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青野太潮 『どう読むか、新約聖書 福音の中心を求めて』 : 誠実な信仰における 〈学知〉の輝き

書評:青野太潮『どう読むか、新約聖書 福音の中心を求めて』(ヨベル新書)

私は、「宗教」を批判的に考察するために、わざわざキリスト教の素人研究を始めたような人間なので、基本的には、キリスト教を含むすべての宗教は「現実に傷つけられた自己を慰撫のための(阿片的な)フィクション」だと否定的に考えているし、当然のことながら、その信者にも厳しい。
有名なキリスト教学者や神学者の著作であろうと、遠慮なく、根拠を示して徹底的に批判してきた。まさに「反論できるものなら、して見せてみろ」という調子で、真っ向から彼らの「偽善的詭弁」を批判してきた、そんな無神論者である。

では、なぜ「宗教」を批判するのかと言えば、それはしばしば宗教が「社会的な害悪を垂れ流す」からである。
無論、宗教が「生きる支え」になることもあるし、信仰によって「人格の陶冶」がなされることもあるだろう。しかし、そうしたことも、「信仰でなければならない」ということはない。「信仰」という「幻想」にすがったほうが、なるほど「お手軽」ではあろうけれども、そのお手軽さのゆえにこそ、宗教は「社会的な害悪を垂れ流す」のである。

しかし、そんな私ですら、本書著者である青野太潮については、基本的に肯定的な評価を与えている。「キリスト教信仰」は否定しているけれども、「キリスト教信仰に真正面から取り組む信仰者」としての青野太潮という「人」は、高く評価しても良いと思っているし、彼の生き方が反映された、彼の「聖書学」も高く評価している。

今回、ひさしぶりに青野の著作を読んだのだけれども、キリスト教についての知識がかなり増えた現在においても、以前に読んだ時と同様、その真摯な信仰姿勢と探究心には、感心させられたのである。

青野太潮の「神学研究」とは、一言で言えば「盲信批判」である。
「神の実在」を信じるのであれば、「おかしなことはおかしい」と認めて「なぜ、このようなことが起こるのか」と疑問を持ち、その疑問の解消に取り組むのは、信仰者として当然の「知的誠実」だ。だが、そんな人は滅多にいない。

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ろくに聖書も読まないような「不信心者でありながら、敬虔な信者ヅラをしたがる一般信者」は無論のこと、キリスト教学者として名が通ったクリスチャン知識人であろうと、その信仰に、芯から「誠実」な人は滅多にいない。しばしば、彼らは、そのなまじの頭の良さから、「信仰的懐疑の隠蔽」を自他に試みて、成功してしまう。つまり、「これはおかしい」と思った瞬間に、そこから目をそらし「それは大した問題ではない。他にもっと重要な問題がある」などと、自己欺瞞の知的正当化する。また、頭が良いから、さも自身の信仰には、一点の曇り(懐疑)もない、といった「振り」をするのがとても上手だし、素人を煙に巻く小理屈をひねり出すくらいの芸当は、お茶の子さいさいだ。
一一だが、こんな「ニセ信仰」こそ、彼らの「神への冒涜」だと言うべきであろう。こんな人たちには「信仰者としての誠実さ」という根底が抜けているのである。まただからこそ、良心の咎めもなく「信仰の優等生」を演じて見せることが得意でもあるのだ。

その点、青野太潮という人は、非常に「不器用に真面目」な人だ。だからこそ、信用することができる。

『 私は、何を「リアル」と考えていくかということが、私たちの信仰においても、極めて重要なことだと考えています。「信仰のゆえに当たり前だと思っていることがら」のなかに、いかに多くの「アンリアル」なことがらがあることか、「イエスさまは死ぬために生まれてきた」などという理解は、そして「イエスさまは、自分は死ぬために生まれてきたのだということを知っていて、その上で事実そのように生きてくださったのだ」などという理解は、その「アンリアル」の最たるものではないだろうか、と私は考えています。イエスは全き人間として生まれ、そして生きられたのだ、という「受肉」の真理と、それは大きく矛盾しているのではないか、と私は考えています。』(P130)

例えば、ここなどは、キリスト教では当たり前(正統)の「教義」として教えられている「贖罪論」を批判した部分だ。「贖罪論って、普通に考えたら、おかしいでしょう。ぜんぜんリアルじゃないじゃないですか」と。

私は、このレビューを、クリスチャン以外の読者に向けても書いているので、簡単に説明しておくが、キリスト教の「贖罪論」というのは、要は「すべての人間は、すべての人間の祖先であるアダムとイブが、神との約束をやぶって犯した罪を、ずっと引き継いでいる。これが原罪。人間は、原罪を帯びて生まれてくるから、何も悪いことをしなくても、生きていく上で、何かとひどい目に逢うのだが、これは原罪を有するすべての人間が、当然受けるべき罰なのだ。しかし、神は、そんな人間を憐れんで、自分の息子であるイエスに、人間の肉体を与え(受肉させ)て、人間を救う救世主(キリスト)として地上に派遣した。そして、人間となったイエスは、全人類が地上で犯した罪を一身に引き受けて、十字架に架けられた、人間代表としての犠牲の子羊として死ぬことで、すべての人間を救ったのである。だから、我々はイエスを主である神として信仰し、罪を犯さない人間にならなければ、せっかくイエスが贖ってくれた罪をまた犯すことになる」といったお話の中の「イエスが、すべての人間の罪を、その身代わりとなって贖って(買い戻して)くれた」という「説」を言うのである。

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こう、ごく簡単に説明しても、細かいところを見ていけば、引っかかるところはあるはずだ。たとえば「イエスが贖ってくれたのは、原罪なの? それとも、人間が生まれてから犯した罪の方なの? 両方なの?」といったことだ。
言うまでもなく、イエスが「原罪を含むすべての罪を贖ってくれていた」とすれば、それ以降に生まれた人間は、生涯「罪」を犯さない天使のような生物になっているはずなのだが、現実にはバンバン罪を犯しているし、そもそもキリスト教徒の神父だ法王だといった人でも、大いに人殺しすらしているのだから、イエスが贖ったのは、どうやら「個々が生まれてから、個々に犯した罪だけ」であり「原罪」はそのままのようなのだ。しかし、これは、おかしい。

そもそも、人間が(原)罪を犯して自業自得の罰を受けているとしても、直接、罪を犯したわけでもない「アダムとイブの子孫」まで罪を負わせるのは(やっぱり)可哀想だと、(そもそもそれを科した)神が人間に憐れみをかけて、イエスを派遣したのなら、イエスは「原罪」まで全部きれいに贖ってしかるべきなのだ。だが、実際には「原罪」は残しておいたようで、神のやることは、なんとも中途半端である。
無論、こうした「無理矛盾」を正当化する理屈など、いくらでもひねり出されている。たとえば「人間はできるかぎり努力して、自分の力で罪を克服しなければならない」とかいった理屈などだが、それなら「イエスの派遣」や「贖罪」など、そもそもしなければいいという話にもなって、どっちにしろ「贖罪論」というのは「無理のある理屈」なのである。

それに、キリスト教では「神は唯一」であって、何人もいてはいけない。二人目が出てきたら、片方は「偽物」ということになるはずだ。しかし「父なる神」に派遣された「子なる神(イエス)」って、何? と普通は考えるが、そこはキリスト教的には「触れてはいけないヤバイ部分」であり、つまりは「おかしい」部分、「アンリアル」な部分なのだが、だからこそ「頭のいい神学者たち」は、そこで「父なる神は、子なる神でもあり、聖霊でもある。三つの位格は一つにして、別のものではない。これが三位一体の聖なる真理なのだ。どうだ恐れ入ったか!」と、「三位一体論」なんて屁理屈をひねり出して正当化してしまうのだ。

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だが、青野太潮がここで問題としているのは、「原罪」問題でも「三位一体」問題でもない。他にも、大事な問題がある。それは、イエスが「神なのか、人間なのか、両方なのか?」という疑問(「神-人」性の問題)である。
これについての、キリスト教会の公式見解(正統教義)は、「イエス・キリストは、完全なる神にして、完全なる人間である(半神半人みたいな、気味の悪い不完全なものではない)」ということになっているのだが、「完全なる神にして、完全なる人間である」なんてことが、果たしてありえるのか、というのが、当たり前の疑問なのだ。

たとえば、イエスが「父なる神」と意識を完全に一致させた人間、つまり「万能の認知能力をもつ、神である人間」であるとしたら、そんな意識を持っている「人間」は、「完全な人間」であるわけがない。良くて「超能力者」、悪く言えば「バケモノ」であって、どっちにしろ「完全な人間」ではなく、完全に「人間」ではなくなってしまう。

それに、「父なる神」と意識を完全に一致させていたとしたら、「父なる神」による「子なる神」の派遣ってのも、いわば「死後の復活昇天という結末を完全に知った上での、人間だましの白々しい一人芝居(出来レース)」だということになってしまう。
イエスが、ユダの誣告で官憲に捕まる前に、自分の運命を思って苦しみ、ゲッセマネの園での祈りで「この(※ 苦しみの)杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈るも、最後は「しかし、わたしの願うようにではなく、(※ 父なる神である)あなたのみこころのように、なさってください」と、神に運命を委ねたというのも、あるいはその結果、十字架に架けられて「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という、人間的な絶望と嘆きの言葉を発したのも、ぜんぶ、予めわかった上でやっている、見せかけだけの「一人芝居」だった、ということになってしまう。(「※」は引用者補足)

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一一しかし、そんな神あるいはイエスを、我々は信じることができようか。そもそも、そんな神の意識を併せ持つイエスは「完全な人間」などではないではないか、というのが、青野太潮の「リアル」であり、彼は、この「リアル」が無理なく成立する信仰理解を「聖書の中に見出し得る」と信じて、それに生涯を賭けた「聖書学者という信仰者」なのだ。

無神論者である私からすれば、青野太潮の信仰は、なんとも真っ正直で、哀れをさえもよおさせるものではあるが、しかし、その誠実で真摯な信仰態度には、心底敬服させられる。キリスト教を信仰していること自体は誤りではあるけれど、その人間としての態度は尊敬に値するものなのだ。

そして、結局のところ、あることを「信じるか信じないか」というのは、ジル・ドゥルーズなども書いているとおり「選択」であり「決断」でしかない。ならば、私は、すべての信仰者に対して「信仰するんなら、このように真面目に信仰しろ」と言いたいのである。
ツイッターでやりあった「カトリックのネトウヨ」に対し、私が「信仰してると言うのなら、聖書くらい通読しろ」と言ったのも、「聖書を読んでいれば偉い(立派な信仰だ)」ということではなく、真摯な信仰を持っているのなら、聖書くらい喜んで通読できるはずだ、という意味なのである。それを「聖書だけが信仰ではない」なんて言い訳するのが、カトリックの底辺群なのだ。

だが、聖書を喜んで読み込むような信者は、意外なほど少ない。カトリックだけではなく、プロテスタントの中にさえ大勢いる。「大切なのは聖書に通じることではなく、神を信じる純粋な信仰心だ」云々。

多くの信者は、「宗教」をやってはいても、「信仰(心)」を持っていない。まともな「信仰」を持ってもいないくせに、「私は敬虔な信徒である」などという顔をする「偽善者」だからこそ、彼らはその「信仰を口実」にして、自分を売り込みたがるのであり、その結果「世に害悪を垂れ流す」のである。

閑話休題。ともあれ「まともな信仰者」というのは、滅多にいないというのが現実で、ここでもSF作家シオドア・スタージョンの箴言「SFの90パーセントはクズである。一一ただし、あらゆるものの90パーセントはクズである」(スタージョンの法則)は、的確に現実を捉えていると言っていいだろう。そうした意味でも、青野太潮の信仰は、もっと注目され、見習われて良いものなのである。

本書には、青野のこうした「誠実な信仰」に発する、明晰かつ「真っ当な言葉」が、いくつも見出せる。(「※」は引用者補足)

『 実際、パウロのこのような認識は、極めて合理的で、現代的ですらあると思われます。なぜならそれは、問題の所在を知らない者にはその問題の解決の糸口すら与えられることはなく、むしろその解決の道は、ただその問題について真剣に問う者に対して初めて示される、という一般的な事情にもよく似ているからです。一橋大学在学中に洗礼を受けられた経済小説の開拓者と言われる作家の城山三郎さん(2007年に79歳で逝去。晩年は東南アジアへのシルバーボランティア活動などに熱意を注がれた)の、「人生は挑まなければ、応えてくれない。うつろに叩けば、うつろにしか応えない」との言葉は、その消息を見事に物語っています。

 ここで私は、聖書の学びに関してもまったく同じことが言えるのではないかと、自分の神学部における教師としての経験を振り返りながら思わずにはおられません。なぜならば、鋭い問題意識を持って学べば学ぶほど、その人はますます豊かに祝福されていくのですが、ただ漫然と、聖書に書かれていることをそのまま信じていればそれでいいのだ、それで十分なのだ、別に学問など信仰とは関係ないのだから、などと思って神学部に在籍している人は、ますますやせ細っていくからです。「(※ お金でも信仰心でも)持っている人はさらに与えられ(て豊かにな)るが、持っていない人は持っているものまで取り上げられる」とのイエスの言葉は(中略)ある意味で実に過酷な言葉ですが、しかし、ほんとうに真実を言い当てている言葉だなぁと、私はつくづく思わざるを得ないでいます。』(P35~37)

『 私がしているような歴史的・批判的な聖書の読み方を批判して、「自分は聖書に書かれていることを、すべて素直にそのまま信じています」と言われる方が時々おられます。しかし、ほんとうに誠実に「そのまま」読んでいるのでしたなら、現にそこには大小さまざまの(※ 矛盾にしか見えない)相違が明確に存在しているのですから、むしろこうした「学問」的な疑問を、実際には「素直に」持たざるをえないのではないか、と私には思われます。

 学問の必要性ということはさらに、新約聖書のギリシャ語原典を確定する作業との関連において明確に言えるでしょう。新約聖書のギリシャ語の原典オリジナルは、世界のどこにも存在しておらず、むしろ約6000の、大小さまざまな聖書写本(※ 要は、断片群)だけが存在しています。そしてそれらの写本の厳密な比較検討を通して、オリジナルはきっとこうだったにちがいない、という「学問的で緻密な再構成の作業」をしなくてはなりません。その結果として、ギリシャ語校訂本を私たちは持つことができています。しかしそれでもなお、それは決して最後決定的なものではありえず、そのような厳密な本文確定作業は日進月歩ですので、その校訂本は、最近ではおよそ20年に一回くらいの頻度で、新しい版に更新されていかなくてはなりません。つまり「原典」が動いているのです。』(P39~40)

『 恩師エドアルト・シュヴァイツァー先生は、しばしはこんな話をしてくださいました。

「つまらない説教を聴くよりもひとりで山に登って大自然のなかで神と対話するほうがはるかにましだ、などと言う人が時々いますが、しかしその場合には人は、自分の聞きたい声しか聞こうとしないのが常です。ですから、どんなに退屈であっても自分の思いに逆らった、思いがけない内容を語ってくれる可能性のある説教を、やはり人は大切にしなくてはならないのです。」』(P61~62)

『「青野先生はキリスト教の『常識』にいつも挑戦されているのですね」といった類のことを言われることがあります。しかし私が挑戦しているのはむしろ、少しでも新約聖書学の「常識」を日常のキリスト教信仰のなかに取り入れたい、ということです。しかしそれらふたつの「常識」は、多くの場合、厳しく相対立しているので、ことはやっかいです。』(P66)

最後に、私の言葉。

「真の信仰は、知の光を怖れない。むしろ、知の光を求めるだろう。そして私は、真の神を怖れはしない。偽の神をこそ怖れるがゆえに、それを退治せんとしているのだ」。

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初出:2021年2月10日「Amazonレビュー」
   (同年10月15日、管理者により削除)
再録:2021年 2月18日「アレクセイの花園」
  (2022年8月1日、閉鎖により閲覧不能)

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