見出し画像

将基面貴巳 『日本国民のための 愛国の教科書』 : 愛国とは 〈宗教〉である

書評:将基面貴巳『日本国民のための愛国の教科書』(百万年書房)

本書は、哲学的(つまり根本的)に物を考える習慣のない人には、かなり難しい本である。
著者としては、専門的議論は省き、かなり噛み砕いて、わかりやすく書いたつもりなのだろうが、そもそも議論の中身が難しいのだから、いくら文体を平易なものにしたところで、わかりやすくするには限界がある。

例えば、トランプ大統領支持の低所得労働者層の白人に「国家とはなんでしょうか?」と質問して、まともな説明が返ってくることなど、まず期待できない。
たぶん、多くの答えは「国家は国家。国は国だろう。アメリカやロシアといった、世界にいろいろある国だ」といった循環論法でしか語れないはずだ。
なぜなら、彼らは「国家」や「国」というものについて、まともに考えたことがないのだから、それについての説明など、できるはずもないのである。

で、これは日本人の多くにとっても、まったく同じことなのだ。

日本人の多くも「日本という国は、大昔からあった」と単純に信じていて、その思い込みを疑ったことのある人など、よほど教養のある者以外にはいないはずだ。

本書が難しいのは、そういう日本人にとっての「当たり前」が、当たり前ではなく、日本という「国家」もまた、歴史的に作られてきた、制度であり人為的なイメージである、というレベルのところから説き起こしているので、「日本は日本だろう」と思い込んできたような人には、本書の議論は、およそ想定可能域を超えたものであり、平易な言葉で語られても、まともに頭に入ってくるようなしろものではないのである。

例えば「我が国は、世界一すばらしい国だ」などと、平気と言えるような、よくいる「愛国者」は、物をまともに考えたことのない人の代表だと言えるだろう。
なぜなら、その人が、他のすべての国について、自国と同じ程度の知識と理解を持っていることなど、あり得ないからである。
つまり、知らないことについてのいい加減きわまりない判断を、自信満々に語れるのは、自分が無知であることにすら気づけないほど、物事を考えてない証拠なのである。

普通に考えれば、よほど酷い国でもないかぎり、誰でも自分の国に本能的愛着を持つもので、日本人だけではなく、アメリカ人でもロシア人でもイギリス人でも中国人でも、みんなそれなりに自分の国を愛着を感じているのだ、というくらいのことは、誰にでも想像推測できることだろう。
だから、自分の国の美点と感じることも、他の国の人はその国のそれに類するものに同様の美点を見ているはずだ、というくらいのことは、とうぜん想像推測できるはずなのだ。
だが、こんな初歩的な「類推」すら出来ないのだから、これはもう「何も考えていない。何も考えずに、個人的な愛着を、客観的な優越性だと勘違いしている」痴愚者だとしか言いようがない。

しかし、なぜ多くの人は、この程度の思考すら停止させて「我が国はすばらしい!」などと考える「愛国」感情を持ってしまうのだろうか。

それはまず「我が国」は、文字どおり「私の国」だからだ。
他人の国ではなく、私の国なのだから、他人のものよりすばらしいと思いたい、というのは、わかりやすい人情だ。
まして、自身が、個人的にこれといって優れたところのない人間、つまり凡人なら、せめて優れた集団の一員としての「肩書き」が欲しい。そして、私の肩書きが「日本人」なのであれば、「日本」がすばらしくないのは不都合だから、すばらしいと思いたい、というのも人情である。
で、こういうのを、日本にアイデンティティを委ねると言う。「日本あっての私」ということだ。

しかし、こういう個人として自立できず、国にアイデンティティを委ねることでしか安心して生きられない凡人が多いからこそ、国家の方も、本来、国家の主人たる国民を、逆に、良いように操ろうとする。
「そうです。日本はこのように素晴らしい、世界に冠たる国なのです。どうか自信を持ってください。そのかわり、貴方もこの祖国日本に忠節を尽くし、日本のために身を賭する覚悟も持ってください。それでこそ日本人なのです」と煽てあげる。
これで、大概の人は、本来、国民に資するために存在する国家権力によって、逆にその道具にされてしまうのである。

こう書くと、愛国者の皆さんは「いや、私は国家におだてられ、洗脳されたから、日本がすばらしいと思うのではない。現に日本には、すばらしい風土や文化があるではないか」と反論するかもしれないが、繰り返すが、それはどこの国にだって、たいがいはあるものに過ぎず、自分の国のものだから、ことさらに良く見えているだけなのだ。
そしてこれは、少し頭を冷やして考えれば、小学生でもわかる理屈なのである。

では、どうして、こんなわかりきったことが理解できず、「我が国はすばらしい」だから「私は我が国を愛するし、愛するのは当然である(愛国は自明の行為)」だなどと考えてしまうのだろうか。

それは「愛国」感情(愛国心)が「宗教」だからだ。

宗教というのは、どんな宗派宗派でも「自分たちが、もっとも正しく、この世界のあり様を理解している」と主張する。
しかし、世界には、たくさんの様々な宗教宗派が存在していて、それぞれにそう主張しているのだから、論理的に考えれば、正しく世界を理解し説明している宗教宗派は、一つだけか、あるいは、一つもないか、しかないのである。
なのに、よその宗教宗派のことをろくに知りもせず「我が仏は尊し」つまり「うちが正しい」などと思っていられるのは、よほど何にも考えていない人たちだとしか、言いようがないのである。

そして、これは世界各国の「愛国者」たちも、まったく同じなのだ。

もちろん、少し頭のいい愛国者なら「日本が世界一すばらしいなどとは思わない。事実、日本には、今も昔も多くの問題点や難点があるだろう。だが、私はそれを承知で、あえて日本を愛するのだ。日本に生まれた人間として、日本をその欠点も含めて愛するのだ。親が、障害を持った子をも愛するように、私は日本を愛するのであって、自分の子が、世界一の美貌の持ち主だなどと勘違いするような、愚かな親バカ、親の欲目の持ち主などではない」と主張するだろう。

それならば結構。
そんな愛国者であれば、日本の問題点や欠点や難点が見えているのだから、日本のために、それを正していこうとするだろう。
不出来な子供であっても、その愛のゆえに、少しでも立派に育て上げようと考えるだろう。

それこそが「真の愛情」であり、それが自国に向けられたものこそが「真の愛国心」なのだ。
当然「親バカ」「溺愛」「親の欲目」「子供依存」めいた「愛国心」は、自堕落で愚かなものでしかない。それは、子供(国)を歪めるだけの「毒親(毒国民)」でしかない。

したがって「真の愛国者」ならば「日本人なら日本を愛せ。日本を愛すなら、日本を批判するな、全肯定せよ」などという、寝ぼけたことを言うはずもないのである。

そんなわけで、本書で著者が語っているのは「たまたま日本に生まれ育ったからと言って、盲目的に日本を過大評価するような愛国心など持つ必要はないし、そもそもそんな愛国心は偽物なのだ。しかし、それでも日本を愛すると言うのであれば、日本の美点は美点、欠点は欠点と、客観的に評価した上で、日本をより良くしていくために働く者こそ、真の愛国者なのだ。ただし、権力者というのは批判を嫌うものだから、貴方が国のために善かれと思っての忠言や諫言をしても、喜んではくれないどころか、むしろ貴方を、国に仇なす非国民扱いにして遠ざけようとするだろう。つまり、国は貴方に優しくはしてくれないだろう。それでも貴方は、国のために、愛国心を持って、苦難の道を選べますか?」ということなのだ。

このように、理性的に国を愛せるのなら、それは国に対する「理性的な信仰」だ。

しかし、多くの人の愛国心とは「思考停止の盲信」でしかない。

尊師が「われわれは敵に囲まれて攻撃されている。敵をポアしてきなさい」と言えば、それを鵜呑みにするような態度は「盲信」以外の何者でもない。
しかし「尊師、お言葉ですが、それは間違っていませんか」と言える弟子は滅多にいない。そんなことを言おうものなら、その時から、自分が敵視され、ボアされてしまうかもしれないからだ。

画像1

したがって、信じるも信じないも、まずはその対象をしっかりと観察して客観的に評価し、その評価に応じて、適切に関係を結んだり、結ばなかったりするべきだ、というのは、宗教でも国家でも同じなのである。

だがしかし、周知のとおり、「信仰者」というのは、とにかく度し難いもの。
盲信者には、汚いおじさんも、神のごとき人に見えてしまう。それが「信仰」であり「宗教」なのである。

初出:2020年3月19日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

 ○ ○ ○









 ○ ○ ○