「あとがき」より)と書いているとおり、要は「存在論的言説こそ大切であり、自分はそれをやっている」という自己主張でしかないのだ。

「情勢論・原理論・存在論」などと言うと何やら難しげに聞こえるが、ぜんぜんたいした話ではない。
「情勢論」とは「現実社会の(主に政治的)情勢についての分析的批評」であり、「原理論」とは「個々の現実的情勢の底に潜む、問題の本質を剔抉して論じる本質論」であり、「存在論」とは「現実情勢や客観的分析による本質論ではなく、問題を自己の存在における主体的問題として考える」ことだ。

山崎は『哲学者・文芸評論家』と称しているが、この肩書きが意味するのは「物事を文学的に、つまり存在論的に読んで、それを徹して考える人間である」という意味であって、決して、哲学にも文学にも専門的な(あるいは基礎的な)知識や教養を持っているというわけではない。なにしろ、ご本人曰く『素人』なのである。

つまり、山崎は「自分は、専門的研究をしておらず、その意味では素人だが、そこらの学者や評論家がやっているような知識偏重の軽薄な自慢話ではなく、自分の存在を賭けて思考している。その意味では本質的な哲学者であり、その点で存在論的に考える文芸評論家なのだ」と自己アピールしているのだ。

しかし、言うまでもなく、この「厨二病」的自己認識を臆面もなく垂れ流せるという段階で、山崎の思考の底の浅さは、すこし文章の読める人には明らかなことで、こんな山崎やその文章を絶賛できるのは、「コネを付けた有名人」については臆面もなく絶賛することのできる山崎と同類の「擦り寄り俗物」に過ぎないのも明白だろう。

「看板に偽りあり」の本書『ネット右翼亡国論』の中心となる論文は、主に書き下ろしの第1章「ネット右翼亡国論」だが、ここで書かれているのは「在特会元代表の桜井誠は、その思想内容が酷いとしても、少なくとも口先だけではなく、命がけで反在日特権運動に取り組んでいる点で、立派に存在論的思想家として評価されるべき」というものである。
そして、そんな桜井は「生涯、革命を意識しながら学問を貫いてきた廣松渉」や「単なる口先知識人ではなく、その思想を生き方に体現した佐藤優」と「存在論的に通底する」と評価されるべきだと、故事付けがましい「薄っぺらな本質論」を語っているだけなのである。(それにしても、山崎の議論は念仏のごとき繰り返しが多く、およそ論理展開というものが無い。そのお粗末さは、まさに『素人』の同人誌レベルだ)

もちろん、こうした無理のある議論は、世間から差別主義者・排外主義者として「罵倒される桜井誠」のなかに、自己の似姿を(勝手に)見たからこその揚言でしかない。

山崎の自覚としては「自分は世間的な評価に抗して、損を承知で、桜井を存在論的・本質的に論じ擁護した」つもりなのだろうが、それを廣松渉や佐藤優といった「権威」と結びつけることでしか出来ないところに、山崎の評論家としての無能と、山崎が本質的には「権威主義者=権威大好き俗物」でしかないことを露呈させる。

山崎の本質が「独り善がり」「承認願望の塊」「無反省な自己愛者」でしかないというのは、「思い込みだけで断言する」その態度に明らかだろう。
山崎は『佐藤優のマルクス主義論やキリスト教論は、かなり専門的であり、素人の雑談レベルをはるかに超えている。佐藤優のマルクス主義研究やキリスト教研究は、専門家たちより広く深いことが少なくない。これは、佐藤優が存在論の人だからであることと無縁ではない。』(P59〜60)などと褒めちぎっているが、まともに日本語の読める人なら、このロジックの酷さは明白だろう。

そもそも『かなり専門的』と『素人の雑談』を比較して並べるところがデタラメだ。
また『専門家たちより広く深いことが少なくない。』という判断を語るためには、判定者である山崎自身が相当の『マルクス主義研究やキリスト教研究』をやっていなければ、判断のしようがない。ところが、山崎自身は『マルクス主義研究やキリスト教研究』をやったことのない『素人』なのだ。

あとの清水正との対談で何度も自己暴露しているように、「存在論」の人である山崎行太郎が本を読む基準は「好き嫌い」でしかなく、「人の研究成果はどうあれ、自分はこう感じた」といったことを書いているのであろう「存在論」タイプの著述家(と、山崎が勝手にシンパシーを感じた著述家)の本しか、まともに読みはしないのである。
したがって、自称「保守」である山崎は、マルクス主義の基本文献も読んでいないし、ましてや(佐藤優のもの以外)キリスト教神学や聖書学の本など手に取ったこともないはずで、知ったかぶりに「又聞き」で聖書に言及してみせてはしても、たぶん聖書の通読すらしていないだろう(でなければ『僕は、モーゼの『出エジプト記』を思い出す。』(P107)などと書いたりはしないだろう)。

ともあれ、なにしろ自称『素人』だから、「興味のないもの」を読み込む気などさらさらないのだ。また、それでいて「知ったかぶりで断言的評価」を語って恥じないのが、山崎行太郎という人なのである。

山崎が絶賛する人物というのは、小林秀雄やドストエフスキーのような「過去の大権威」か、江藤淳や清水正や佐藤優といった「コネのついた有名人」か、桜井誠のような「自己投影を出来る不遇者」でしかない。
言い変えれば、山崎が絶賛するのは「自分を珀付けするための権威者」「コネによって自分に利する有名人」「自己賛美のための代替的人物」でしかないということだ。

こんな下らない「俗物」に、ドストエフスキー研究家の清水正は、何を思って手を差し伸べたのかはわからないが、ともあれ山崎は、それまでまともにその著作を読んだこともなかった清水を、お近づきになった途端、その著作を「読んでみたら、存在論的でスゴイ研究だった」と、何とかの「一つ覚え」で絶賛し始める。
しかし、こんな軽薄な山崎と対談する清水は、こんな「太鼓持ち」に煽てられて喜んでいるだけの粗忽者かと思いきや、やはり山崎の「自意識過剰の中学生」並の酷さは、黙過するに余りあるものがあったのだろう、対談の中で何度となく、山崎の「独り善がりな存在論的独断」に注文をつけている。

『(※ 説明は出来ないが、存在論的にわかると主張する山崎に対し)説明できないとまずいんじゃないですかね。』(P171)

『(※ ドストエフスキーをろくに読んでもいないのに、断言的に評価ポイントをかたる山崎に対し)僕は恥ずかしくて(※ ドストエフスキーの)墓の前に立てなかった。ドストエフスキーはやり尽くしたなどと思った自分の傲慢が恥ずかしくてならなかった。』(P182)

『(※ ネチャーエフ的独善を批判する譬え話として)自分の目の前に三つの道があるとして、その三叉路を前にしていったいどの道を選んで行ったらいいのか。AもBもCも同じ価値を持っていたとしたら、例えばAの道を行く人は他のBとCを否定することは出来ない。』(P187)

『(※ 山崎が否定的に「ありがち」だと言うような研究手法について)あんまりそういうことを徹底してやってる人はいないんじゃないかな。』(P191)

『(※ 細かく読み込まなくても、本質はわかると言う口吻の山崎に対し)いずれにしてもラスコーリニコフの理論と、生きていた時代状況をきちんと踏まえた上で批評した人はいないかもしれない。』(P195)

『(※ 理論的なものは、本質的ではないからどうでもいいと言う山崎に対し)理論は理論としてきちんと分からないとだめだけどね。』(P199)

『(※ 山崎の独断的な決めつけに対し)そういう言い方をしちゃうとあまり面白くないんですよ。』(P200)

『(※ 説明は出来ないが、存在論的にわかると主張する山崎に対し)批評家はきちんと言葉で表現できないとだめなんです。』(P200)

『(※ ドストエフスキーに関する他の論者を、読んでもいないのに撫で斬りにする山崎に対し)山崎さんはこれからどういう仕事がしたいと思っているんですか?』(P201〜202)

『(※ 殺される側の悲しみに興味はなく、殺す側の悲しみに興味があるという山崎に対し)殺す側の悲しみは、殺される側の悲しみが分かった上でやって十分間に合うんです。』(P203)

『(※ 細かく読み込まなくても、問題提起はわかると言う山崎に対し)細部がきちんと見えてこないと、小説の面白さは見えてこないんじゃないの?』(P216)
『(※ 細かく読み込まなくても、ドストエフスキー作品を正しく理解できると言う山崎に対し)騙されているんですよ。ドストエフスキーくらいの作家になると、読者をたぶらかすことなんか簡単なんです。』(P224)

このように「自分は表面的な細かい理屈には興味はないが、本質は洞察している」と主張する「ツッパリ盛りの中学生」のような山崎を、清水は宥めるように粘り強く「常識」を説いて指導するのだが、無論そんな言葉で「自尊心をこじらせた、七十男」をいまさら矯正できるわけもない。まさに「人を見て法を説け」である。
いや、2本目の対談で最後の方で、山崎は一度だけ、

『そうですね。僕も、知ったかぶりはやめて、もっと真剣にまた(※ ドストエフスキーを)読み返そうと思っています。』(P228)

と答えてはいる。
しかし、「影響を受けた作家」として片手の指に収まるドストエフスキーについてさえ、これまで『知ったかぶり』でしかなかったのだから、いまさら山崎行太郎から『知ったかぶり』を奪ったら、はたして何が残るのか?

答は、安倍晋三や麻生太郎、櫻井よしこや百田尚樹といった「ネトウヨ系有名人」を批判するくらいの、批評的には「簡単な仕事」だけなのである。

そもそも「存在論」的思考に価値があるのは、その存在に語るべき「中身」のあることが大前提で、桜井誠や山崎行太郎のような「不遇意識をこじらせただけの無内容な人」の「存在」など、語るに値するものではないのだ。つまり「形式ではなく、中身を充実させてから語れ」ということなのである。

初出:2018年10月15日「Amazonレビュー」
   (同年10月15日、管理者により削除)

 ○ ○ ○










 ○ ○ ○

この記事が参加している募集

読書感想文