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佐藤優、 深井智朗 『近代神学の誕生 : シュライアマハー 『宗教について』 を読む』 : シュライアマハーの 熱き信仰心

書評:佐藤優、深井智朗『近代神学の誕生: シュライアマハー『宗教について』を読む』(春秋社)

本書が何を語ったものかを端的に示しているのが、「あとがき」における深井智朗の、次の言葉だ。

『 この対談で試みたことは、『宗教について』の新しい、厳密なコメンタリーを作るということではなかったと思う。むしろシュライアマハーの神学的な思考の奥深さ、彼の時代感覚、彼の世界を見る目から学ぶことで、一見、私たちの生きている世界とはまったくかけ離れていることを論じているかに思える『宗教について』を使って、現代の諸問題を読み解く視点を獲得しようとしたのだ。毎回、二〇〇年以上も前に書かれたテクストと向き合っていたのだが、私たちの視点は過去にではなく、現在と将来に向けられ、岐路に立つ現代社会の諸問題と対峙していたのだと対談を終えた今は思っている。』(P258)

つまり、本書を読んで、シュライアマハーについての「新しい解釈(知識)」を得られたとか得られなかったとか言っているような読者は、本書を読めていなかった、ということなのだ。

本書は、これまでは「近代的理性に迎合してキリスト教神学を歪め、やがてカール・バルトの超越主義によって超克された、過去の人」という、表面的かつ通俗的なシュライアマハー解釈を『宗教について』を読み直すことで翻し、「信仰者としての時代との向き合い方」を、シュライアマハ−から学ぼうとしたものなのである。

そして、そうした問題意識は、ろくに原典に当たりもしないで、バルトが流行れば「シュライアマハーなど古い」と決めつけ、著名な佐藤優や深井智朗がシュライアマハーを採り上げれば「今はシュライアマハー(の再評価が)熱い」などと、俗物根性丸出しで右往左往する人たちの信仰心を批判して、暗に「だから、今のクリスチャンはダメなのだ」と言わしめるものなのだ。

『 シュライアマハーもそうですが、敬虔主義のまじめな人たちが信仰を持ちつつ勉強していくと、佐藤先生がさっきおっしゃったような信仰と自然科学とか、信仰と学問の矛盾といった問題に悩む。そこで自分たちの信仰と現実にどう折りあいをつけるか、どこまで折りあいをつけられるかという実験をはじめるのです。ここまでは許してもいい、ここまではキリスト教の神学と自然科学は和解できる、といったふうに、少しずつ自分の信仰をひろげていく。
 教会から「そんなことをするな、それはサタンの誘惑だ」と言われたりしながら、それでも少しずつ戦っていく。』(深井・p15〜16)

『 使い古された言いまわしかもしれませんが、シュライアマハーは「死んだ宗教」とか「魂のない宗教」はだめだと思っている。ドイツのキリスト教は、他の国に比べれば、教会も立派、制度も立派。プロテスタント的なプロイセンはすばらしい……にもかかわらず、でも、なにか死んでいるんです(笑)。そこには生命がない。シュライアマハーは教会だけではなく、敬虔主義にも、啓蒙主義にも、そう感じるから批判している。』(深井・P58)

本書で何度も指摘されているとおり、シュライアマハーは『宗教について』に「宗教を侮蔑する教養人のための講話」というサブタイトルをつけて、同書がいかにも「啓蒙主義者の誤りを批判して、キリスト教信仰を擁護する本」であるかのように装いながら、同時に「教会をダメにしている、自称〈敬虔な教会人〉」たちをも批判している。
シュライアマハーに言わせれば、近代的理性を怖れて、それとの対決を避け、妄信に引き蘢ることで自分は「純粋な信仰者」でございという「アリバイ作り」に明け暮れているような臆病な手合いは、信仰者の名に値しない「教会依存者」だ、と感じられたのだろう。

そして、こうした「熱い信仰心」(や、熱さの裏返しとしての、徹底的に冷めた信仰心)こそが、キリスト教信仰の本質なのだと、佐藤優はまとめている。

『 信者になるか否定するか、どちらかということです。徹底的にキリスト教を叩きつぶすというかたちのコミットメントもある。徹底的に自分の信仰の問題として受け入れるというコミットメントもある。
 キリスト教は基本的に、激しさが好きなのです。黙示録を見てもわかるように、冷たくもなく熱くもない、生ぬるいものは、ペっと吐きだされるわけ。だから制度化された学知にはなじまないところがある。』(佐藤・P217)

もちろん、こうした徹底性の危険性については、佐藤も深井も十二分に認識しているが、それはどうしようもないことなのだと考えている。つまり、プロテスタントの信仰は「救いの必然性」が開かれている。言い変えれば「こうすれば、絶対に救われる」という保証はない。けれども、神を信じて、神が人に与えたもうた理性を精一杯駆使して突き進むのが「神への信頼に賭ける(プロテスタントの)信仰」なのだという理解なのだ。

『 問題は、神の声や啓示と、たんに心のなかに思っているだけのことを、原理的に区別することができるかどうか。おそらくこの場面で「感情」が鍵になる思う。感情は外部的ですからね。しかしその結果として一種の心理学主義が生じているのはたしかで、「神なき人間中心主義」に陥りかねないのです。第一次世界大戦のような破局に行きついてしまう人間の自己絶対化、人間主義になってしまうのではないか。
 でも私は、シュライアマハーは頭のいい人だから、その危険に対する防衛措置を働かせていると思う。それを読み解いていくのが、この『宗教について』を読む意義のひとつだと思っています。』(深井・P35)

『 もうひとつ、直観の場合、その直観がまったくのまちがいという可能性を排除できません。シュライアマハーも「誤った直観」とか「誤った悟性の働き」ということを言いだします。シュレーゲルはそれが気に入らない。「直観は直観なんだ」というのがシュレーゲルの考えです。』(深井・P74)

深井一一敬虔主義や啓蒙主義と関係するところですが、この時代のルター派にせよ、プロテスタント・スコラにせよ、教会に依存することは救いの客観性になるのです。私の(主観的な)努力ではなくて、制度である教会に依存するほうが、より客観的な救いの証明になるのです。私がやるのではなく、教会を信頼してお願いする。でもシュライアマハーは、そういう態度はだめだというのです。
佐藤一一シュライアマハーが神秘主義をいやがるのも同じですね。神秘主義は最初に跳躍してしまえば、そのあとは合理的な階梯になっている。シュライアマハーは近代の人だなと感じます。
深井一一ちゃんと救われるかという「救いの確かさ」の問題が残るのです。
佐藤一一救いの確かさについては、ひらかれたままですよね。こうすれば絶対に救われるという(※ 人間の編み出した)処方箋があったら、それはインチキです。(※ なぜなら、神を完全に理解することは誰にもできないから)』(P87)
(※は、引用者による補足)

このような「シュライアマハー理解」から我々が学ぶべきことは、当然のことながら『『宗教について』の新しい、厳密なコメンタリー』などでないことは明らかだろう。シュライアマハーが、キリスト教徒とともに非信者にも突きつけているのは「信じることの勇気」であり、その徹底の必要性なのである。

そして、そんな観点から今の自分を顧みれば「いったい私は、この今の時代に真剣に向き合っているだろうか」という問題意識にも当然行き当たらざるを得ない。だからこそ、その時、私たちは「過去」を玩弄することだけでは済まされず、おのずと『私たちの視点は過去にではなく、現在と将来に向けられ、岐路に立つ現代社会の諸問題と対峙』せざるを得ないこととなるのだ(片山杜秀『歴史という教養』なども、同様の問題意識を共有している)。

なお、本書は、著名な作家でプロテスタントの佐藤優とプロテスタント神学者である深井智朗の対談(形式の講義)であるが、ほぼ同時期に、著名な評論家であるカトリック信者・若松英輔とカトリック神学者・山本芳久との対談『キリスト教講義』が刊行されている(本書『近代神学の誕生』は2019年1月、『キリスト教講義』は2018年12月刊行)。
自身の信仰にもとづく「党派的偏見」だけで読書するのではなく、「キリスト教とは何か」ということを、まともに考える気のある読書家ならば、ぜひ両者を読み比べてみるといい。善かれ悪しかれ、プロテスタントとカトリックの「知性」の質的違いが、はっきりと感じられるはずだ。

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【深井智朗の捏造・剽窃問題について】(2019.5.20 追加)

『深井智朗は、私がもっとも信頼する日本のクリスチャン学者だ。』と、深井の単著『聖書の情景』のレビューに書いた。それだけに、今回の事件は、残念と言うよりも、驚きを禁じ得ない。
何かの間違いではないのかと思いたいところだが、指摘された事実は動きそうにない。事実は事実として受け入れるしかないだろう。

深井のやったことは、もちろん「学者として」「人間として」許されないものなのだが、彼の場合はそれに「クリスチャンとして」「牧師として」という条件が加わるので、通常の場合よりも、ずっと風当たりがキツくなるのは避けられないだろう。
それも自業自得だと言ってしまえばそれまでだが、彼への批判は世間に任せて、私はここで「なぜ」と問うことの方を選びたいと思う。

私は今でも、深井智朗の「人柄」を信じている。それはたかだか数冊の彼の著作から読み取った印象に過ぎないけれども、読書家の自負として、それが間違っていたとは、今も思っていない。
ただ、それだけで、人のすべてが分かるものではないというのも、また事実である。私は、彼が学者としての倫理について、甘いところある人間だとは思わなかった。そこまでは読み取れなかったのだ。

それにしても、そもそも彼はなぜ、存在しない神学者をでっち上げたり、人の意見を剽窃したりしなければいけなかったのだろうか?
わざわざ存在しない神学者をでっち上げなくても、彼はその自著をそれほど遜色なく完成させることができたのではないかと思うし、人の意見を剽窃しなくても「と誰某が書いているが、私もそれに賛成で、さらに言うなら、こういう論点もあろう」といったような書き方もできたはずである。なのになぜ、学者としての致命的行為に手を染めてしまったのか?

私にはこれが、損得の問題ではなく、なにかしら「悪徳の魅力」的なものに憑かれてのものであったように思えない。
「学者として」「クリスチャンとして」「牧師として」という、並外れた「禁欲」「清廉」が求められる立場にあり、すくなからずそんな期待に応えて、そんな人間を演じなければならないからこそ、その無理の代償として、こっそりと「悪徳」に手を染めるという、倒錯的に「甘美な誘惑」を、排除できなかったのではないだろうか。

むろん、これは私の想像に過ぎないけれども、彼の「犯罪」をして、彼の人格を全否定するような評価の仕方は、やはり間違っていると思う。それでは、彼の「犠牲」は無意味になってしまう。

いわゆる「いい人」が破廉恥罪を犯すことは、決して珍しいことではない。
カトリックの方で問題となった「司祭の性的な児童虐待事件」の犯人たちの多くも、決して単純に「非人間的な悪党」などではなかったはずだ。彼らも、司祭になっていなければ、独身の時には風俗店に通ったり、彼女を作ったりして、性的欲求を満たしていただろうし、結婚して普通の性生活を送ったであろう。そのようにしていれば、常習的な性的児童虐待に手を染めることもなかった蓋然性が高いのではないか。

もちろん、こうした「性犯罪」と深井智朗の「学術的不正行為」を同列には扱えない。なぜなら、仮に深井が「クリスチャン」でも「牧師」でもなく、無宗教の歴史研究家であったとしても、「本人の性格」の問題として、今回のような「不正行為」を行った蓋然性は低くはないからである。

しかし、それでも、深井智朗の場合には「学者」であることは無論、「クリスチャン」であること「牧師」であることが、人並み以上の「歯止め」とならなかったのは、やはり、そこに倒錯的な罠があったからではないかと思えてはならない。
人並み以上に「やってはならない」「自制しなくてはならない」という意識こそが、逆説的に「悪魔の誘惑」となったのではないか。そんなふうに思えてならないのである。

ともあれ、深井智朗がクリスチャンであろうとなかろうと、実際に不正行為を行ったのであれば、その事実を認め、悔い改めるべきだろう。
深井が今回のことで、キリスト教会や神学界でその立場を失おうと、存在するのであれば、主イエス・キリストは、決して深井を見捨てはしないだろうからだ。

「罪ある男」を石打ちにしろとは言わず、そこから生まれ変われと言うはずだからである。

初出:2019年3月2日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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