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富岡幸一郎 『危機の時代の宗教論 ヒューマニズム批判のために』 : 虎の威を借る〈ネトウヨ・プロテスタント〉

書評:富岡幸一郎『危機の時代の宗教論 ヒューマニズム批判のために』(春秋社)

本書を読んでハッキリしたのは、富岡幸一郎のキリスト教信仰が、実に薄っぺらで、所詮は「商売道具」の域を出るものではない、という事実だ。

つまり、富岡に「キリスト教信仰の無かりせば」、彼は単に「ネトウヨ系の二流文芸評論家」としてしか、世間に認知されなかったであろう、ということである。

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今回ひさしぶりに富岡の本を読んだわけだが、キリスト教書をはじめとした各種宗教関連書を、ある程度は読み込んだ今となっては、富岡の薄っぺらな宗教・政治談義は、読むも苦痛なシロモノでしかなくなっていた。

富岡の『使徒的人間 カール・バルト』を読んだのは、私がキリスト教研究を始めた当初であった。
聖書の通読を済ませていたとは言え、そんな時期にいきなりカール・バルトかと言われそうだが、ネット上に「すごいすごい」と書いている人がいたので、それではと、バルトの『ローマ書講解』を読んだのだが、当然のこと、理解などできなかった。だが、それでも最後まで読み通すことだけはした。
そして、その後にしたのは、バルトの評伝を読むこと、バルト論を読むこと、バルトの比較的読みやすい文章を読むことといったところだったが、そうして読んだ「バルト論」の中の一冊が、富岡の『使徒的人間 カール・バルト』だったのである。

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このようにして、なんとかバルトの雰囲気くらいは掴めるようになった頃には、私はバルトという人が、人間的にとても魅力的だと感じ、そうした人間的な共感から「この人の神学をもっと理解したい」と思うようになっていた。
もっとも私は、当初から、「キリスト教」は無論、「宗教」そのものも、基本的には「現実に傷つけられた人間の、自己慰撫のための(現実逃避)フィクション」であると考えていたから、バルトの神学についても、将来的に仮にひととおり理解できるようになったところで、私の「現実認識」が変わるとは毛ほども思っていなかった。しかしまた、バルトの「神学」は「本気である」という意味において「本物」だとも思っていたので、「キリスト教と対決するのなら、この人だ」と考えたのだった。
そして、そう考えたからこそ、当時すでに私は『カール・バルト説教選集』(全18巻)や『教会教義学』の翻訳既刊30数巻を買い揃えたりもしたのである(無論、これらについてはほとんど読んでおらず、もう少し勉強してから、老後に読みたいと思っているが、さてどうなることやら)。

で、私のバルト理解など、当然のことながら、まだまだ初心者の域を出るものではないとは言え、バルト周辺のプロテスタント神学者の本や、カトリックの神学者(保守系、リベラルの双方)など、広く浅く「キリスト教書」を読んだりはしているので、「バルト、バルト」とバルトの専門家ぶっている富岡の、バルト理解など、左程のものではないと目星をつけている。『使徒的人間 カール・バルト』というバルト論を書いている富岡だが、彼はたぶん『教会教義学』の通読は無論、単刊の翻訳書だって、すべて読んでいるというわけでもないだろう。

こうしたことは、本書『危機の時代の宗教論 ヒューマニズム批判のために』を読んだけでも、わかることだ。
富岡が、バルトから引用するのは、ごく限られた部分だし、そもそも語られるバルト論は多く、他の論者の見解の引用であり、引き写しの域を出ない。

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(プロテスタント神学者 カール・バルト)

そもそも、富岡幸一郎の「キリスト教」論自体が、自身で「聖書」と向き合って思考したものではなく、有名なキリスト教徒著者の意見の引用・引き写しであり、その陳腐な敷衍でしかないのである。そんなわけで、おのずと富岡のキリスト教書には、「聖書」本文の引用が極めて少ない。
また、それでいて、平気で「神学」だ「神学的思考」だなどと言うのだから、真面目に神学をやっている人から見れば、富岡のキリスト教書など、「軽薄(短小)」に映ること間違いなしなのである。

したがって、本書を含め、富岡のキリスト教書は、虚仮威しの「素人だまし」でしかないと断じて良いだろう。
本書の版元である春秋社は、キリスト教関連の面白い本を出している出版社だが、人脈やお付き合いで本を出すのではなく、中身をちゃんと検討してから出していただきたいものだ。また、そのためには、担当編集者にも、それ相応の鑑識眼と知識が必要なのだが、そこまで求めるのは、果たして酷なことなのだろうか?

ともあれ、本書に書かれていることを一言にすれば、世界の様々な難問を「宗教の喪失」の問題に還元して、自身の守備範囲である「宗教」を、世間に「ありがたがらせたい」という、ただそれだけの内容だ。
そこには、当然書かれていて然るべき、肝心の「あらゆる難問を解く鍵としての宗教の、どこにどのような有効性があるのか」という、具体的な説明はまったくない。

「西欧や中東の世界認識の基盤にはアブラハムの宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)があるから、世界的な問題を考える場合には、是非ともそうしたものへの理解が必要」といった、通り一遍の説明ならばあるけれど、そんなことなら、日本人が、知ったかぶりの浅薄な講釈をたれるまでもなく、西欧やアラブの知識人が重々承知している。だが、それでも世界には色々な問題がひきもきらず発生して、容易には解決できない。これが現実であり、問題の重さなのだ。

したがって、富岡のお奨めどおりに「アブラハムの宗教」のことを知ったとて、それでどうにかなるというものではない、というのは、あまりにも自明な話だ。
無論、知っておいて損はないけれど、政治や経済や民族文化やテクノロジーなどなど、現代の問題に対峙するためには、最低限知っておかねばならないことが、この世の中には、「宗教」の他にも山ほどあって、富岡が強調して言うほど、「宗教」の優先順位は高くないのである。

つまり富岡が本書で言ってることなど、宗教に縁遠い日本人向けの「鬼面人を威す」態の戯言でしかない。
要は、自分が興味を持っていること(守備範囲)が「一番大切なものだ」と叫んでいるだけの、バランス感覚を欠いた「オタク」的な独り善がりにすぎないのである。

例えば、本書のサブタイトルにもなっている「ヒューマニズム批判」や「反近代」なんてものも、所詮は「神」信仰者の「手前味噌」でしかない。
要は、「神」信仰を延命させたいからこそ、それに取って代わった「ヒューマニズム(人間主義)」を否定したくて、あれこれ「粗探し」をしているだけなのだ。

だが、いかに「ヒューマニズム」が、当初(近代の夜明けにおいて)期待されたほど輝かしいものではなく、逆に難点の多いものだったとしても、しかし、だからと言って、穴だらけだった「神」信仰の価値が上がるというものではない。隣の芝を貶したって、自分の家の枯れた芝が、どうなるものでもないのと同じことだ。

人間は否応なく、「神などいない」ということを知ってしまった。すべてをお任せして頼れるような「都合のいい存在」などいないということを、主に「キリスト教信仰」の惨状を通過して、人々はイヤイヤながらも悟らざるを得なかったから、次に期待したのが「ヒューマニズム」であっただけだ。
だから、それもまた期待したほどのものではなかったと知らされても、だからといって、それを捨てるわけにはいかなかった。なぜなら、「人間」が頼るべきは「人間」であり、「不完全な人間」しか、残されてはいなかったからだ。
「存在する人間」が不完全だからと言って、「存在しない神」を持ちだすことほど、「人間の不完全性」をよく表すものも、他になかったのである。

人間は「人間であることの限界」に堪えなければならない。そして、その限界の中で精一杯、最善を尽くすしかない。
たしかに「神」というフィクションを持ち出して、目先の安心を得る(現実逃避する)というのも、人間らしいやり方ではあるけれど、それは「ヒューマニズム」の「悪しき面」の一つでしかなく、それでは何の解決にもならないのだということを、歴史に学ぶべきだろう。
もはや「ヒューマニズムの優劣両面性」が自明の前提になった「現代」においては、「宗教」や「信仰」もまた「ヒューマニズムの一部」でしかないと、正しく認識すべきなのだ。つまり「人間だから、神の存在を信じる」のだし、「神は、人間にしか存在しないもの」なのだという「現実」を、厳しく認識すべきなのである。

あとは、いくつかのトピックについて、書いておこう。

(1) 富岡幸一郎の「ネトウヨ」性

富岡幸一郎を「保守」だなどと呼びたくないのは、適菜収や古谷経衡あたりだけではないだろう。
富岡の場合は、自称「保守」にありがちな「群れの馴れ合い」によって保身をはかっているから、富岡が「先生」と崇める西部邁周辺のお仲間ならば、あえて口には出さないだろうが、内心では富岡を「キリスト教徒であることだけが売りものの、二流の文芸評論家」だと思っているだろう。

本書でも、師匠である「西部邁先生」のことを、追悼かたがた、その「自殺」すら、西部保守思想の必然的帰結であったのではないか、みたいに大げさに持ち上げているが、現実には「自殺するんなら、人に手伝わせたりせず、自分一人でやれ」ということだ。
弟子だか何だかに「自殺幇助罪」なんか犯させても、何の思想的価値もないだろうが、そんな「情けない甘え」まで含めて「西部保守思想の必然的帰結」だと言うのなら、感心はしないが、いちおう筋だけは通ってもいよう。

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ちなみに、書き下ろしの第1章以外の、第2章、第3章は、本書収録にあたって『大幅に加筆』したそうだが、それでも昔の「安倍晋三礼賛」は修正(証拠隠滅)しきれなかったと見えるし、後の方では「安倍晋三批判」もしているが、そうした自分の評価の変化については、何の説明もしていないのだから、いったい何を「加筆」修正したのだろうか。これでは、よほど「原文」は酷かったのだろう、としか思えない。

(2) 富岡幸一郎と佐藤優の近親性

権威が大好きで、有名人が大好きで、あちこちにコネを作って、保身をはかるところが、この二人の共通点であり、ともに「キリスト教信仰(プロテスタント)」であるなんてことは、単なる「お近づき」のきっかけに過ぎない。

「創価学会御用達評論家」である佐藤優との対談(『〈危機〉の正体』2019年)が示すように、両者は、ある意味で似た者同士である。博識において、佐藤優の方がかなり格上だとはいうものの、中身の無さでは大差はない。

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自称「プロテスタント神学者」である佐藤優の「神学」とやらも、実際には大したことのないシロモノだ。
読者が、キリスト教の素人か、不勉強なキリスト教徒か、あるいは有名人が好きなキリスト教徒でなければ、つまり、まともに「キリスト教神学」に詳しい人なら、佐藤の語る「神学」など(その「博識」においてではなく、その「深さ」においては)「常識レベル=入門書レベル」を一歩も出るものではないことに、すぐに気づくだろうし、富岡幸一郎と同様、その語るところの大半は、他の論者の見解の引用、引き写しでしかないことにも気づくだろう。

両者は、いろんな「権威者」の言葉を次から次へと繰り出し、その権威という「虎の威」を借りて、門外漢の読者を圧倒しているにすぎないのである。

(3) 富岡幸一郎の、場当たり的で一貫性のない主張

本書第2章は、いわゆる「時評集」なのだが、時事問題について、「宗教」が直接的に関係のある場合には、順接的に「宗教的感受性の重要性」を語り、直接関係のない場合にも、逆張り的に「宗教」を持ち出して「宗教的感受性の重要性」を語ることで、何やら「独自性のある深いこと」を語ったように見せかける。これが、この第2章における「ツーパターン」のワンパターンだ。そして、これは、富岡批評の「基本スタイル」だと言っていいだろう。
つまり、場当たり的にもっともらしいことを語るのだけれども、自身の主張に一貫性を求めないからこそ、その思考や思想はいっこうに深化することがなく、富岡幸一郎の批評は、ずーっと「薄っぺら」なものでしかありえないのだ。

例えば、第2章の最終章である第21節は、理論物理学者カルロ・ロヴェッリによる話題書の『時間は存在しない』を論じて、キリスト教に無理やり接合しているだけの、権威主義的田舎者の安直なアナロジー思考による、無節操な自己喧伝でしかない。こんな「似ているから、本質は同じ」といった粗雑な議論でいいのなら、何でもかんでも「キリスト教の真理」の証明にしてしまえよう。

また、「進化論」を正しく理解してなかった内村鑑三を「科学者にして神学者」みたいな持ち上げ方をするのは、あまりにもバカバカし過ぎて、本書を壁に向かって投げつけそうになった。
と言うのも、それ以前の(大澤真幸に言及した)ところで「進化論」の正しい説明がなされているのに、その説明を富岡は理解しないまま、知ったかぶりで引き写していたことが明らかになったからである。

(4) 富岡幸一郎の薄っぺらな知ったかぶり、あれこれ

・「神学者になれなかった」ハイデッガーを引用して、ナチスの「近代主義」を批判しても、そのナチスに協力したハイデッガーについては語らない。

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(マルティン・ハイデガー )

・どう考えても、富岡が日頃「左翼」と呼んで批判しているはずの「脱原発社会をめざす文学者の会」について、成り行き上は言及しても、「知り合い」が含まれているから批判もしなければ、個人を名指しもしない。

・アメリカの著名な神学者アリスター・マクグラスを持ち上げても、マクグラスが、リチャード・ドーキンスにコテンパンに論破されたことには言及しない。

遠藤周作の『沈黙』における神の描き方の解説も、遠藤が(富岡のようなプロテスタント)ではなく、「正統教義に忠実たるべき」カトリックだからこその「重み」があることに言及しないまま、知ったかぶりで理解者ヅラをする。

一一もう、その他諸々、ツッコミどころが満載すぎて、いちいち丁寧に批判する気にもならない。

プロテスタントでありながら、「反近代」を強調する自称「保守」の富岡幸一郎だが、ならばどうして、お好きな保守思想家であるチェスタートンに倣って、「カトリック」に改宗しないのか。
それは無論、彼の信仰とは、その程度に「ゆるい」ものだからに他ならない。

一貫性のない、きわめて「ゆるい」信仰だろうと、キリスト教を褒めているかぎりにおいては、富岡の周囲のプロテスタントたちは、彼を責めることなどなく、ありがたく彼の「虚名」に敬意を表するのみだからだ。
また、だからこそ、こんなくだらない「ブルシット・ブック(クソどうでもいい本)」も出せるのだ。

そしてこれこそが、富岡幸一郎の求める「日本的なキリスト教」なのである。

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 【補記】(2021.03.25)

友人がこんなのを見つけました。ご参考まで。

『 26日に憲法改正の講演会 日本会議神奈川
 2016.6.20 07:06「産経ニュース」

 日本会議神奈川は26日、横浜市中区の神奈川県民ホール大会議室で、関東学院大教授で文芸評論家の富岡幸一郎氏を招き、「憲法改正論点総ざらい」と題した記念講演会を開く。午後3時開始、4時20分終了予定。参加費1千円。申し込み不要。』

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 【補記2】(2022.01.08)

上の記事が削除されているようなので、こちらを紹介しておきます。

ご存知「日本会議」です。安倍晋三首相時代には、よく耳にした右翼団体ですが、最近、話題に上りませんね。ブームが過ぎたのかも知れません。

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初出:2021年3月24日「Amazonレビュー」
   (同年10月15日、管理者により削除)
再録:2021年4月10日「アレクセイの花園」
  (2022年8月1日、閉鎖により閲覧不能)

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