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今村夏子 『星の子』 :〈普通の人々〉の生活世界

書評:今村夏子『星の子』(朝日文庫)

今村作品は、『むらさきのスカートの女』『こちらあみ子』に続いて3冊目。
本書『星の子』は、芥川賞候補作になった作品だが、前の2冊に比べると、しごく真っ当な小説に仕上がっていて、若干の物足りなさを感じた。

題材的には「新興宗教」を扱っており、語り手は新興宗教の信者家族の娘で、たしかにその少し変わった家族の様子や、周囲との軋轢なども描かれているので、そこに何か意味慎重なもの、特殊なものを読み取ろうとする人もいるのだろうが、私としては、これはごく普通の家庭の、ごく普通の素直な娘の、意外に波乱の無い「小市民的生活」を描いた小説だと感じた。

新興宗教だから何か「おかしい」はずだとか、周囲との軋轢がもっとあるはずだとかいうのは、新興宗教に対する先入観による色眼鏡的な評価であって、少なくともこの小説は、そのような「世間並みの偏見」は書かれておらず、普通に新興宗教を信じ、周囲との若干の軋轢をさほど大きな問題とは考えず、自分たちの信じたものに素直に生きている人たちの物語だと、私にはそう思えた。

かく言う私も、幼い頃から新興宗教に入信した家庭の子供であったし、大人になってからは、あるきっかけで信仰批判者に転じたのだけれども、しかし、だからと言って、新興宗教の信者たちが、世間並みにまともで、世間並みにいい人たち、いや、世間並み以上にいい人が多い、という評価は、今も変わっていない。

私が宗教や信仰を批判する場合、そこで問題にするのは、いわゆる知識階級の人たち(つまり、指導者階級)の論理的一貫性の問題であって、普通の信者には、もともとそんなものを求めはしない。なぜなら、普通の人は、新興宗教の信者であろうと、無宗教者であろうと、論理的一貫性なんてことなど問題にもしなければ、そもそも考えたこともないからである。

例えば「私は宗教なんか信じません」と言っている人の大半が、なにかの危機的な局面では、心の中で「神さま、どうかここだけは助けてください」と祈ったり、観光で有名神社の境内などに入ると何か「清浄感」を感じたり、結構しばしば無根拠に自分の直感を信じたりなどしているのだから、そんな人が新興宗教の信者を特別視するのは、他ならぬ自分も、そして他人をも見えていない証拠であって、論理的一貫性なんてものについては考えたことのない証拠なのである。

そして、そんなふうに「世間の普通の人々」を見ている私からすれば、本作の主人公やその家族は、非常にまともで素直な「暖かい家族」だとしか言いようがない。
たしかに、その宗教の部分に引っかかってしまう人(近親者)がいるというのは避けられない事実だが、それは家族を含めた「他人に期待するものの違い」として、仕方のないことなのではないか。
それはちょうど「面食い」といっしょで、そこにこだわるかこだわらないかは、所詮は個人の避け得ない個性の問題で、良し悪しの問題ではないからである。

私の場合、宗教には厳しいが、それは宗教に完璧を求めるから厳しいのであって、宗教を見下しているから厳しいのではない。
普通の信者のように、結果オーライではなく、首尾一貫して欠けるものがない真理を体現するものとしての宗教を求めるから、新興宗教は無論、世界宗教だって、ぜんぶ基本的にダメだ、となるのであって、人間が完璧でないのは初めから分かっていることだし、だからこそ、普通の人に求めるのは、そういうところではないのだ。

本書に描かれた主人公の家庭は、とても素敵なそれであり、主人公はとても素敵な、家族想いのお嬢さんだと思う。それでは、文学にならないとでも思うのなら、それも文学についての「権威主義的な偏見」だと、私は思う。

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【補記】(2019.07.12)

以下にご紹介するのは、現時点で既巻の今村作品5冊を、すべて読んだ段階で書かれた「今村夏子論」である。
つまり、個々の作品論ではなく「作家論」として書かれたものなので、それまでに書かれた作品論としてのレビューの巻末に収録させていただいた。
なお、下の書籍タイトルは、上から刊行順で、末尾に付して数字は、私が読んだ順番である。

『こちらあみ子』(2)
『あひる』(4)
『星の子』(3)
『父と私の桜尾通り商店街』(5)
『むらさきのスカートの女』(1)

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 あなただって変な人:今村夏子論(拡張版)
  一一 Amazonレビュー:今村夏子『父と私の桜尾通り商店街』

本書『父と私の桜尾通り商店街』には、表題作の他「白いセーター」「ルルちゃん」「ひょうたんの精」「せとのママの誕生日」「モグラハウスの扉」が収められている。

現時点での最新作である『むらさきのスカートの女』から読み始めて、『こちらあみ子』『星の子』『あひる』と読んできて、現在刊行されている本としては最後に残った本書『父と私の桜尾通り商店街』を読了した現時点では、本書が最も完成度の高い1冊だと思う。

今村夏子の作風については『あひる』を読んだ段階で、「ドラマ性の偏見を突く:今村夏子論」を書いたので、本書については、その読みが外れていなかったかどうかを確認しながら読んだのだが、どうやら私の読みは、大筋で外れてはいなかったようである。

おなじことを繰り返すのも何なので、先に前記の『あひる』についてのレビュー「ドラマ性の偏見を突く:今村夏子論」を紹介してから、後で本書『父と私の桜尾通り商店街』について書くことにする。

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 ドラマ性の偏見を突く:今村夏子論
  一一 Amazonレビュー:今村夏子『あひる』

今村作品は『むらさきのスカートの女』『こちらあみ子』『星の子』に続いて4冊目だが、今村夏子の実像が、かなり見えてきたように思う。

本作には、表題作「あひる」のほかに「おばあちゃんの家」「森の兄妹」が収録されているが、他の長編や作品集にくらべると、やや児童文学的な柔らかさが強いように思う。
しかし、独特の「不穏さが漂う」といった点は、他の作品と変わりはないので、本質的な違いはどこにもないと言って良いだろう。

さて、4冊目にして私が読み取った「今村作品の本質」とは、今村が描くのは「どこか不穏さをかもす、しかし優しい日常」といった「上っ面」ではなく、「日常に存在する不穏さに、過剰なドラマ性を見てしまう偏見を突いてくる、その批評性」ということである。

例えば『星の子』は、新興宗教の信者家族を描いており、それゆえの周囲との軋轢葛藤も多少はあって、その点で「危うさ」や「不穏さ」が漂うのだが、しかし、物語は最後まで、よくある「破局」も「どんでん返し」もなく、「そのまま」の日常が続いてしまう。

これは、本作品集の「あひる」「おばあちゃんの家」も同じで、これらの作品の語り手家族も、なにやら熱心に「神さまを拝んでいる」ようだが、それで大きな破綻がおとずれるわけではなく、物語はありふれた日常的生活の中に収まってしまう。
「おばあちゃんの家」のおばあちゃんは、認知症のせいか、最後は性格が変わってしまうが、悪い方に変わるわけではない。単に活発になるだけだ。
また「森の兄妹」に登場するおばあさんも、すこし怪しげではあるが、結局はただの子供好きなおばあさんに過ぎない。

そして、これは『むらさきのスカートの女』や『こちらあみ子』でも同じだ。
これらの作品では、直接「宗教」が描かれるわけではないけれど、いわゆる「変人」や「知的障害者」といった「普通から外れた人たち」が描かれて、多少は周囲の「普通」に波風を立てはするものの、それで決定的な「破局」や「どんでん返し」的なものがおとずれるわけではなく、最後は「日常」に回帰してしまう。

つまり、今村の描く「日常」とは、私たちの考える「影の差さない日常」などではなく、「ときどき影が差す(ものである)日常」なのだ。

私たちは、普通に生きていれば、ときどきその生活に「不穏な影」がさすものなのだが、それはたいがい「不幸の予兆」などではなく、たんなる思い過ごしで、いつのまにか何事もなく過ぎ去ってしまうものだ、ということを知っているのではないだろうか。

それなのに、私たちは「小説」などのフィクションのなかで「不穏な影」がさすと、それを、何か不幸がおとずれる「サイン=合図」であり「伏線」だと思いこんでしまう。そのような「物語的紋切り型」に馴らされてしまって、小説というものに「偏見」を持ってしまっているのだ。

つまり、今村夏子は、そうした「偏見の虚構性」を、物語において突いているのである。「その発想は、馴れによる偏見に過ぎないよ。予感はあくまでも予感であって、的中する予言でなんかないんだ」という批評であり、これはきわめて「純文学的な試み」だと言えるだろう。

私たちは「新興宗教」というと「うさんくさい」とか「何か裏があるのではないか」などと、紋切り型の発想で偏見を持ってしまうが、言うまでもなく新興宗教にもいろいろあって、それは人間に白人もいれば黒人もいるとか、日本人にもネトウヨもいればパヨクもいるしノンポリもいる、といったことと同じである。

しかし、私たちは「密室殺人が起これば、そこにトリックがある」などといったような「パターン」で物語を見てしまう。たしかにこれは「効率的」な読み方ではあろうものの、慎重さには欠けて、きわめて「先入観に無自覚」であり「偏見」的だと言ってもいい。

今村夏子は、こうした私たちの「物語的偏見」を、「反・物語」によって逆照射して見せているのではないだろうか。「こっちの方が、当たり前(普通)なんですよ」と。

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私は、上のレビューで、今村の小説を「反・物語」と表現した。これは、「小説のお約束」を意識的に裏切ってみせる、批評性を込めた小説、のことである。

よく言われるように、今村の作品は「不穏」と「優しさ」が同居している「不思議な世界」なのだが、この「不思議さ」は、小説的に「ありがちなパターン」にはハマらない、むしろ本来ならば相性が悪いとさえ考えられている「不穏」と「優しさ」が同居させられている点においてこそ、良い意味で読者は「予想」を裏切られ、その意外性を楽しむことができるのだ。つまり、平たく言えば「ありきたりの小説」ではないのである。

しかし、上に紹介した「今村夏子論」でも指摘したとおり、そうした「面白さ」は、読者の側が「小説」ばかりではなく、「人間」に対しても「偏見」を持っていればこそ、なのだ。

「普通の(まともな)人間」とはどういうものであり、「普通の(まともな)正義」とは、「普通の(まともな)人間関係」とはどういうものかといったことについて、決まりきった「常識」としての偏見に縛られて、そこから外れたものを「おかしなもの」「狂ったもの」「間違ったもの」と、深く考えることもなく決めつけてしまっているからこそ、そうしたものの裏をかいてくる今村夏子の作品は、「不思議」な作品であり、それでいて読者にひと時の「自由」を与えてくれるのである。
「あなただって、べつに普通である必要はないんだよ」と。

例えば、「白いセーター」の語り手は、いたってまともな女性のようだが、こまっしゃくれた子供にひどい目にあわされたあげく、最後は、ちょっと「おかしな人」になってしまう。
なぜに「嫌な思い出」のしみ込んだセーターを後生大事にしまい込み、それをときどき持ち出しては匂いを嗅いだりするのだろう。これは「普通」なら、倒錯的な行動なのだけれども、しかし、嫌な思い出によってこそ、つかめる「リアルな世界」というものもあろう。わたしたちは「きれいごととしての普通」のなかでだけ生きているわけではないのだ。

「ルルちゃん」では、語り手が知り合った、「普通」に魅力的で、しかし虐げられた子供に対する情の濃い女性が登場する。この女性は、常識的には非常に真っ当な人だし、やや過剰とも思える(ある意味では、イワン・カラマーゾフ的な)「虐げられた子供たちへの愛情」についても、本人は十分に自覚的なので、決して「異常」呼ばわりするのは妥当ではないだろう。
そして、その女性が、自分の力では救えない「虐げられた子供たち」への代替的愛情表現として、人形のルルちゃんを抱きしめるという行為も、決して異常なものとか言えない。
しかし、ルルちゃんの立場に立てば、それは迷惑なものにしか感じられないだろう。だからこそ、語り手は、ルルちゃんをその女性から「盗んだ」のではなく、「救出」したのである。それが語り手の「普通」感覚なのだ。

「ひょうたんの精」は、「普通」に読めば、幻想小説か「幻想にとり憑かれた女性」の物語ということになるだろうが、他人にはそうとしか思えなくても、彼女自身はそれを少しも不都合には感じておらず、その世界観を納得して生きているのだから、彼女の世界観が否定されねばならない謂れはどこにもない。
彼女は何も「間違って」いないし、狂ってさえいない。あえて言うなら、すべての人は、程度の差こそあれ、それぞれの幻想世界に生きているからである。

「せとのママの誕生日」も、「スナックせと」に集った、元従業員の女性たちがそれぞれに語る「ほとんどあり得ない奇妙な思い出」が、「矛盾なく」交錯する世界である。
「せとのママ」がいるかぎり、彼女たちの物語は、決して否定されることはなく、むしろ他には代えがたい独自性を持つ「大切な思い出」として、そのまま存在し得るのである。

モグラハウスの扉」も、モグラさんという道路工事作業員の語った「物語」を生きる女性と、その女性とその女性の信じる世界を共有しようとする語り手の物語であり、彼女たちの間には、何の矛盾も不都合もない。

「父と私の桜尾通り商店街」にいたると、語り手が掴んで離さない「物語」は、現実の方を変えていこうとさえする勢いだ。

こうした「物語」から伝わってくるのは、私たちの持つ「普通」「常識」といった物語は、「周囲の顔色を窺い、周囲の世界観を内面化した、借り物」でしかない、ということなのではないだろうか。

たしかに無難に生きるのであれば、その方がいいのかも知れないけれど、しかしそれは、自ら進んで「凡庸な世界」を選ぶことでもある。
もしも私たちが、もっと「自分らしい世界」を生きたいと思うのであれば、「周囲の(無難な)世界」を弾き返すくらいの強度を「自分の世界」に与えなければならない。無論、それが出来るのは、「世間を目」を怖れない特別な「強者」たちであって、彼女らは、決して「敗者」などではないのである。

初出:2019年7月6日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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