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佐藤優 『 「池田大作 大学講演」を 読み解く 世界宗教の条件』 : 法華折伏破権門理

書評:佐藤優『「池田大作 大学講演」を読み解く 世界宗教の条件』(潮出版社)

本書についての、私以前のレビュー17本を大別すると、

(1)「真面目な(創価)学会員」による「大絶賛」
(2)「創価学会に興味のある人」の「まあ、こんなものかなあ」という感想
(3)「創価学会嫌い」による「つまらない」という結論先行の評価

の、3類型に収まると言えるだろう。

私の立場は、どちらかと言えば最後のものだが、しかし、結論ありきの否定的立場でなく、徹底的に懐疑的な立場だと言えるかもしれない。

私は、小学生の頃に家族とともに創価学会に入会し、2003年の「アメリカによるイラク攻撃(イラク戦争)」を公明党・創価学会が支持したことによって創価学会を辞めた、という経歴の人間だ。つまり、30年ほどは、そこそこ真面目な創価学会員であったので、池田大作の講演記事や著作にも、それなりにふれてきた。
(ちなみに今でも、「池田大作」と、肩書きや敬称抜きで書くことには抵抗がある)

そんな私は、今や創価学会(の信仰)をまったく信じていない。アメリカの「イラク戦争」を支持した事実を総括しないまま、いまだに「平和主義」を臆面もなく掲げている点に、本質的な欺瞞体質しか感じないのだ。

だから、池田大作の思想についても「裏表」があるだろうと否定的に見てはいるが、しかし、すくなくとも「表」に出ている部分「公式見解としての思想」については、基本的に「間違ってはいない」とも評価する。

と言うか、「信仰」というものに、最初から最後まで実感や確信を持てなかった(つまり「回心」が無かった)私が、それでも創価学会員であり得たのは、池田大作が体現しリードした、創価学会の「平和主義」思想という部分、これだけは間違いなく正しいと評価していたからなのだ。そして、今回、本書を読んでも、その評価は、基本的には変わらなかった。

しかし、私は今回、池田大作の公式思想をそれなりに高く評価する者として、本書を読んだのではない。そうではなく、池田大作の思想をやたらに高く評価している、佐藤優の「本音」をさぐるための「参考文献」として、本書を読んだのである。

と言うのも、私は近年、宗教批判的な立場から、キリスト教を独学しており、そうした文脈の中で、プロテスタントにして元外交官という「聖濁合わせ吞む」思想家としての佐藤優に、興味を持ったのだ。

すでに読んだ著作の数なら、池田大作よりも佐藤優の方が多い。
その上で私は、佐藤優を「本物のクリスチャン」だと思っているし、彼は、現安倍政権に否定的な「リベラルな民主主義者」であると信じてもいる。それは、彼の沖縄出身という出自や、その特異な経歴や信仰において、そこに嘘いつわりは無いと判断したからだ。

しかし、だからこそ、彼の「創価学会」や「池田大作」に対する全面的高評価は、「眉唾もの」だという疑いを捨てられない。

と言うのも、外交官として、対立するあらゆる立場の人とつながりを持ち、それをいざという時に活かそうとしてきたリアリストたる佐藤ならば、「公明党を擁する創価学会」を、今の日本の危険な政治状勢に抵抗できる数少ない「中間団体」であり、政治的な利用価値が極めて高い存在だ、と評価しているであろうことは、容易に推測されるからである。
つまり、佐藤優は、現実の政治状勢への抵抗手段として、「創価学会」への接近を行っており、そのために「無条件的絶賛」を演じて見せているのであろう、というのが私の見立てなのである。

ただ、そこまでは許容範囲である。たしかに、今の安倍政権的な危険性に抵抗するためには、漫然とアンチ安倍デモなどの示威行為をするのではなく、創価学会や公明党をすこしでも味方につけることの方が有効だという判断は、政治的リアリストのものだと評価できるからだ。

しかし、正体を偽り、人を騙してまで、目的をなそうとする「政治的」人間というのは、本当に信用できるのか? いざとなったら、あちらがわに日和って、口先三寸で自己正当化し、寝返ってしまうのではないか、という疑いを、私は払拭しきれないのである。
だから私は、佐藤優の本音が知りたくて、「無条件の賛嘆」という態度がわかりやすい本書を読むことにしたのである。

しかし、それで佐藤優の本音が、スッキリと見通せたかと言えば、ことはそう簡単な話ではない。佐藤だって、そのあたりは十二分に韜晦しているのだから、本書に期待できるのは「感触を掴む」以上のことではない。

その上で、それでも私が本書に感じたのは、やはり佐藤優の「創価学会」や「池田大作」絶賛は、政治的判断の拠るものだということと、しかし、まんざら「嘘ばかりでもない」ということだ。

つまり、当初の見立てどおり、佐藤優は「創価学会」や「公明党」というカードを手にしたくて、意識的に接近をしており、だからこその「無条件の賛嘆」を演じて見せている。これは、まず間違いない。
しかし、佐藤は、池田大作によってなされた「平和主義」運動自体には、それなりに本気で高い評価を与えているようでもある。と言うのも、単なる理屈だけなら、専門の思想家や学者の方が、よほど深いことを語っているだろうが、なにしろ池田はそれを行動で示して見せているという点において、外交官であった佐藤は、その事実を高く評価しているようなのである。

そして、次に佐藤が「創価学会」や「池田大作」を本気で高く評価する理由としては、「創価学会」が、宗門であった日蓮正宗大石寺から独立して、信仰的自由を獲得した、という点への「親近感」があるのではないか。
つまり、プロテスタントである佐藤は、そこにキリスト教会(後のカトリック)からのプロテスタントの批判的独立を二重写しにして、その「反・権威盲従主義」に共感しているのではないか、と感じられたのである。

それに、ローマ教皇をトップとした「教会」権威が、信者を司牧するという「教会内非対称性」が本質のカトリックとは違って、「万人司祭」のプロテスタントは、もともと「神と私」の1対1関係をこそ重視するために、他の宗教に対しても(「教義」ではなく)「信仰態度」を重視するという点において、「異教」である創価学会にも共感を示しやすい立場なのである。

だから、佐藤優の「創価学会」や「池田大作」に対する高評価は、「100%の嘘」ではないと言えるし、もちろん創価学会員になるつもりのないプロテスタント佐藤の、「創価学会」や「池田大作」への絶賛は「100%の本音」でもない、と言えるのである。

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さて、前述のとおり、池田大作の(公式の=字面の)思想というのは、基本的には「正しい」。だからこそ、これを肯定的に評価することは、(世間から「創価学会シンパ」呼ばわりされる覚悟さえあれば)容易に可能だ。

しかし、池田大作の思想の最大の弱点は、その「公式」性や「優等生」性や「正論」性にあると言って良い。要は「間違ってはいないけれど、人間の実存性への凝視(つまり、文学的深み)に欠けていて、つまらない」という点にあろう。
池田大作の文章を読むと「お説ごもっとも」とは思っても、う〜むと唸ってしまうような「重み」が無いのである。だからこそ、創価学会員時代の私は、否応なく読むことを求められる池田大作の文章を、進んで読む気にはなれず、「もっと他の本を読みたい」という不満を感じ続けていたのである。

今の私のこうした言葉が、現役の「真面目な創価学会員」に届くとは思わない。
しかし、以下の点だけは、しっかり考えるべきだと思う。それは、

(1)なぜ、日蓮の教えからすれば「外道」(五重の相対)でしかないキリスト教の信者である、佐藤優の「解説」や「支持」や「賛嘆」に喜んでいられるのか?(有名人が誉めてくれるのなら、何でもいいのか?)

(2)なぜ、ここまで「創価学会」や「池田大作」を絶賛する佐藤優が、キリスト教を捨てて創価学会に入ろうとしないことに、疑問を感じないのか?

(3)創価学会は、「日蓮正宗・大石寺」を捨てたが、それは「日蓮の教え」そのものを捨てたわけではないはずだが、それでは「五重の相対」や「折伏」というものを、都合よく、過去のものにすることは出来ないのではないか?

といった点だ。

私は、現在「キリスト教批判」をくりひろげているが、その批判の要点は「教義的首尾一貫性(の欠如)」にある。
つまり「本当に信じているのなら、首尾一貫性を貫き通せ。つごうよく誤摩化すな。誤摩化しで成り立つような信仰は、偽物でしかない」という、「日蓮」的な原理主義的批判である。

今の創価学会は、なんだかんだ言っても、「公明党」に象徴される「現実(実績)第一主義」であり、そこが佐藤優にも高く評価されているのだが、しかし、日蓮的な原理原則を失えば、それはもう、単なる「宗教がかったリアリズム思想」でしかないのではないか。
日蓮の思想とは、佐藤優が高く評価するような「裏表を上手に使い分けながら、結果を出していくリアリズム」などではなかったはずだと、いまだ日蓮に惹かれるところのある私は、そのような不満を抱かざるを得ない。

中途半端な「信仰」なら、やらない方が良い。
それよりも、「宗教的真理という虚構の権威」を後ろ盾としない、「人間的な理想主義の意志的選択」の方が、弱くても、正しいのではないかと、そう言いたいのである。

初出:2019年6月29日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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